弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

正社員として募集され、就労を開始した後、有期の雇用契約書に署名、押印したとしても、有期労働契約であるとはいえないとされた例

1.求人票(募集要項)の記載、雇用契約書の記載

 求人票(募集要項)の記載と、使用者から示された雇用契約書の労働条件が異なっていることがあります。

 こうした場合、雇用契約書にサインしてしまった労働者は、求人票に書かれていた労働条件を主張することができるのでしょうか?

 この問題に関しては、基本的にはできないものと理解されています。なぜなら、求人や募集は、労働契約の申込みそのものではなく、申込みの誘因にすぎないと理解されているからです。佐々木宗啓ほか編著『労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕30頁にも

「求人ないし募集は申込みの誘因にすぎず、契約申込みではないから、労働契約締結の際に示された賃金額が、求人ないし募集のときの見込み額より低い場合に、直ちに見込み額どおりの労働契約が成立するわけではない」

と記述されています。

 このように、求人票の記載と、雇用契約書の記載に齟齬がある場合、求人票の記載は、基本的には雇用契約書の記載によって上書きされます。

 しかし、これは飽くまでも、労働契約締結の際に示された労働条件が求人票よりも不利であった場合の一般論です。

 それでは、就労を開始した後、求人票よりも不利な労働条件を定めた雇用契約書が取り交わされた場合は、どのように考えられるのでしょうか?

 就労開始前であれば、まだ労働者は引き返すことができます。しかし、就労が開始してしまうと、今更引き返すことは困難です。こうした違いは、裁判所の事実認定にどのように反映されるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令4.9.12労働判例1306-58 東京高判令5.3.23労働判例1306-52 司法書士法人はたの法務事務所事件です。

2.司法書士法人はたの法務事務所事件

 本件で被告(控訴人)になったのは、司法書士法人です。

 原告(被控訴人)になったのは、被告との間で労働契約を締結し、庶務業務に従事していた方です。

 原告と被告との間の労働契約(本件労働契約)には、期間の定めの有無に争いがありました。被告の側が有期労働契約であるとして期間満了等による契約関係の終了を主張したのに対し、原告の側は無期労働契約であるから依然として労働契約は継続していると主張し、地位確認等を求める訴えを提起しました。

 本件で特徴的なのは、

被告の募集要項上、「雇用形態」の欄に「正社員」と書かれていた一方、

雇用期間を平成30年3月19日から同年4月19日までとする雇用契約書と、

雇用期間を平成30年4月23日から同年5月23日までとする雇用契約書

が作成されていたことです。

 ただし、

原告が被告で働き始めたのは、平成30年3月19日からでしたが、

原告が上記雇用契約書2通に署名したのは、働き始めた後である平成30年4月24日でした。

 このような事実関係のもと、被告は、

「被告は、本件面接の際に、原告に対し、本件労働契約が有期契約であることを説明した。したがって、本件労働契約は、締結当時から本件契約書記載のとおりの有期契約(平成30年3月19日から同年4月19日まで、同月23日から同年5月23日まで)である」

と主張しました。

  しかし、裁判所は、次のとおり述べて、本件労働契約は無期労働契約であると判示しました。

(裁判所の判断)

「前記認定事実・・・によれば、原告は、契約期間について特段の記載がなく『正社員、試用期間3か月』と記載された本件募集要項を見て、本件募集要項が掲載されていた求人サイトを通じて応募したこと、その後、平成30年3月16日の被告との本件面接を経て、同月19日から本件事務所において就労を開始したことが認められる。」

「これらの事実によれば、本件募集要項は無期契約を前提としていると読めるものであり、原告は、それを前提として本件面接に臨んだということができる。被告においても、原告が本件募集要項が掲載されていた求人サイトを通じて応募してきたことから、原告が上記を前提としていたことは認識していたということができる。これに加えて、本件面接時のやりとりについての書面や本件面接時に控訴人が提示した労働条件がどのようなものであったかを示す客観的な証拠はない上、本件面接に臨んだ控訴人の元の代表者であるD、EやFらの陳述書なども提出されておらず、本件面接時のやり取りに関する直接証拠は原告の供述等しかなく、前記認定事実・・・のとおり、原告が本件面接の際に被告から契約期間について何ら説明を受けなかったと認められる・・・ことも併せ考慮すれば、原告は本件面接において本件募集要項どおりに正社員となること、すなわち、期間の定めのない労働契約を申込み、被告はこれを承諾したものと認められるから、本件労働契約は本件面接において期間の定めのないものとして成立したと認めるのが相当である。

(中略)

「被告は、本件雇用契約書に原告が署名押印していることから、本件労働契約は締結当初から有期契約であり、契約期間については本件雇用契約書記載のとおり(平成30年3月19日から同年4月19日まで、同月23日から同年5月23日まで。その後、口頭の合意によって同年6月8日まで期間を延長した。)である旨主張する。」

「前記認定事実・・・によれば、原告は、平成30年4月24日、本件労働契約について、1か月の有期契約であり、最初の契約期間の終期が同年4月19日と記載された本件雇用契約書に署名押印したことが認められる。しかしながら、弁論の全趣旨によれば、原告及び被告が、本件雇用契約書に記載された最初の契約期間の終期である同年4月19日より前に、本件労働契約の更新等について面談等で話し合うことなく、原告が同日以降も本件事務所における勤務を続けていることが認められる。被告が主張するように、本件労働契約が同年3月19日から同年4月19日までの有期契約であるのならば、面接時等に当然に更新される旨説明されていたような場合を除き、その終期前に次期の契約をどうするかについて話し合うのが通常である。それにもかかわらず、こうした事実がないということは、本件労働契約が被告の主張するような有期契約ではなかったことを推認させるものであるといえる。また、原告が本件雇用契約書に署名押印をしたのは、原告が本件事務所において勤務を開始してから1か月以上も後のことであり、相当期間が経過しているから、本件雇用契約書の記載によって、本件面接において本件労働契約を締結した際の両者の意思を推認するには限度がある。ひとたび勤務を開始すると、労働者が使用者による不利益取扱いを恐れ萎縮して適切な意思表示ができないこともあり得るところである。原告は、被告から解雇されることを恐れて実態と異なる本件雇用契約書に署名押印した旨の供述をしており・・・、上記供述はその経緯に照らしても信用することができるから、原告が本件雇用契約書に署名押印した経緯については、前記認定事実・・・のとおりと認定するのが相当である。さらに、前記認定事実・・・のとおり、被告は、同年6月6日に原告に対し退職届を提出するように執拗に求めている。被告が本件労働契約が同月10日を終期とする有期契約であると確定的に認識していたのであれば、退職届の提出を本件ほど執拗に求める必要はないから、被告においても本件雇用契約書の内容及び効力等について疑いを持っていたものと推認することができる。」

「したがって、被告の上記主張は、上記・・・における認定を覆すに足りるものではないというべきである。」

※ 青字=控訴審裁判所による挿入文

3.重要な経験則「不利益取扱いを恐れ委縮して適切な意思表示ができない」

 裁判所の判示部分で特に重要なのは、

「ひとたび勤務を開始すると、労働者が使用者による不利益取扱いを恐れ萎縮して適切な意思表示ができないこともあり得るところである」

という部分だと思います。

 今更後に引けないという状況になった後、使用者側から不利益な書面の作成を求められることは、実務上、しばしば見られます。求人票を見て企業研究を経て応募してきた申込者に対し、求人票より低い条件を示すことも、この一種といえなくもありません。

 この裁判例が示した経験則は、勤務を開始した後、不利な書面の作成を求められ、これに応じてしまった労働者の救済の道を切り開くものです。同種事件の処理にあたり、実務上、広く活用して行くことが考えられます。