弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

心理的負荷「弱」「中」「中」で業務起因性が認められた例

1.精神障害の認定基準

 精神障害であったとしても、業務上の疾病である限り、労災認定の対象になります。

 ある精神障害が、業務上の疾病と認められるか否かについては、

平成23年12月26日 基発1226第1号「心理的負荷による精神障害の認定基準について」(最終改正:令和2年8月21日 基発0821第4号)

という基準に従って判断されています。

精神障害の労災補償について|厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/content/000661301.pdf

 この認定基準では、

対象疾病の発病前おおむね6か月の間に、業務による強い心理的負荷が認められること

を業務上の疾病として取り扱うための要件にしています。

 それでは「強い心理的負荷が認められる」場合とは、具体的には、どのような場合をいうのでしょうか?

 この問題に答えるため、認定基準は、出来事毎に心理的負荷の強弱の目安を規定しています。例えば、

重度の病気やケガをした 強

悲惨な事故や災害の体験、目撃をした 中

といったようにです。

2.出来事が複数ある場合

 心理的負荷を生じさせる出来事が複数ある場合、その中に一つでも「強」とされるものが含まれていれば、業務起因性の判断に、それほど迷うことはありません。

 しかし、いずれの出来事も単独では「強」にならない場合、業務起因性の判断は不安定なものになります。

 この場合、認定基準は、

「出来事が関連して生じている場合には、その全体を一つの出来事として評価することとし、原則として最初の出来事を『具体的出来事』として別表1に当てはめ、関連して生じた各出来事は出来事後の状況とみなす方法により、その全体評価を行う。

具体的には、『中』である出来事があり、それに関連する別の出来事(それ単独では『中』の評価)が生じた場合には、後発の出来事は先発の出来事の出来事後の状況とみなし、当該後発の出来事の内容、程度により『強』又は『中』として全体を評価する。

「一つの出来事のほかに、それとは関連しない他の出来事が生じている場合には、主としてそれらの出来事の数、各出来事の内容(心理的負荷の強弱)、各出来事の時間的な近接の程度を元に、その全体的な心理的負荷を評価する。

具体的には、単独の出来事の心理的負荷が『中』である出来事が複数生じている場合には、全体評価は『中』又は『強』となる。また、『中』の出来事が一つあるほかには『弱』の出来事しかない場合には原則として全体評価も『中』であり、『弱』の出来事が複数生じている場合には原則として全体評価も『弱』となる。」

と述べています。

 つまり、心理的負荷「中」の出来事が複数ある場合、全体的な心理的負荷は「強」になる場合と「中」のままである場合に分かれることになります。

 この「強」になる場合と、「中」のままである場合が、どのように振り分けられているのかは、今一良く分かっていません。ただ、個人的な経験・観測範囲においては、「弱」や「中」の事実は、幾ら集めても、なかなか「強」にはならない傾向があるように思われます。

 しかし、近時公刊された判例集に、心理的負荷が「弱」「中」「中」の組み合わせであるにもかかわらず、精神障害とそれに続く自殺の業務起因性が認められた裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、札幌地判令2.10.14労働判例1240-47国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件です。

3.国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件

 本件は、吃音の看護師Cの自殺が、業務による心理的負荷が原因となって発症した精神障害に起因するものなのかが争われた事件です。

 原告になったのは、Cの父親です。労災保険法に基づいて遺族補償給付及び葬祭料を請求したところ、処分行政庁から不支給決定を受けました。その後、審査請求、再審査請求が棄却されたことを経て、取消訴訟を提起しました。

 この事件では、心理的負荷を生じさせる出来事として、三つの項目が検討の対象になりました。

 具体的には

ア.本件説明練習を含む指導担当者によるCに対する指導等

イ.Gとの面談において、課題を指摘され、また、試用期間が延長となったこと

ウ.患者からの苦情を受けていたこと

の三項目です。

 裁判所は、各項目の心理的負荷について、次のとおり「弱」「中」「中」と評価しました。

(項目ア)

「本件説明練習は、口頭での説明やコミュニケーションを苦手とする新人看護師(C)が、上司(H等の指導担当者)の指導の下、患者への説明を正確かつ分かりやすくできるよう、これに先立って事前に練習を行うものであり、職務上必要なものである。また、その他の指導担当者によるCに対する指導及び叱責も、業務上のミス等に対するものであって、職務上必要なものであるといえる。したがって、そのような説明練習や指導等を行うこと自体が不合理なものではない上、これまで認定説示してきた本件説明練習や指導等の態様及び内容等に照らしても、新人看護師に対する業務指導の範囲内のものであったと認められる。そして、本件説明練習を含めた指導担当者によるCに対する指導等が行われたことにより、CとH等の指導担当者との間に、客観的な対立が生じていたとまでは認められないことからすれば、Cと同種の労働者を基準として、心理的負荷の程度は『弱』と認める

(項目イ)

「Cは、第4病棟に配属されて以降、他の新人看護師と比べて、他の看護師に対する報告や調整をきちんと行うように指導されることが多かったところ・・・、報連相は、新人看護師に対して通常求められる事柄であり、また、Cのきつ音の症状は、主に緊張する場面や初対面の者に対応する場面で現れており・・・、日常的に接している他の看護師への報告等の場面はこれとは異なると考えられ、きつ音を有することが報連相を行うに当たって直ちに支障となるものとまではいえないことをも踏まえると、報連相の実施については、Cと同種の労働者にとって達成可能な課題を示されたものということができる。」

「また、採血や注射等の技術の習得についても、新人看護師に対して通常求められる以上の高度な水準を求められていたものでもないから、Cと同種の労働者にとって達成可能な課題というべきである。」

「さらに、患者とのコミュニケーション問題についても、Cは、患者への説明の際、緊張することがなければ言葉が突っかかることはなかったし、緊張が強いられるような患者についてはCの担当としないといった対応も取られていたこと(同前)、や、本件説明練習の目的は、Cがきつ音の症状を全く出すことなく、説明板の文章を滞りなく読めるようになることではなく、Cに対してそのようなことは求められていなかったこと・・・からすると、やはり、Cと同種の労働者であれば達成可能な課題を示されたものといえる。」

「そうすると、客観的にみて、Cと同種の労働者にとって、Gとの面談で示された各課題の達成に向けて従事しなければならない業務内容が質的に重大であるとまではいい難いところである。他方、これらの課題は、Cが当初の試用期間である3か月の間に求められる水準に達しなかったものであるところ、延長された試用期間は、その3分の1である1か月間であり、Gから、どの程度課題が達成されれば本採用されるかなどの具体的なことは示されておらず、Cにおいて、これが達成できなかった場合には解雇(解約)もあり得ると考えられる状態であったところ、Cと同様の立場に置かれた同種の労働者を基準としても、上記のような課題が示された不安感等による心理的負荷はある程度強いものであったといえる。」

「また、Cは、正規社員として本件法人に雇用され、雇用契約上、留保解約権の存在が明示されていたところ、2回目の面談において、Gから、延長された試用期間終了後の自己の処遇についての明言はなく、不安定な状態に置かれたといえる。また、Cは、本件病院への採用時34歳と新社会人としてはやや高齢であることからすれば、本件病院での勤務が継続できなくなった場合の再就職に対する不安は大きかったとも考えられる。そして、上記のとおり、Cは、当初の試用期間である3か月の間に、通常の新人看護師であれば到達すべき水準に達していない事項があったことも踏まえると、試用期間の延長により、示された課題につき水準に達することができずに解雇(解約)される可能性が、ある程度現実的に認識できる状態になったと認められるところ、このことは、Cと同種の労働者を基準としてその心理的負荷の程度を考えてみても、別表1において『弱』とされている『非正規社員である自分の契約満了が迫った』よりも強いものというべきである。」

「以上を踏まえると、Gとの面談において、課題を指摘され、また、試用期間が延長となったことを全体としてみると、心理的負荷の程度は『中』と認める

(項目ウ)

「患者が、Cによる説明に関して苦情を申し入れた際には、そのときCを指導している看護師が患者に対して説明するなどの対応や、Cを当該患者の担当から外すようにし、Cには、Cが緊張するような威圧的な患者を避け、比較的温厚な患者や、同じ患者を担当させるという対応が取られていた・・・。C自身が、患者からの苦情への対応のために困難な調整に当たることはなかったものの、苦情の内容は、看護業務を遂行に当たって非常に重要な患者への説明内容や患者との信頼関係に関するもので、その数も少なくなかった上、Cの業務にも、患者の担当を外されたり、対応可能な患者が限定されたりするなどの影響があったほか、他の新人看護師は行っていない本件言換練習が必要となったことにも関係しているということができ、患者の苦情を受けて、Cの業務内容や業務量には相応の変化が生じていたというべきである。以上を踏まえると、Cと同種の労働者を基準として、患者からの苦情を受けていたことについて、その心理的負荷の程度は『中』と認める

 そのうえで、裁判所は、次のとおり総合評価し、精神障害及び自殺の業務起因性を認めました。

(裁判所の判断)

「上記ア~ウで説示した出来事は、一つの出来事のほかに、それとは関連しない他の出来事が生じている場合に当たるから、主としてそれらの出来事の数、各出来事の内容(心理的負荷の強弱)、各出来事の時間的な近接の程度を元に、その全体的な心理的負荷を評価することになる・・・」

本件においては、3か月程度の期間内に、別表1における心理的負荷の強度が『中』と認められる上記イ(Gとの面談関係)及びウ(患者からの苦情関係)の各出来事が存するところ、上記ウの出来事による相応に重い心理的負荷が生じていた状況において、さらに、患者とのコミュニケーション問題を含む課題を提示され、これを改善しなければ本件病院での勤務を継続できなくなるかもしれず、その時期も迫っているという上記イの出来事による心理的負荷が加わったものである。そして、これらの出来事と重なる時期に、上記ア(指導担当者による指導等関係)による心理的負荷があったと認められることにも鑑みると、上記ア~ウの出来事に係る全体的な心理的負荷の程度は、Cと同種の労働者にとって、精神障害を発病させる程度に強度のものであったと認めるのが相当である。

(中略)

以上によれば、Cの精神障害の発病は、Cの業務に内在又は随伴する危険が現実化したものと評価できる。そして、業務によりICD-10のF0からF4に分類される精神障害を発病したと認められる者が自殺を図った場合には、精神障害によって正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、あるいは自殺行為を思いとどまる精神的抑制力が著しく阻害されている状態に陥ったものと推定できるから・・・、Cの死亡(自殺)も、Cの業務に内在又は随伴する危険が現実化したものと評価でき、業務起因性が認められる。

4.「強」がなくても業務起因性が認められることはある

 上述したとおり、個人的経験・観測の範囲内では、「弱」や「中」の出来事は、幾ら集めても、なかなか「強」のレベルには達しません。

 しかし、本件は、「弱」「中」「中」という組み合わせであったにもかかわらず、精神障害の発症及び自殺との業務起因性を認めました。

 Cは障害者(流暢性障害・吃音)でしたが、昨日紹介したとおり、心理的負荷は通常の新人看護師を基準に評価するとされています。そのため、「弱」「中」「中」という組み合わせでも業務起因性が認められたのは、被災労働者が障害者であったからだというわけではないように思われます。

 本件は「強」になる出来事がないとして労災が認められなかった方が、労災認定を勝ち取ってゆくにあたり、参考になります。

 

障害者の労災-基準とすべき労働者をどうみるか?

1.精神障害の認定基準

 精神障害であったとしても、業務上の疾病である限り、労災認定の対象になります。

 ある精神障害が、業務上の疾病と認められるか否かについては、

平成23年12月26日 基発1226第1号「心理的負荷による精神障害の認定基準について」(最終改正:令和2年8月21日 基発0821第4号)

という基準に従って判断されています。

精神障害の労災補償について|厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/content/000661301.pdf

 この認定基準では、

対象疾病の発病前おおむね6か月の間に、業務による強い心理的負荷が認められること

を業務上の疾病として取り扱うための要件にしています。

 それでは、この「強い心理的負荷」は、誰にとって強い心理的負荷であることを意味するのでしょうか?

 認定基準では、

同種の労働者が一般的にどう受け止めるかという観点から評価されるものであり、『同種の労働者』とは職種、職場における立場や職責、年齢、経験等が類似する者をいう。」

とされています。

 しかし、「同種の労働者」というのも多義的な概念です。

 例えば、元々障害を抱えている労働者が精神障害を発症した場合、基準になるのは障害を持っていない健常な平均的労働者になるのでしょうか、それとも、障害を持っている人の中での平均的な労働者になるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。札幌地判令2.10.14労働判例1240-47国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件です。

2.国・札幌東労基署長(カレスサッポロ)事件

 本件は、吃音の看護師Cの自殺が、業務による心理的負荷が原因となって発症した精神障害に起因するものなのかが争われた事件です。

 原告になったのは、Cの父親です。労災保険法に基づいて遺族補償給付及び葬祭料を請求したところ、処分行政庁から不支給決定を受けました。その後、審査請求、再審査請求が棄却されたことを経て、取消訴訟を提起しました。

 この裁判の中では、誰を基準として、強い心理的負荷が生じたかどうかを判断するのかが争点の一つになりました。

 原告は、亡Cと同種の障害を有する労働者、すなわち、重度の吃音を有する労働者(亡一郎本人)が基準とされるべきであると主張しました。

 これに対し、被告国・労基署長側は、あくまでも平均的な労働者、すなわち、日常業務を支障なく遂行できる労働者を基準とすべきであると主張しました。

 裁判所は、この論点について、次のとおり述べて、基準になるのは、特段の労務軽減なしに、通常の新人看護師としての業務を遂行できる者だと判示しました。ただし、結論としては、業務起因性を認め、原告の請求を認容しています。

(裁判所の判断)

「労災保険制度が、使用者が労働者を自己の支配下において労務を提供させるという労働関係の特質に鑑み、業務に内在又は随伴する危険が現実化した場合に、使用者に何ら過失はなくても労働者に発生した損失を填補する危険責任の法理に基づく制度であることからすると、当該業務が精神障害を発生させる危険の程度を判断する際には、同種の業務において通常の勤務に就くことが期待される一般的、平均的な労働者、すなわち、何らかの素因(個体の脆弱性)を有しながらも、当該労働者と職種、職場における立場、経験等で同種の者であって、特段の労務の軽減までは要せず、通常の業務を遂行することができる程度の心身の健康状態を有する労働者を基準とすべきである。

「原告は、労働者が障害者という属性を有している場合においては、当該労働者と同種の障害を有する労働者を基準にして業務起因性を判断すべきであり、Cはきつ音という障害を有していることを前提として雇用されていたのであるから、本件では、きつ音を有する同種の労働者を基準に業務の心理的負荷を評価すべきであると主張する。確かに、身体的障害又は精神的障害があることを理由として労務軽減が必要とされているような場合においては、当該障害を有する者とそうでない者とでは、業務に内在又は随伴する危険が現実化する可能性の程度が異なる以上、当該障害の存在を考慮せずに業務の危険性を評価することは相当でなく、当該障害については、年齢、経験等に準ずる属性として考慮し、同様の労務軽減を受けている労働者を平均的労働者と捉えて基準とすることが考えられる。しかしながら、Cについては、きつ音を有する者であることを理解し、そのことに対する配慮がされるべきことは前提にしつつも、きつ音を理由とした労務軽減が必要な者であったわけではなく、きつ音を有しながらも他の看護師と同様の勤務に就くことが期待できた者であったといえる。そうすると、Cに係る業務起因性を判断するに当たっては、きつ音を有する労働者を基準とする必要はなく、Cの有していたきつ音については、業務上の出来事を評価するに当たり、必要な限度でこれを考慮すれば足りるというべきである。

「以上からすれば、Cに係る業務起因性を判断するに当たっては、特段の労務軽減なしに、通常の新人看護師としての業務を遂行できる者を基準とすることになる。

3.国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件との整合性をどう考えるか

 障害者の労災認定にあたり、どのような労働者を基準に心理的負荷の強弱を判断するのかについては、名古屋高判平22.4.16労働判例1006-5 国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件という著名裁判例があります。

 この事件で、名古屋高裁は、心疾患障害の労働者の死亡が過重労働に起因するものかを判断するにあたり、

「労働基準法及び労災保険法が、業務上災害が発生した場合に、使用者に保険費用を負担させた上、無過失の補償責任を認めていることからすると、基本的には、業務上の災害といえるためには、災害が業務に内在または随伴する危険が現実化したものであることを要すると解すべきであり、その判断の基準としては平均的な労働者を基準とするのが自然であると解される。しかしながら、労働に従事する労働者は必ずしも平均的な労働能力を有しているわけではなく、身体に障害を抱えている労働者もいるわけであるから、仮に、被控訴人の主張が、身体障害者である労働者が遭遇する災害についての業務起因性の判断の基準においても、常に平均的労働者が基準となるというものであれば、その主張は相当とはいえない。このことは、憲法27条1項が『すべて国民は勤労の権利を有し、義務を負ふ。』と定め、国が身体障害者雇用促進法等により身体障害者の就労を積極的に援助し、企業もその協力を求められている時代にあっては一層明らかというべきである。したがって、少なくとも、身体障害者であることを前提として業務に従事させた場合に、その障害とされている基礎疾患が悪化して災害が発生した場合には、その業務起因性の判断基準は、当該労働者が基準となるというべきである。何故なら、もしそうでないとすれば、そのような障害者は最初から労災保険の適用から除外されたと同じことになるからである。

「そして、本件においては、Bは、障害者の就職のための集団面接会を経て本件事業者に身体障害者枠で採用された者であるから、当該業務による負荷が過重なものであるかどうかを判断するについても、Bを基準とすべきであり、本件Bの死亡が、その過重な負荷によって自然的経過を超えて災害が発生したものであるか否かを判断すべきである。

と述べ、死亡した労働者Bを基準にすべきだと判示しました。

 国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件は国から上告受理が申し立てられました。しかし、最高裁の第一小法廷は、受理しないという決定をしたため、名古屋高裁の判断が確定しています(最一小判平23.7.21LLI/DB判例秘書登載)。

 本件は国・豊橋労基署長(マツヤデンキ)事件との整合性が問題になります。この問題については、健常者枠で採用されているのか/障害者枠で採用されているのかが、結論に影響を与えたという説明が可能だと思われます。健常者枠の中での平均的な労働者は健常者である一方、障害者枠の中での平均的な労働者は障害者だからです。

 障害を持っている方が、健常者枠で働くのか、障害者枠で働くのかは、一長一短があり、難しい選択です。この選択にあたっては、万一、被災してしまった場合の補償のされやすさという観点も、加味してみてよいのではないかと思います。

 

大学教授の地位保全の必要性

1.地位保全の仮処分

 解雇や配転を受けると、それまでの日常生活・職業生活が一変してしまうことも少なくありません。しかし、解雇や配転の効力を争って法的な手続をとっても、裁判所の終局的な判断が得られるまでには、一定の時間がかかります。近年では労働審判という迅速な手続が活用されることにより改善が図られていますが、全ての事件が労働審判で解決するわけではありませんし、労働審判での解決に適しているわけでもありません。

 裁判所の終局的な判断を待つことができない場合、仮処分という手続を検討することになります。仮処分とは、争いがある権利関係について債権者に生ずる著しい損害又は急迫の危険を避けるため、暫定的な措置を求める手続です(民事保全法23条2項参照)。

 しかし、解雇された場合に申し立てる賃金仮払いの仮処分はともかく、それ以外の類型の仮処分は容易には認められない傾向にあります。裁判所に仮処分を認めてもらうためには、「保全の必要性」が必要だからです(民事保全法23条2項参照)。解雇されて生活が困窮している場合はともかく、それ以外の局面では、裁判所の終局的な判断を待てないような事情は認めがたいという発想が根底にあります。

 例えば、以前このブログでも紹介した、仙台地決令2.8.21労働判例1236-63 センバ流通(仮処分)事件では、賃金仮払いの仮処分とともに、地位保全の仮処分も申し立てられました。裁判所は、賃金仮払いの仮処分は認めましたが、地位保全の仮処分は、

「保全すべき権利の中核である仮払い仮処分の必要性が認められるところ、これを超えて、地位保全仮処分の必要性を認めるべき特段の事情があるとはいえない。」

などと述べて、申立を却下しています。

 こうした状況のもと、近時公刊された判例集に、薬学部教授の地位にあることを仮に定めるという内容の仮処分命令の申立てが認められた裁判例が掲載されていました。昨日、一昨日とご紹介させて頂いてる、宇都宮地決令2.12.10労働判例1240-23 学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件です。

2.学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件

 本件は配転命令の効力が争点となった仮処分事件です。

 本件で債務者になったのは、国際医療福祉大学を開学した学校法人です。債務者は、同大学の附属病院として、A病院も設置していました。

 債権者になったのは、債務者との間で、「国際医療福祉大学薬学部教授及びA病院薬剤部長」として有期雇用契約を締結していた方です。従業員等に対してハラスメントを行ったとして、債務者から薬学部教授等の地位を解任されたうえ、国際医療福祉大学病院において勤務することを命じられました(本件配転命令)。これに対し、本件配転命令の無効を主張して、薬学部教授の地位にあることを仮に定める処分を求める申立を行ったのが本件です。

 この事件では、本件配転命令の効力のほか、保全の必要性が認められるか否かも争点になりました。

 債務者は、

「債権者の主位的申立てに係る上記主張は、就労請求権を前提とするものであって、いわゆる任意の履行を求める仮処分命令であるが、このような申立てには原則として保全の必要性は認められない。そして、債権者は、本件主位的申立てが認められないことで研究活動が阻害される旨を主張するが、具体的な研究活動の内容は定かでなく、また、各種国家試験委員の地位を喪失しうる旨の主張についても、研究活動そのものではなく、研究活動との関連性も定かではない上、債権者が債務者において担当した講義は、昨年7月1日から同年12月までにおいて、『臨床薬学Ⅲ』をわずか1回だけ担当したのみであるから、薬学部教授として後進を育成するという観点からみても、何ら支障が生じていないことは明らかである。債権者の主位的申立てには、保全の必要性が認められるべき例外的な事情がないことは明らかであり、保全の必要性につき疎明されていないから、却下されるべきである。」

と主張し、保全の必要性を争いました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、保全の必要性を認めました。

(裁判所の判断)

「債権者と債務者との間には本件職種限定合意の成立が一応認められ、本件配転命令は、この合意に反するものとして無効であるが、ただ、その場合、債権者が薬学部教授として地位にあることを仮に定めるのでなければ、その結果として、上記1(1)ウで認定した重要な研究課題に関する研究助成金の交付を受けられないなど、債権者の研究活動等に重大な支障が生じることが高度の蓋然性をもって予測されるところである。そうすると、債権者は、かかる研究者にとって致命的ともいえる不利益を回避するため、現実に債務者に対して薬学部教授として就労をすることを求める特別の利益を有するものと解するのが相当であるから、この点に関する債権者の主位的申立てには保全の必要性が認められるものというべきである。

 ※ 上記1(1)ウ

「債務者は、所属する教員各位に対し、人事評価の一環として、大学教育の質を上げるため、教員が自らの大学に対する貢献を客観的に把握し、各人が更に上を目指し努力を重ねることを目的とする『教育研究活動報告書』の作成・提出を求め、1年間における担当科目数・コマ数、執筆した論文・著書数、研究助成金の獲得数、学会発表回数等を報告させた・・・。」

「債権者は、平成31年度において、臨床薬学Ⅲの授業を1回担当し、論文を16本、著書を1冊それぞれ執筆し、公的研究費を1件支給され、また、国際学会での発表を5本、国内学会での発表を17本担当した・・・。」

「令和2年度においては、研究助成金を3件獲得した。助成金の内訳は、20万円、20万円及び80万円である・・・。」

「ちなみに、債権者は、債務者の薬学部教授に就任した後も、債務者課題『I』として、平成30年から令和2年を期間とする研究助成金を受け、△△大学付属病院が収集したデータの解析、評価及び論文化を担当し、助成金の規模は、平成30年が689万円、令和元年及び同2年がいずれも520万円であった・・・。」

3.大学教授の法的地位の特殊性

 大学教授の法的地位の特殊性は、本ブログでも、

大学教授の就労請求権 - 弁護士 師子角允彬のブログ

大学教授会への出席・参加に権利性が認められた事例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

大学教授の特殊性-名誉教授の称号授与の可能性と戒告・譴責の無効を確認する利益 - 弁護士 師子角允彬のブログ

など記事で紹介してきました。

 本件は広い意味で就労請求権を認めた事例の一つとして位置付けられる裁判例であると思われます。

 裁判所は、大学教授の研究活動を進める利益を、かなり重視しています。通常の労働者には認められない請求・申立が認められる可能性もあるため、労働問題でお困りの方は、ネットでの一般論の収集に留まらず、知見のある弁護士に相談してみることを、お勧めします。

 

職種限定合意を解除する配転合意と「自由な意思」

1.職種限定合意と配転合意

 職種限定の合意とは、

「労働契約において、労働者を一定の職種に限定して配置する(したがって、当該職種以外の職種には一切つかせない)旨の使用者と労働者との合意」(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、初版、平29〕203頁参照)

をいいます。

 職種限定の合意は、使用者の配転命令に対し、抗弁として機能します。つまり、職種限定の合意が認められる場合、配転命令を拒否することができます。

 しかし、職種限定の合意も、合意である以上、別の合意によって上書きすることができます。職種限定の合意があったとしても、別途、配転合意が成立した場合、使用者は、新たに成立した配転合意により、異動を命じることができます。

 それでは、一旦配転合意を成立させてしまったら、職種限定合意のある労働者であったとしても、最早異動を拒否することはできなくなってしまうのでしょうか?

 職種限定合意のある労働者にとって、配転を受け入れることは、不慣れ・不本意なキャリアを歩まされることを意味します。このような不利益性の強い合意についても、錯誤、詐欺、強迫などの瑕疵がない限り、一旦合意してしまった以上は、有効なものとして取り扱われてしまうのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。昨日もご紹介した、宇都宮地決令2.12.10労働判例1240-23 学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件です。

2.国際医療福祉大学(仮処分)事件

 本件は配転命令の効力が争点となった仮処分事件です。

 本件で債務者になったのは、国際医療福祉大学を開学した学校法人です。債務者は、同大学の附属病院として、A病院も設置していました。

 債権者になったのは、債務者との間で、「国際医療福祉大学薬学部教授及びA病院薬剤部長」として有期雇用契約を締結していた方です。従業員等に対してハラスメントを行ったとして、債務者から薬学部教授等の地位を解任されたうえ、国際医療福祉大学病院において勤務することを命じられました(本件配転命令)。これに対し、本件配転命令の無効を主張して、薬学部教授の地位にあることを仮に定める処分を求める申立を行ったのが本件です。

 昨日言及したとおり、本件では職種限定の合意が認定されました。

 しかし、債権者は本件配転命令の後、債務者との間で、労働条件の変更された「雇用契約書兼労働条件通知書」を取り交わしていました(本件配転合意)。債務者は、本件配転合意が認められる以上、病院勤務を命じる配転は有効だとも主張しました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり述べて、合意の成立を否定しました。

(裁判所の判断)

本件配転合意は、前記・・・に記載のとおり、本件職種限定合意の効果を排除し、これに反した配転をすることに同意することを内容としたものであって、これにより労働者たる債権者は一定の不利益を被ることになるのであるから、このような合意の成否については、当該不利的変更を受け入れる旨の記載がある書面等に署名・押印するなどといった労働者の行為だけでなく、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供または説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと一応認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点を踏まえて判断することが相当である(最高裁平成28年2月19日第二小法廷判決・民集70巻2号123頁参照・上記のとおり『一応』を付記した理由は本件が保全事件であることによる。)。」

「債権者は、本件ハラスメント認定以前からこれに対する債務者の対応(特に自宅待機命令)に代理人弁護士を通じて異議を表明していたものであり、実際に本件ハラスメント認定を理由に本件配転命令を受けた後も、本件ハラスメント認定を含め、その配転の内容それ自体に異議を述べ、本件配転命令の無効を主張して当庁に対し本件申立てを行い、法的な救済を求めていたことに加え、本件配転合意書の署名・押印時においても、本件配転命令の効力を争わないことを明示的に確認した事実はなく、むしろ、わずか10分程度でその手続が終了したというのであるから、本件配転合意書の上記内容を認識しつつ異議を述べずに署名・押印を行ったからといって、その署名・押印が債権者の自由な意思に基づいてされたものであるとはいい難く、むしろ、上記のとおり病院職員証の返却やY1大学病院への着任等につき債務者からの要望に応じたのと同様、無用な混乱等を避け、給与や手当の支給手続が円滑に進むよう、とりあえず本件配転合意書への署名・押印に応じたものであって、それは飽くまで債務者との無用な軋轢を回避するための暫定的な取決めに過ぎなかったものとみるのが合理的である。」

「そうすると、債権者が、令和2年9月9日、債務者の担当者から本件配転合意書を示され、これに格別異議を述べることなく署名・押印し債務者に提出しており、その際、債務者の担当者は、その内容について本件配転命令時に交付した通知書と同じであると説明していたというのであるから、債権者は、本件配転合意書が本件配転命令に同意することを内容とする書面であることを認識しつつ同書面に署名・押印したことが一応うかがわれるほか、病院職員証の返却やY1大学病院への着任等本件配転命令を前提とした債務者からの要望にも応じていた事情等を踏まえても、本件配転合意書への署名・押印が債権者の自由な意思に基づいてされたものと一応認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するものとはいえず、本件配転合意の成立は一応も認められないものというべきである。

「なお、債務者は、本件配転合意書の記載内容は一見して明白であることや、上記・・・のとおり、本件配転合意書の署名・押印に先立ち、債権者代理人弁護士からは、人事的な事項に関する連絡等について直接債権者本人に連絡してよいと言われたことを指摘するが、上記のとおり、債権者は、本件配転命令に対し、一貫して異議を述べている上、本件配転命令に従わないことで生じる混乱を防ぐために、債務者からの種々の要求に暫定的に応じていたと認められるから、本件配転合意書の署名・押印についても、それらと同様に、債権者は、本件配転命令の効力が確定するまでの間の暫定的な勤務状態を受け入れる意図で署名・押印したものというべきであるから、債務者の上記指摘は上記結論を左右しない。」

3.配転合意にも「自由な意思」が必要

 上述のとおり、裁判所は、配転合意にも「自由な意思」が必要であるとの理解を示しました。「自由な意思」が必要であるとする考え方は、従来、賃金や退職金減額の場面で採用されてきた議論です。その適用範囲は徐々に拡張されてきましたが、職種限定合意のある労働者との間での配転合意にも妥当すると判示した裁判例は、おそらく本件が初めてではないかと思います。

 本件のようにハラスメントの嫌疑をかけられていたり、整理解雇を含意した退職勧奨を受けたりした場面では、職種限定の合意が認められる場面であっても、不安に駆られて配転合意を交わしてしまう例が散見されます。

 そうした労働者が事後的に合意の効力を争うにあたり、本裁判例は有力な武器になることが期待されます。

 

黙示の職種限定合意が認められる職業類型-大学教授(薬学部教授)

1.職種限定合意

 職種限定の合意とは、
「労働契約において、労働者を一定の職種に限定して配置する(したがって、当該職種以外の職種には一切つかせない)旨の使用者と労働者との合意」(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務』〔青林書院、初版、平29〕203頁参照)
をいいます。

 使用者には広範な配転命令権が認められています(最二小判昭61.7.14労働判例477-6 東亜ペイント事件)。そのため、不本意な異動を命じられたとしても、配転命令権の濫用を理由に、その効力を争える場面は、かなり限定的です。

 しかし、職種限定の合意を導くことができれば、東亜ペイント事件の枠組みに依拠しなくても、不本意な異動の効力を争うことができます。

 職種限定の合意は、明示的なものだけではなく、黙示的ものが成立していることもあります。そして、「医師、看護師、ボイラー技士などの特殊の技術、技能、資格を有する者については職種の限定があるのが普通」(菅野和夫『労働法』〔弘文堂、令元、第12版〕729頁参照)であると理解されています。

 それでは、医師、看護師、ボイラー技士のほか、特殊の技術等を有しているとして、職種限定の合意が認められやすい職業には、どのようなものがあるのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、大学教授(薬学部教授)について、黙示の職種限定の合意が認められた裁判例が掲載されていました。宇都宮地決令2.12.10労働判例1240-23 学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件です。

2.学校法人国際医療福祉大学(仮処分)事件です。

 本件は配転命令の効力が争点となった仮処分事件です。

 本件で債務者になったのは、国際医療福祉大学を開学した学校法人です。債務者は、同大学の附属病院として、A病院も設置していました。

 債権者になったのは、債務者との間で、「国際医療福祉大学薬学部教授及びA病院薬剤部長」として有期雇用契約を締結していた方です。従業員等に対してハラスメントを行ったとして、債務者から薬学部教授等の地位を解任されたうえ、国際医療福祉大学病院において勤務することを命じられました(本件配転命令)。これに対し、本件配転命令の無効を主張して、薬学部教授の地位にあることを仮に定める処分を求める申立を行ったのが本件です。

 この事件では、本件配転命令が、職種限定合意との関係で許されないのではないかが争点の一つになりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、黙示の職種限定合意の成立を認定しました。

(裁判所の判断)

「本件職種限定合意とは、債権者の職種(職位)を薬学部教授の地位に限定し、当該職種以外に債権者を異動させないことを内容とする合意をいうが、前記のとおり、本件雇用契約書においてはもとより、債務者の就業規則(職員・教員)のほか、債権者に対する募集内容や内定通知書の記載内容等によっても、債権者の職種(職位)を薬学部教授に限定することを定めた明文の規定は認められず、その他、採用時及びその後の交渉経過において明示的に上記職種限定合意が取り交わされた形跡もうかがわれないのであるから、明示の合意により本件職種限定合意が成立したとは一応も認められない。

「もっとも、本件職種限定合意は黙示の合意による成立を否定するものではないから、以下、この点につき検討する。」

「前記・・・のとおり、債権者は債務者に薬学部教授として採用されたものであるところ、このような一定の専門性を有する職種(職位)にある者については、採用時及び採用後の交渉経緯、他の職員の雇用・採用条件との相違、職務遂行において求められる職務・資格・技能等の専門性・特殊性の内容・程度等を総合考慮の上、当該労働者の専門技術性等が労働契約締結及びその後の職務遂行過程において不可欠の前提条件とされており、他職種への不異動が想定されていたか否かという観点を踏まえ、黙示の本件職種限定合意の成否を判定すべきものと解される。」

「前記・・・において一応認定したとおり、

(ア)債務者においては、そのホームページ上、他の職員とは別に、『教職員採用情報』という独自のページを作成した上、その募集要項において募集職位を『薬学部教授、准薬学部教授、講師、助教、助手』と定め、そのうち薬学部教授と准教授については応募資格を『博士号を有する者』であって『実務経験を有する者』を条件としているほか、エントリーシートや履歴書において、それまでの大学・大学院等における教育経験、免許・資格、職歴、学会等における活動歴や賞罰等の詳細を記載した書面の提出を求めたこと、また、

(イ)債務者は、平成30年12月、薬学部のある各大学の学部長及び各病院長に対し、A病院のオープンに向けた医療スタッフの更なる充実を図ることを目的として『Y1大学A病院 薬剤部責任者・役職者等の公募について』と題する公募文書を送付し、A病院の薬剤部責任者、役職者として勤務しながら、債務者の医学部若しくは薬学部の教員を兼務することができる人材を募集したこと、そして

(ウ)これら債務者の公募活動等を受け、債権者は、債務者に対し、現職、専門分野、薬物動態学・毒性学、臨床薬理学、薬物性腎障害、臨床施設での臨床経験及び大学・大学院等での教育経験、希望学部・学科等などを記載した平成31年1月1日付け『Y1大学 専任教員応募エントリーシート』を作成した上、学歴、学位(博士(薬学))、職歴、学会活動等を記載した『履歴書(専任教員)』(平成31年1月1日現在のもの)及びこれまでに債権者が執筆した論文等、取得した特許、担当した講演、国際会議等(106件)及び競争的資金の獲得状況を記載した『業績目録』(平成31年1月1日現在のもの)を提出したこと、そうしたところ、

(エ)債務者は、平成31年3月13日付けで、債権者に対し、『Y1大学A病院薬剤部長兼Y1大学 教授』として採用することが内定したことを伝え、その任用条件として、『所属:Y1大学 A病院兼薬学部薬学』、『職位:薬剤部長および教授』、『職務:上記職位に付随する業務』、『任用:任期付専任教員』などの記載がある書面を交付したこと、そして

(オ)債権者は、令和元年7月1日、上記の任用条件により、債務者との間で雇用契約を締結し、平成31年度において、臨床薬学Ⅲの授業を1回担当し、論文を16本、著書を1冊それぞれ執筆したほか、公的研究費を1件支給され、また、22の学会において発表を行い、その後、令和2年4月1日から翌年3月末までを期間として本件雇用契約を更新し、令和2年度においては、研究助成金を3件獲得したこと

が一応認められるから、これらの事情を合わせ考慮すると、学位(薬学博士号)に示された債権者の薬学に関する専門的・学術的知見等は、本件雇用契約の締結及びその後の職務遂行過程において不可欠の前提条件とされていたものということができ、債務者は、かかる債権者の専門性・学術性の高さに着目した上、債権者は余人をもっては容易に代えがたい人材として本件各雇用契約を締結し、『薬学部教授』としての職位を付与したものであって、その地位(職位)は他の職種(例えば薬剤師)との間に互換性を有しないものとみるのが合理的である。

「前記・・・によれば、①本件雇用契約上、債権者は薬学部教授のほかに薬剤部長としての職務遂行が求められており、②債務者の就業規則(教員)が債務者の教員につき職種を限定する規定を置いていないことからみて、本件雇用契約上、債権者の他職種(特に薬剤師)への異動も一応想定されているようにもみえる。」

「しかし、債務者は、上記のとおり、A病院の開設に先立って、薬剤部の責任者と薬学部の教職とを兼任できる者に絞って公募していたのであるから、債務者においては、新たに開設する病院の薬剤部を運営する能力のみならず、債務者において開設している大学において、学生の指導をする能力を兼ね備えた者を採用することを念頭に置いていたものであって、それに応じ、債権者は債務者に応募したものとみるのが自然である。そうすると、本件各雇用契約の締結やその後の職務遂行過程において、債権者は、薬剤部の管理者のほか、薬学部教授として研究・教育活動を行うことが想定されていたものというべきであるから、職位の一つとして『薬剤部長』の肩書きが付与され、薬剤師の資格を有することが望ましいとされていることは、薬学部教授の地位につき職種限定合意を認定する妨げとはならない。」

「むしろ、債務者においては、教職員、医師、医師を除いた看護師や薬剤師等の専門職職員、その他の事務職員について、その採用手続、労働条件がそれぞれ別個に定められ、適用される就業規則も異なること、教職員である薬学部教授が締結する雇用契約は、薬剤師とは異なり1年間の任期付きの労働契約であって、その各更新に当たっては、当該教員の教育・研究に関する勤務評定、当該業務の必要性及び大学の経営状況その他諸般の事情を総合的に勘案し判断するものとされるほか、大学教育の質を上げるため、人事評価の一環として、『教育研究活動報告書』の作成・提出を求めている一方、学長、副学長、学部長、副学部長らから構成される薬学部教授会の一員として債務者の学則が規定する組織の中でも格別の地位が付与されていること、そして、平成28年から本件配転命令時までの間、債務者のY1大学薬学部においては、教職員からその他の職種に配置換えされた者はいないことなどの事情を合わせ考慮すると、債務者においては組織として『薬学部長』の職位にある者を他職種に異動させることは想定されていなかったものとみるのが自然である。」

「以上の検討結果によれば、本件各雇用契約の締結及びその後の職務遂行において、債権者が有する薬学に関する専門的・学術的知見等は不可欠の前提条件とされており、かつ、債務者においては組織として『薬学部教授』の他職種への異動は想定していなかったものというべきであるから、一応、債権者と債務者との間には黙示の合意による本件職種限定合意が成立していたものと認められる。

3.大学教授の特殊性

 大学教授には、就労請求権が認められやすいなど、通常の労働契約にはない種々の特殊性があります。今回、黙示の職種限定合意が認められたことも、その法的地位の独特さを物語っています。

 個人的な経験に照らすと、大学は、組織が巨大である割に、適切な人事労務管理がなされていないことが珍しくないように思います。普通の労働契約では使えないような法律構成が使える場合もあるため、労働問題で困ったときには、適切な知見のある弁護士に面談で相談してみることを推奨します。

 

長年慣れ親しんだ業務からのキャリアを無視した配転

1.キャリアを無視した配転命令

 長年同系統の業務に従事していたにもかかわらず、突然畑違いの部署への配転を命じられたと相談を受けることがあります。その仕事でキャリアを築き上げてきたという誇りを傷つけられたという気持ちや、新たな仕事を一から覚えなければならない不安から、こうした配転命令の効力を争いたいという方は、決して少なくありません。

 しかし、配転命令の効力を争うことは、残念ながら容易ではありません。

 配転命令を争うための法律構成としては、大きく言って、

職種限定の合意を主張するパターン、

権利濫用を主張するパターン、

の二通りが考えられます。

 しかし、職種を限定として会社から雇用される方は、まだまだ少ないのが実情です。そして、単に長年同系統の仕事に従事していたというだけで、職種限定の合意が認められることは、あまりありません。

 争うのが容易でなことは、権利濫用を主張するパターンでも同様です。

 配転命令権の濫用と認められるか否かの判断枠組みに関して、最高裁は、

「使用者は業務上の必要に応じ、その裁量により労働者の勤務場所を決定することができるものというべきであるが、転勤、特に転居を伴う転勤は、一般に、労働者の生活関係に少なからぬ影響を与えずにはおかないから、使用者の転勤命令権は無制約に行使することができるものではなく、これを濫用することの許されないことはいうまでもないところ、当該転勤命令につき業務上の必要性が存しない場合又は業務上の必要性が存する場合であつても、当該転勤命令が他の不当な動機・目的をもつてなされたものであるとき若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき等、特段の事情の存する場合でない限りは、当該転勤命令は権利の濫用になるものではないというべきである。」

と判示しています(最二小判昭61.7.14労働判例477-6 東亜ペイント事件)。

 これによると、

① 業務上の必要性がない場合、

② 業務上の必要性があっても、他の不当な動機・目的のもとでなされたとき、

③ 業務上の必要性があっても、著しい不利益を受ける場合、

に配転命令は権利濫用として無効になります。

 しかし、「業務上の必要性」に関しては、

「当該転勤先への異動が余人をもつては容易に替え難いといつた高度の必要性に限定することは相当でなく、労働力の適正配置、業務の能率増進、労働者の能力開発、勤務意欲の高揚、業務運営の円滑化など企業の合理的運営に寄与する点が認められる限りは、業務上の必要性の存在を肯定すべきである。」

と極めて緩やかに理解されています(前掲・東亜ペイント事件)。

 そのため、①の業務上の必要性が否定される場面は、極めて限定的されています。

 また、②の不当な動機・目的といった主観的意図の立証は、秘匿されることが多いこともあり、一般論として決して容易ではありません。

 ③についても、単なる不利益では足りず、「著しい」不利益が必要だと理解されていることが高いハードルになっています。元々、典型的な日本型雇用が配転を繰り返す仕組みであることから、慣れ親しんだ仕事から未経験の業務に移されたというだけでは、不利益性が「著しい」というレベルにまで振れにくいのです。

 したがって、どれだけキャリアを無視した配転命令であったとしても、実務上、配転命令が無効になるケースを目にすることは、あまりありませんでした。

 しかし、近時公刊された判例集に、キャリアを無視した配転命令の効力を争うにあたり、注目すべき裁判例が掲載されていました。名古屋高判令3.1.20労働判例1240-5 安藤運輸事件です。

2.安藤運輸事件

 本件で被告・控訴人になったのは、一般貨物自動車運送事業等を目的とする株式会社です。

 原告・被控訴人になったのは、昭和39年7月生まれの男性であり、運送業を営む会社に勤務し、配車業務や運行管理業務に従事してきた方です。平成12年には運行管理者の資格を取得しています。被告には、平成27年10月15日付けで雇用契約を締結し、配転命令を受けるまでは、運行管理業務・配車業務に従事していました。

 しかし、平成29年5月30日、被告は、原告に対し、配転命令権を行使して、本社倉庫部門での勤務を命令しました(本件配転命令)。これに対し、本件配転命令の効力を争い、原告が本社倉庫部門に勤務する雇用契約上の義務の不存在確認を求めて提訴したのが本件です。

 一審裁判所(名古屋地判令元.11.12)は、次のとおり述べて、配転命令の効力を否定しました。

(一審裁判所の判断)

「原告と被告との間において、原告を運行管理業務以外の職種には一切就かせないという趣旨の職種限定の合意が明示又は黙示に成立したことは認められない。」

「もっとも、原告が被告に採用されるに至った経緯をみると、被告において運行管理業務や配車業務を行える人材が不足していたため、これらの担当者を求人していたものであり、求人票・・・にも『必要な経験等』欄に『不問(経験者優遇)』、『求人条件特記事項』欄に『入社後、運行管理者の資格を取得していただきます』との記載がある。そうすると、原告は、運行管理者の資格を取得し、複数の会社で運行管理業務や配車業務の経験を有していたところ、これらを被告に見込まれ、運行管理業務や配車業務を担当すべき者として中途採用されたことは明らかである。」

「また、第1回面接時に、原告は、面接を担当した被告の総務課長から、前の会社を辞めた理由を尋ねられ、配車業務・運行管理業務をしたかったが、配車業務から夜間点呼業務に異動させられたためと説明をしたところ、同課長から夜間点呼業務に異動させることはないとの説明を受けている。」

「実際、原告は、採用後、直ぐに運行管理者に選任され、運行管理業務や配車業務を担当し、さらに、3か月弱で統括運行管理者に選任されている。」

「これらによれば、原告が被告において運行管理者の資格を活かし、運行管理業務や配車業務に当たっていくことができるとする期待は、合理的なものであり、法的保護に値するといわなければならない。そうすると、被告において、配転に当たっては、原告のこのような期待に対して相応の配慮が求められるものといわなければならない。」

(中略)

「第1、第2倉庫の現場作業は基本的にY1倉庫の従業員が担当していること、本件配転命令時に想定されていた倉庫部門の業務内容の範囲が不明瞭であること、第2倉庫の新設を踏まえても倉庫業務の業務量はさほどではないことがうかがわれること、原告の職歴からして原告の能力・経験が倉庫業務に活きるとは考えにくく、他に適性があると思料される者も存在したこと等によれば、人員増員の必要性及び適性のいずれの観点においても原告を配転しなければならない必要性は高いものではなかったと評価できる。

(中略)

「確かに、本件配転命令によって、原告はこれまで毎月1、2万円は支給されていた休日手当を受けることができなくなったものの、賃金の引き下げ自体はないこと、勤務地も従前の名四車庫から約4km離れた本社への変更となったにすぎないこと・・・は、被告の主張するとおりであり、経済的・生活上の有意な不利益が生じたとはいえない。」

しかしながら、本件配転命令の配転先である倉庫部門における業務内容は、原告が有する運行管理者として運行管理業務及び配車業務に携わり、培ってきた能力・経験を活かすことができるという前記の原告の期待に大きく反するものである。前記・・・のとおり、被告から原告に対し、新規顧客開拓の営業業務が命じられている点や本件配転命令時に想定されていた倉庫業務の業務内容の範囲が不明瞭であり、今後、被告から原告に対して慣れない肉体労働の側面を有する本件デバンニング作業等の作業や現場作業を命じられる可能性が十分にあることも看過できない。

これらによれば、本件配転命令は、原告に対し、通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものといえる。

「以上の検討によれば、本件配転命令は、業務上の必要性が高くないにもかかわらず、被告において、運行管理者の資格を活かし、運行管理業務や配車業務に当たっていくことができるとする原告の期待に配慮せず、その能力・経験を活かすことのできない業務に漫然と配転したものであり、通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものといわざるを得ない。これによれば、本件配転命令は、権利の濫用に当たり無効と評価するのが相当である。」

 これに対して、被告側が控訴したのが本件です。

 二審判決は、次のとおり文言の微調整を行ったほか、一審判決の上記判示を維持しました。赤色の部分が改め文によって修正された部分です。

(二審裁判所の判断)

「これらによれば、原告が被告において運行管理者の資格を活かし、運行管理業務や配車業務に当たっていくことができるとする期待は、合理的なものであって、単なる被控訴人の一方的な期待等にとどまるものではなく、控訴人との関係において法的保護に値するものといわなければならない。そうすると、被告において、配転に当たっては、原告のこのような期待に対して相応の配慮が求められるものといわなければならない。」

(中略)

「しかしながら、本件配転命令の配転先である倉庫部門における業務内容は、原告が有する運行管理者として運行管理業務及び配車業務に携わり、培ってきた能力・経験を活かすことができるという前記の原告の期待に大きく反するものである。前記・・・のとおり、被告から原告に対し、新規顧客開拓の営業業務が命じられている点や、前記・・・のとおり、本件配転命令時に想定されていた倉庫業務の業務内容の範囲が不明瞭であり、今後、被告から原告に対して慣れない肉体労働の側面を有する本件デバンニング作業等の作業や現場作業を命じられる可能性が十分にあることも看過できない。」

上記の事情に、前記・・・のとおり、控訴人を倉庫部門に配転しなければならない必要性があったとしても高いものではなく、かつ運行管理業務及び配車業務から排除するまでの必要性はなかったことを併せ考慮すると、本件配転命令は、原告に対し、通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものといえる。」

以上の検討によれば、本件配転命令は、そもそも業務上の必要性がなかったか、仮に業務上の必要性があったとしても高いものではなく、かつ、運行管理業務及び配車業務から排除するまでの必要性もない状況の中で、控訴人において、運行管理者の資格を活かし、運行管理業務や配車業務に当たっていくことができるとする被控訴人の期待に大きく反し、その能力・経験を活かすことのできない倉庫業務に漫然と配転し、被控訴人に通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせたものであるから、本件配転命令は、権利の濫用に当たり無効と解するのが相当である。

3.キャリアを無視した配転に対抗するための根拠

 本件は、職種限定合意が認められない場合においても、労働者が積み重ねてきたキャリアの積み重ねに向けた期待を法的保護に値するものと判示しました。そして、これを東亜ペイント事件の判断枠組みに取り込むことによって、労働者の保護を図りました。

 この判断はかなり画期的なもので、配転命令の効力を争うことが容易でなかった労働者側にとって重要な先例となる可能性を持っています。

 依然として勝ちにくい類型であろうことは否定できませんが、今後、キャリア形成の観点からあまりに酷な配転を告げられた方は、本裁判例を根拠に、その効力を争って行くことが考えられます。

 

アカデミックハラスメント-論文の共著者からの除外

1.アカデミックハラスメント(アカハラ)

 大学等の養育・研究の場で生じるハラスメントを、アカデミックハラスメント(アカハラ)といいます。

 セクシュアルハラスメントに関しては、平成18年10月11日 厚生労働省告示第615号「事業主が職場における性的な言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(最終改正:令和2年1月15日 厚生労働省告示第6号)が概念定義や類型化を行っています。

https://www.mhlw.go.jp/content/000643869.pdf

 マタニティハラスメントに関しては、「妊娠、出産等に関するハラスメント」として、平成28年8月2日 厚生労働省告示第312号「事業主が職場における妊娠、出産等に関する言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(最終改正:令和2年1月15日 厚生労働省告示第6号)が概念定義や類型化を行っています。

https://www.mhlw.go.jp/content/000643875.pdf

 パワーハラスメントに関しては、令和2年1月15日 厚生労働省告示第5号「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」が概念定義や類型化を行っています。

https://www.mhlw.go.jp/content/11900000/000584512.pdf

 しかし、アカデミックハラスメントに関しては、これを直接規制する法令が存在しません。法律用語として定義が設けられているわけでもなければ、法令による類型化が試みられているわけでもありません。そのため、社会的実体として存在していることは分かるものの、法令上の根拠のあるハラスメントの類型に比して、何をどこまでやれば違法になるのかが、分かりにくいという特徴があります。

 曖昧な部分が大きいことから、違法性が認められる行為類型に関心を持っていたところ、近時公刊された判例集に、論文の共著者からの除外に不法行為法(国家賠償法)上の違法性を認めた裁判例が掲載されていました。名古屋地判令2.12.17労働判例ジャーナル110-48 東海国立大学機構事件です。

2.東海国立大学機構事件

 本件で被告になったのは、名古屋大学を設置及び運営している国立大学法人(被告機構)と原告の指導教員(被告P3)です。

 原告になったのは、平成24年4月から平成28年3月まで名古屋大学医学系研究科の博士課程に在籍していた方です。平成28年3月に博士課程を満期退学した後も、客員研究員としての在籍を継続していました。指導教員である被告P3からいわゆるアカデミックハラスメントを受けたとして、被告機構らに損害賠償(国家賠償)を求める訴えを提起したのが本件です。

 原告からアカデミックハラスメントとして問題視された行為は多数に上りますが、その中の一つに、論文の共著者からの除外がありました。

 原告が所属していた被告P3の統括するグループは、平成28年4月頃に、P5を筆頭著者とする論文(本件論文)を発表しました。本件論文には、草稿段階では共著者として原告の氏名が挙げられていましたが、正式に発表された論文の共著者からは原告の氏名が除外されていました。

 このことについて、原告は、

「被告P3が原告を本件論文の共著者から除外したのは、原告を疎ましく思っていたからであり、原告に対する嫌がらせの意図でされたもので、違法である。」

と主張しました。

 これに対し、被告機構らは、

「本件論文は、草稿段階では原告の提供する実験データが使用されていたが、その後に査読者から指摘を受けて、大きな改変及び追加の実験が必要となり、他の大学院生の協力の下で作成し直したものである。被告P3は、オーサーシップに関する考え方に基づいて、原告は共著者から外れるという判断をしたにすぎず、原告に対する嫌がらせ等の意図はなかった。」

と反論しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、被告P3の措置に違法性を認めました。

(裁判所の判断)

「いわゆるアカデミックハラスメントとは、研究及び教育機関における教員等の優位な立場にある者から学生等の劣位な立場にある者に対してされる、ハラスメント行為の一つであり、ハラスメントの受け手である学生等の人格権等の権利利益の侵害になり得るものであるが、他方で、学生等に対する教育上の見地から、教員等には研究教育上の一定の裁量が認められるところであり、教員等の学生等に対する言動が不法行為法上の違法行為に該当するかは、両当事者の立場及びその優劣の程度のほか、当該行為の目的や動機経緯、立場ないし職務権限等の濫用の有無、方法及び程度、当該行為の内容及び態様並びに相手方の侵害された権利利益の種類や性質、侵害の内容及び程度等の諸事情を考慮して、当該行為が教員等の学生等に対する研究教育上の指導として合理的な範囲を超えて、社会的相当性を欠く行為といえるかどうかにより判断するのが相当と解される。このことは、大学院の博士課程に在籍する大学院生であっても、博士課程修了後の客員研究員として在籍する者であっても変わらないと解される。

(中略)

「本件論文の共著者としては、草稿段階では原告を含む11名とされていたが、最終稿では、責任著者である被告P3の判断により草稿段階の共著者から原告のみが除外され、新たに本件グループの2名が共著者に追加されており、本件グループのメンバーは原告を除き全員が共著者となったことが認められる。」

「被告P3は、上記共著者の変更について、草稿段階では原告の提供する実験データが使用されていたが、その後に査読者から指摘を受けて、大きな改変及び追加の実験が必要となり、他の大学院生の協力の下で作成し直したものであり、オーサーシップに関する考え方に基づいて、原告は共著者から外れるという判断をしたと主張し、その旨の供述等をしている・・・。」

「被告P3が主張するオーサーシップに関しては、医学雑誌編集者国際委員会の作成したガイドライン(以下「本件ガイドライン」という。)によれば、生物医学雑誌への投稿論文に著者として氏名が掲載されるには、

〔1〕研究の構想・立案、データの収集、あるいはデータの解析及び解析結果の解釈のいずれかに実質的に貢献していること、

〔2〕論文の原稿を書くか、その論文の内容にかかわる極めて重要な構成・改訂作業に関わっていること、

〔3〕掲載される最終版の原稿の中身を理解し、承認していること、

〔4〕論文のあらゆる側面について、論文の正確性・真正性に疑義が寄せられたときに適切に説明することができること

の4つの条件をすべて満たすことが必要とされている・・・。被告P3も、本件ガイドラインを参照して本件論文の共著者を決定したとしていることから、原告を共著者から外したのは、草稿段階からの改変の結果、データの収集等に実質的に貢献しているとは認められなくなったと判断したものと解される。確かに、本件論文が発表された平成28年4月頃は、原告が本件研究科の博士課程を満期退学した時期で、原告は本件論文の改変作業等には加わっていなかったと認められる・・・。しかし、改変作業等に原告を除く他の共著者全員が関与していたとは考え難い。また、本件論文の最終稿においても、原告が実験したデータが相当数使用されている・・・。これらの点からすると、本件ガイドラインに従えば、最終稿においても原告を共著者とするのが相当であり、被告P3の上記判断は相当性に欠けるものであるただし、原告が主張するように、被告P3が、原告に対する嫌がらせ目的で共著者から除外したとまで認めるに足りる証拠はない。)。」

「加えて、研究者にとって、論文の共著者に名を連ねることは、自らの研究実績を示すものとして重要な事柄であり、責任著者の判断で、草稿段階で共著者となっていた者を最終稿で共著者から外すのであれば、責任著者は、該当者に対し、その事情を説明することが必要であると解されるところ、被告P3は、原告の指導教員でありながら、原告に対して何らの説明をすることなく、最終稿において原告を共著者から除外した・・・。

「上記検討からすれば、被告P3は、相当な理由がなく原告を共著者から除外し、かつ、共著者から除外する理由を原告に対して説明することなく、自己の一方的な判断で原告を共著者から除外しており、原告が実験を行い、本件論文の作成に関与、貢献したことを正当に評価されることを妨害したと評価される。被告P3は、共著者からの除外を原告に対する嫌がらせ目的で行ったとまで認められないものの、自己が原告の指導教員として優位的な立場にあることから、原告の立場に配慮をすることなく、研究者として重要な共著者として名を連ねる機会を一方的に奪ったと言わざるを得ず、指導としての合理的な範囲を超えて、社会的相当性を逸脱した違法行為に該当する。

(中略)

「原告が本件論文の共著者から除外されたことによって精神的苦痛を受けたことが認められる。本件において認められる事情を総合評価すれば、上記苦痛を慰謝するためには10万円を要すると認めるのが相当である。」

「原告は、学費相当額及び再現実験費用を損害として主張しているが、本件論文の共著者から除外されたことによって発生した損害とは認められない。」

3.嫌がらせ目的は不要/共著者からの一方的な除外は違法

 本件裁判例は、二つの点で重要な示唆を含んでいるように思います。

 一つ目は、違法性の認定に、嫌がらせ目的までは必要ないと判示されている点です。本件の共著者からの除外には、嫌がらせ目的で行われたとまでは認定されていません。それでも、裁判所は、被告P3の行為に違法性を認めました。

 二つ目は、論文の共著者からの除外という行為に違法性が認められた点です。論文の共著者に名を連ねることを被侵害利益(法的に保護に値する利益)として承認したうえ、裁判所はガイドラインからの逸脱という行為の客観面に注目し除外行為を違法だと判示しました。こうした判断は、今後、同種事案の審理において、参照されて行く可能性があります。

 慰謝料額は低額に留まっているものの、不明確な部分が多いアカデミックハラスメントが問題となる事件において、本件は先例として重要な意義を有する裁判例になって行くのではないかと思われます。