弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

営業秘密が記載された書証を提出する時に、労働者はマスキングを行う義務を負うのか?

1.秘密保持義務と裁判を受ける権利の相克

 一般論として、労働者は、会社に対し、営業秘密を漏洩しない義務を負っています。

 そのことは、大抵の会社の就業規則に書かれています。例えば、厚生労働省のモデル就業規則では、労働者の遵守事項として、

「在職中及び退職後においても、業務上知り得た会社、取引先等の機密を漏洩しな
いこと。」

を規定しています。

モデル就業規則について |厚生労働省

 これは就業規則で明示的に定められている場合に限ったことではありません。

 例えば、東京高判昭55.2.18労働関係民事裁判例集31巻1号49頁は、

「労働者は労働契約にもとづく附随的義務として、信義則上、使用者の利益をことさらに害するような行為を避けるべき責務を負うが、その一つとして使用者の業務上の秘密を洩らさないとの義務を負うものと解せられる。信義則の支配、従つてこの義務は労働者すべてに共通である。」

と判示し、秘密保持義務を労働契約の付随義務として位置付けています。

 それでは、労働者は、会社と裁判で争う時にも、この秘密保持義務に拘束されるのでしょうか? より具体的に言えば、裁判で会社内部の営業秘密が記載された書証を提出する時、マスキングをするなどの配慮をしなければ、秘密保持義務違反として不利益を受けることもありえるのでしょうか?

2.民事裁判の実情

 憲法82条1項は、

「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。」

と規定しています。俗にいう、裁判の公開原則です。

 また、民事訴訟法91条1項は、

「何人も、裁判所書記官に対し、訴訟記録の閲覧を請求することができる。」

と規定しています。

 そのため、概念的には、裁判所に提出される情報は、広く公開されることになっています。口頭弁論期日は公開法廷で行われますし、法廷の外には期日簿が張り出されていて、誰でも当事者の名前と事件名を見て傍聴席に入ることができます。

 しかし、実際の民事裁判は、かなり匿名性の高いものになっています。

 司法統計によると、令和元年度は東京地裁だけで3万8801件の通常訴訟事件を受理しています。これだけ多数の事件が係属していると、どこで誰のどのような事件が審理されているのかは、普通分かりません。

 また、民事裁判は技術的な要素が強く、書面審理が中心になるため、法廷でのやりとりを傍聴していても、どのようなやりとりが行われているのかを第三者が理解することは極めて困難です。人証調べも書面審理で争点を絞った後で行われるため、やはり何が行われているのかを第三者が理解できる形にはなりません。

 更に言えば、訴訟記録に営業秘密が記載されている場合、当事者は第三者による閲覧、謄写等を制限するように裁判所に申立をすることができます(民事訴訟法92条参照)。

 こうした実情、制度があるため、会社の内部文書をそのまま書証として提出したところで、それが企業利益の侵害に繋がることは考えられにくいのです。

 そのため、会社の内部文書を書証として提出する時の労働者側のマスキング義務は、これまであまり議論の対象になってこなかったように思われます。

 しかし、近時公刊された判例集に、この問題が議論の対象となった裁判例が掲載されていました。一昨日も紹介した、東京地判令2.4.3三菱UFJモルガン・スタンレー証券事件です。

3.三菱UFJモルガン・スタンレー事件

 本件は国内外に顧客を有する証券会社に雇われていた原告男性が、育児休業取得の妨害、育児休業取得を理由とする不利益取扱いをされたとして、勤務先に対し、不法行為による損害賠償などを請求した事件です。

 原告の方は、上記損害賠償請求のほか、育児休業後になされた休職命令(本件休職命令)の効力を争い、休職期間中の賃金も請求しました。

 事件の経過としては本訴提起よりも前に、本件休職命令が違法無効であるとした雇用契約上の地位保全等を求める仮処分(本件仮処分)の申立が先行しています。

 この仮処分において、原告は、被告の内部文書である海外顧客の収益一覧表(本件収益一覧表)を顧客名等について黒塗りすることなく証拠として提出しました。

 これに対し、被告は、機密情報の持ち出しが社内規則(戦略就業規程)違反になる可能性があることを指摘し、警告文書を発出しました。

 しかし、原告は、本訴提起に段階を進めた際にも、本件収益一覧表を顧客名等を黒塗りすることなく証拠として提出しました。

 被告は記者会見等でのマスコミに対する言動のほか、本件収益一覧表をマスキングをしないで提出し、第三者による閲覧及び謄写が可能な状態に置いたことも問題であるとして原告を普通解雇しました。

 より具体的に言うと、被告は原告の解雇事由として、次のような主張をしました。

原告は、本件訴訟に先立つ雇用契約上の地位保全等を求める仮処分(以下『本件仮処分』という。)手続において、被告の内部文書である海外顧客の収益一覧表・・・(以下『本件収益一覧表』という。)を顧客名等について黒塗りすることなく証拠として提出した。被告は、機密情報の持出しが戦略職就業規程に違反するおそれがあり、今後同様の行為を慎むよう警告した上、裁判所に対し閲覧等制限の申立てを行ったところ、同裁判所は、本件収益一覧表を被告の営業秘密として認め、閲覧等制限決定を行った。しかし、原告は本件訴訟においても、再び顧客名等を黒塗りすることなく、証拠として提出した。本件収益一覧表は、被告の内部文書であり、漏洩した場合に顧客又は被告の信用に重大な影響を及ぼす可能性があり、被告にとって極めて守秘性及び重要性が高く、かつ、顧客に対しても守秘義務を負う内容が記載されていることから、被告の内規においては、最重要の機密情報とされており、社外の持出しには厳格な制限がかけられている。原告は、特命部長という職責上率先して上記内規を守るべき立場にあるにもかかわらず、本件訴訟において本件収益一覧表を第三者による閲覧及び謄写が可能な状態に置いたものであり、このような原告の行為は、戦略職就業規程70条3号の懲戒事由に当たり、その違反の程度は重大である。

 これに対し、裁判所は、次のとおり判示し、マスキングをしなかったことは解雇事由にはならないと判示しました(ただし、結論において解雇は有効)。

(裁判所の判断)

「被告は、原告に対し警告をしたにもかかわらず、本件訴訟において、被告の内部文書である本件収益一覧表を顧客名等について黒塗りすることなく証拠として提出し、第三者による閲覧及び謄写が可能な状態に置いたことは『被告及び取引先の経営情報、営業上の秘密、その他公表していない情報を他に漏らした場合』(戦略職就業規程70条3号)に当たる旨主張する。」

「しかしながら、原告が訴訟代理人弁護士を通じて本件収益一覧表を提出した先は裁判所であり、被告は閲覧制限を申し立てる方法により閲覧の対象者は当事者に制限することができ、また実際にも申立てがされていて、第三者が閲覧及び謄写した事実はない(記録上明らかな事実)。そうすると、原告の行為は軽率のそしりは免れないとしても、本件収益一覧表を他に漏らした場合に当たるとまでは評価することができない。上記被告の主張は失当であり採用することができない。

4.軽率のそしりは免れない?

 元々、裁判は秘匿性の高い手続ですし、文句があるなら相手方で民事訴訟法92条所定の秘密保護のための閲覧等の制限をとれば良いと考えられるため、労働者側で会社の内部文書を書証として提出する時にマスキングが必要ではないかという問題意識は、あまり持たれていなかったように思われます。

 しかし、解雇事由として認められてはいないものの、裁判所はマスキングをしないで証拠提出したことについて「軽率のそしりは免れない」と消極的な評価を与えています。そのため、これがより軽い懲戒処分であったとしたら、どうなっていたのかは分かりません。閲覧等の制限の対象になるまでの間に、野次馬が実際に記録の謄写に及ばなかったことも結論に影響していると思われます。

 こうしたことを考えると、以降、労働者側から、あからさまに機密性の高い会社の内部文書を書証提出する際には、マスキング等、何らかの対応をした方が無難かも知れません。