弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

指導票への署名・押印に残業代支払債務の承認としての効力が認められるか?

1.残業代の消滅時効期間

 労働基準法115条は、

この法律の規定による賃金の請求権はこれを行使することができる時から五年間、この法律の規定による災害補償その他の請求権(賃金の請求権を除く。)はこれを行使することができる時から二年間行わない場合においては、時効によつて消滅する。

と規定しています。これにより、残業代の消滅時効期間は5年と理解されることになります。

 ただ、この法律には経過措置があり、労働基準法143条3項が、

第百十五条の規定の適用については、当分の間、同条中『賃金の請求権はこれを行使することができる時から五年間』とあるのは、『退職手当の請求権はこれを行使することができる時から五年間、この法律の規定による賃金(退職手当を除く。)の請求権はこれを行使することができる時から三年間』とする。

と規定しています。

 そのため、法文上は5年になっていますが、現在の残業代の消滅時効期間は3年間になります。

 また、令和二年三月三一日法律第一三号の附則2条2項は、

新法第百十五条及び第百四十三条第三項の規定は、施行日以後に支払期日が到来する労働基準法の規定による賃金(退職手当を除く。以下この項において同じ。)の請求権の時効について適用し、施行日前に支払期日が到来した同法の規定による賃金の請求権の時効については、なお従前の例による。

と規定しています。

 時効期間が5年(当面3年)に伸ばされたのは法改正によるため、法施行日(令和2年4月1日 令和元年12月18日政令第190号 令和二年三月三一日法律第一三号の附則1条参照)以前の残業代は、従前どおり2年で消滅することになります。

 このように消滅時効期間が短いため、残業代を請求する場合、いち早く催告など消滅時効の完成を阻止するための措置をとって行くことが重要な意味を持ちます。

 この時効の完成が阻止される場合の一つに、「権利の承認」があります。

 「権利の承認」があった場合、時効は一旦リセットされ、その時点から改めて進行することになります(民法152条1項)。

 それでは、残業代の請求の場面で、使用者が労働基準監督署から交付される指導票にサインしたことは、残業代に関する権利の存在を承認したことになるのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。宇都宮地判令2.5.14労働判例ジャーナル103-82 スタッフブレーン・テクノブレーン事件です。

2.スタッフブレーン・テクノブレーン事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 原告ら労働者は残業代の支払を催告し、法的措置に及びましたが、それ以前に被告会社には労働基準監督官の指導が入っていました。

 具体的には、

「平成27年10月7日、労基署の労働基準監督官(以下「監督官」という。)が被告スタッフブレーンを訪れ、監督官は、被告スタッフブレーンに対し、労働時間の適正な記録をすること及び原告らに対する未払賃金を支払うことを求め、その改善状況を同年11月7日までに報告することを求める指導票を交付し、被告スタッフブレーン代表取締役は、受領の署名押印をした・・・。」

という事実が認められています。

 原告らは、これが権利の承認(債務の承認)に該当するとして、この時点で消滅時効の進行がリセットされたと主張しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、指導票への受領の署名・押印に債務の承認としての効力を認めませんでした。

(裁判所の判断)

「原告らは、監督官が平成27年10月7日に被告らに交付した本件指導票に対し、被告らが署名・押印したことをもって、債務の承認に当たる旨を主張するが、・・・本件指導票は、労基署の調査の結果、被告らの労働時間管理が極めて不適正な状況にあることを指摘し、今後、労働時間を適正に記録することを求め、また、客観的な証拠や本人らの供述に基づいて算定したこれまでに原告らに生じた未払賃金を通告するとともに、これを参考に、被告らにおいて、原告らに生じた未払賃金額を算定することを求めることを内容としたものであって、被告らの署名・押印は、本件指導票を受領したことを意味するものにすぎないから、債務の承認があったと評価することはできない。

「また、原告らは、被告らの消滅時効の援用が権利濫用であると主張するが、被告らによる従業員の労働時間の管理が不適切であったとしても、そのことにより直ちに消滅時効を援用することが権利濫用になると評価することはできず、本件では、上記のとおり、原告らは労基署に申立てを行っており、被告らから権利行使を行うことを直接妨害されたことやこれに類する事実は認められない。」

「そのため、原告らの主張を踏まえても、未だ被告らの消滅時効の援用が権利濫用であると認めるには足りず、原告らの主張は採用できない。」

3.指導票ではダメっぽい

 指導票は労働基準監督官が交付する書面の一つで、

「労働基準監督署が調査を行い、法違反以外の事項について指導を行う必要がある場合に交付する書類」

であるとされています。

労働基準監督官が使用する必須アイテム | 宮城労働局

https://jsite.mhlw.go.jp/miyagi-roudoukyoku/library/miyagi-roudoukyoku/kantokukanshiken/sidouhyou.pdf

 指導票には、

「あなたの事業場の下記事項については改善措置をとられるようお願いします。なお、改善の状況については  月  日までに報告してください。」

と不動文字で書かれていて、末尾に受領者が受領日と署名・押印をする体裁になっています。

 末尾の署名・押印にどれだけの効力が認められるのかが注目されましたが、裁判所は書類を受領した以上の意味を有するものではないと判断しました。

 不動文字との関係で、まあ、そうだろうなとは思いましたが、珍しい論点であったため、備忘のため書き残しておくことにしました。