弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

賃金から社会保険料の労働者負担分を控除してもらうことに権利性はあるだろうか?

1.賃金全額払いの原則と社会保険料の控除

 労働基準法24条1項は、

賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。

と規定しています。

 労働者は原則として賃金全額の支払を受けることができます。ただ、法令上の根拠がある場合、賃金から一定の費目・金額を控除することが認められています。

 社会保険料が賃金から控除されるのも、法令上の根拠があるからです。

 例えば、健康保険料に関しては、健康保険法167条1項が、

「事業主は、被保険者に対して通貨をもって報酬を支払う場合においては、被保険者の負担すべき前月の標準報酬月額に係る保険料(被保険者がその事業所に使用されなくなった場合においては、前月及びその月の標準報酬月額に係る保険料)を報酬から控除することができる。」

と規定しています。

 厚生年金保険料に関しては、厚生年金保険法84条1項が、

「事業主は、被保険者に対して通貨をもつて報酬を支払う場合においては、被保険者の負担すべき前月の標準報酬月額に係る保険料(被保険者がその事業所又は船舶に使用されなくなつた場合においては、前月及びその月の標準報酬月額に係る保険料)を報酬から控除することができる。」

と規定しています。

 通常、こうした規定に基づいて、労働者には社会保険料が控除された賃金が支払われます。

 それでは、社会保険料を賃金から控除してもらうことについて、労働者に権利性を認めることはできないのでしょうか。

 休職した労働者が復職を求める場面において、従前の職務を通常の程度に遂行できる健康状態に回復しているか否かが問題になることがあります。

 こうした場合に、使用者が、まだ十分に労務遂行能力が回復していないとして労働者の就労を拒否しつつ、社会保険料の労働者負担分の立替を行い続けるという対応をとることがあります。コツコツと立替えられた社会保険料は、紛争が長期化すると、かなりの金額に上ることがあり、これが労働者にとってのプレッシャーになることは少なくありません。

 このような局面において、復職要件の具備を主張する労働者が、

復職要件の存否をめぐる紛争が一段落するまで立替金は支払わない、

復職要件が具備されていることが判明したら、復職を求めた時点に遡って賃金支払請求が認められるところ、立替金は未払賃金の中から支払う、

と主張することはできないでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令2.9.25労働判例ジャーナル106-52 高山運輸事件(大阪地方裁判所平成31年(ワ)第3589号)です。

2.高山運輸事件

 本件は休職中の労働者の社会保険料(健康保険料、介護保険料)の労働者負担分を立替払いしたとして、使用者(原告)が労働者(被告)に対し、立替金合計約238万円の支払を請求した事件です。

 この事件で、被告労働者は、大意、

主治医から就労可能との診断書を発行してもらったのに、原告が被告の復職を拒絶した、

そのため、被告は給与の支払を受けられないまま、不本意ながらも自宅待機を続けざるを得なかった、

立替社会保険料の支払自体に異議はないが、それは、原告から被告に給与の支払があった時点で行われるべきものである、

と主張しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、被告の主張を排斥し、原告の請求を認めました。

(裁判所の判断)

「被告が休職している間の被告負担部分にかかる社会保険料の立替と支払に関して、原被告間に何らの合意もない以上、原告による上記立替金は、被告が法律上の原因なく得た利益ということができる。」

「これに対し、被告は、原告による上記立替金の支払請求は、原告から被告に給与の支払があった後に認められるべきである旨主張する。」

「しかし、かかる被告の主張は法的裏付けを欠く独自の見解であって、採用の限りでない。なお、被告が原告を相手方として平成30年3月22日以降の賃金の支払を求める訴訟(当庁令和2年(ワ)第2635号賃金等請求事件)を別途提起していることは、当裁判所に顕著であり、被告の主張する給与の支払については別訴の判断を待つほかない。」

「以上によれば、原告の本件請求には理由がある。」

3.相殺を主張するという選択もあったのではないか

 以上のとおり、裁判所は、復職要件の具備が争いになっている別事件が係属していたとしても、労働者への立替金支払請求は妨げられないと判示しました。確かに、ただ単純に復職要件の具備をめぐる紛争が解決するまで立替金の支払を待ってくれということに権利性を認めることは、難しいかも知れません。

 しかし、復職要件の具備を理由に賃金債権の発生を主張し、これを自働債権として立替金支払債務と相殺するという主張をすれば、復職要件を具備しているにもかかわらず、立替金の支払債務のみが先行して判断されるという事態は、防げた可能性があります(なお、賃金全額払いとの関係で相殺が禁止されるのは、賃金債権を受働債権とする相殺であり、自働債権とする相殺ではありません)。

 本件の被告の方は本人訴訟で対応したようですが、代理人弁護士を選任して法律構成を練っていれば、また違った結論になったかも知れないと思うと、やはり早い段階で代理人弁護士が関与することの重要性を意識せざるを得ません。