弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

定年制のない会社で有期労働契約を締結している高年齢者が抱く契約更新に向けた合理的期待

1.雇止めの二段階審査

 労働契約法19条2号は、

「当該労働者において当該有期労働契約の契約期間の満了時に当該有期労働契約が更新されるものと期待することについて合理的な理由があるものであると認められる」

場合(いわゆる「合理的期待」が認められる場合)、

有期労働契約の更新拒絶を行うためには、客観的合理的理由、社会通念上の相当性が必要になると規定しています。

 合理的期待がない場合、有期労働契約は、期間の満了によって終了するのが原則です。使用者がどのような理由で契約を更新しなかったのかは問題になりません。つまり、雇止め法理は、

合理的期待が認められて初めて(第一段階審査がクリアされて初めて)、

更新拒絶に客観的合理的理由、社会通念上の相当性が認められるのかの審査(第二段階審査)

に入って行くという二段階審査で成り立っています。

2.有期労働契約を締結している高年齢者の持つ契約更新に向けた合理的期待

 高年齢者雇用安定法は、60歳を下回る定年の定めをすることを禁止しています(高年齢者雇用安定法8条)。

 また、事業主は、高年齢者の65歳までの安定雇用を確保するため、

定年の引き上げ、

継続雇用制度の導入、

定年の定めの廃止、

のいずれかの措置をとらなければなりません(高年齢者雇用安定法9条1項)。

 加えて、事業主には、65歳から70歳までの安定雇用の確保に努めるべき努力義務があるともされています(高年齢者雇用安定法10条の2第1項参照)。

 このように、法は、年をとっても安定して働くことができるよう、高年齢労働者の保護を図っています。

 しかし、一般論として人の労働能力は加齢に伴って低下しますし、未来永劫働き続けられると期待することは、現実問題、困難と言わざるを得ない面があります。

 それでは、雇止め法理との関係で、定年制の定めのない会社で有期労働契約を締結している高年齢者の契約更新に向けた合理的期待は、どの程度まで認められるのでしょうか?

 従事する業務の内容や契約書の文言などによって左右される問題であり、一概に言えるわけではありませんが、この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令3.2.18労働判例1303-86 エイチ・エス債権回収事件です。

3.エイチ・エス債権回収事件

 本件で被告になったのは、債権回収等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、昭和24年生まれの男性です。66歳の時、被告との間で有期労働契約を締結し、本社監査室で監査業務に従事していました。

 被告との間の有期労働契約は、平成28年1月25日に交わされた後、

平成28年4月1日~平成29年3月31日、

平成29年4月1日~平成30年3月31日、

平成30年4月1日~平成31年3月31日

更新が重ねされましたが、平成31年3月31日をもって雇止めを受けました。

 これに対し、労働契約法19条の雇止め法理の適用を主張し、地位確認等を求める訴えを提起したのが本件です。

 雇止め当時、原告の方は69歳と高齢でしたが、被告の就業規則には、定年制に関する規定はありませんでした。

 また、

原告が被告に応募した際の求人票には、「雇用期間の定めあり」「3か月」「契約更新の可能性あり(原則更新)」と、

被告との間で取り交わした雇用契約書には、

「更新の有無 契約を更新する場合がある」

と書かれていました。

 本件の被告は、原告の年齢を捉え、

「原告の更新回数及び通算契約期間はわずかなものであり、原告は採用時66歳、雇止め時69歳と高齢であり、到底継続的雇用への期待を有するような年齢ではなかった。」

などと主張しましたが、裁判所は、次のとおり述べて、契約更新に向けた合理的期待を認めました。

(裁判所の判断)

「原告は、被告との間で本件労働契約を合計3回にわたり更新し、3年2か月の間、おおむね週5日、1日8時間の勤務を継続していた。また、前記認定事実・・・のとおり、大会社である被告において内部監査体制の整備は法律上義務付けられているものであり、被告が大会社に該当しなくなる見込みがあると認めるに足りる証拠もないから、原告が担当していた監査業務は臨時的に設けられたものではなく常用性のある業務であり、基幹的業務に当たるともいえる業務である。さらに、前記前提事実・・・並びに前記認定事実・・・のとおり、被告の求人票の雇用期間欄には『契約更新の可能性あり(原則更新)』と記載されている部分があり、原告に適用される就業規則には年齢による更新上限や定年制の規定はなく、原告は本件雇止め当時70歳には至っていなかった。そして、本件労働契約締結時及び更新時並びに最後の更新後本件雇止めまでの間に、被告から原告に対し、更新上限及び最終更新並びに業務の遂行状況による雇止めの可能性等に関する具体的な説明があったとは認められない。これらの事情からすれば、前記前提事実・・・のとおりの契約書の更新条件等の記載、前記認定事実・・・のとおり被告においてパート従業員以外に70歳を超えて雇用された労働者がいたとは認められないことなどを併せ考えても、原告において本件労働契約の契約期間の満了時(平成31年3月31日の満了時)に同契約が更新されるものと期待することがおよそあり得ないとか、そのように期待することについておよそ合理的な理由がないとはいえず、本件労働契約は労働契約法19条2号に該当する。ただし、前記前提事実・・・のとおり本件労働契約の各契約書には更新の基準として勤務成績、態度、健康状態、能力、能率、作業状況等を総合的に判断する旨記載されているのであるから、これらについて問題がある場合には更新されない可能性があることは原告にとっても十分に認識可能であることに加えて、原告の周りに現に70歳を超えてフルタイムの契約社員として勤務している者が存在したわけではないことからすると、原告が、平成31年3月31日の満了時に同契約が更新されることについて強度な期待を抱くことにまで合理的な理由があるとは認められず、また、平成31年3月31日の契約満了時以降当然に複数回にわたって契約が更新されるという期待を抱くことに合理的な理由があるとも認められない。

4.70歳を超える契約までは合理的な期待あり

 以上のとおり、裁判所は、

平成31年3月31日の時点では合理的期待は失われていない、

ただし、それ以降、当然に複数回に渡って契約が更新されると期待することに合理的な理由があるとは認められない、

と判示しました。

 要するに、70歳を超える契約までは合理的な期待を肯定したことになります。

 合理的期待の内容について、強度な期待を抱くことにまで合理的な理由があるとは認められないとされたこともあり、本件では二段階目の審査をクリアできず、結論として原告の請求は棄却されています。

 しかし、69歳時点でも契約更新に向けた合理的期待が失われないと判示されたことは意義のある判示だと思います。本件は高年齢者の雇止めの効力を争う事件で、実務上参考になります。

 

交際していた女子学生の修士論文の盗用を理由とする副学部長解任処分・大学院の科目担当を当分の間認めない処分は司法審査の対象になるか?

1.論文の盗用を争点とする処分は司法審査の対象になるのか?

 昨日、交際していた女子学生の修士論文を盗用した指導教授が、大学から停職3か月の懲戒処分を受けた裁判例を紹介しました(大阪地判令6.1.11労働経済判例速報2541-18 学校法人関西大学事件)。

 この大学教授は、懲戒処分を受けるだけではなく、

教授会から副学部長解任処分、

大学院▢研究科(本件研究科)の研究科委員会から科目担当を当分の間認めない処分

も受けました。

 学校法人関西大学事件では、懲戒処分の適否だけではなく、これら、

副学部長解任処分、

科目担当を当分の間認めない処分

の可否も争われました(まとめて「本件教授会等処分」といいます)。

 しかし、論文盗用を理由とする本件教授会等処分は、司法審査の対象とすることができるのでしょうか?

 裁判所に持ち込める事件には幾つかの制約があります。

 一つは、「法律上の争訟」という問題です。

 裁判所に持ち込める事件は、「法令を適用することによって解決し得べき権利義務に関する当事者間の紛争」である必要があります。「法令の適用によって解決するに適さない単なる政治的または経済的問題や技術上または学術上に関する争は、裁判所の裁判を受けうべき事柄ではない」と理解されています(最三小判昭41.2.8民集20-2-196参照)。

 もう一つは、「部分社会の法理」と言われている問題です。

 最三小判昭52.3.15民集31-2-234は、

「大学は、国公立であると私立であるとを問わず、学生の教育と学術の研究とを目的とする教育研究施設であつて、その設置目的を達成するために必要な諸事項については、法令に格別の規定がない場合でも、学則等によりこれを規定し、実施することのできる自律的、包括的な権能を有し、一般市民社会とは異なる特殊な部分社会を形成しているのであるから、このような特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが当然に裁判所の司法審査の対象になるものではなく、一般市民法秩序と直接の関係を有しない内部的な問題は右司法審査の対象から除かれるべきものである」

と判示しています。

 盗用かどうかは学術上の判断が関係しますし、副学部長を誰にするのか・誰に大学院の科目担当を委ねるのかは大学が自律的に決めるべき事項という見方もできます。

 学校法人関西大学事件は、この問題を考えるうえでも参考になる判断を示しています。

2.学校法人関西大学事件

 本件で被告になったのは、関西大学等を運営する学校法人です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、教授の職位にあった方です。職員研修制度により、大学院の博士課程前期課程の院生となったAの指導教員として、修士論文作成を指導していました。また、原告の方はAとは交際関係にありました。

 作成した単著論文(本件論文)の約70%の表現が、Aの作成した修士論文(先行論文)の表現と同一であったにもかかわらず、先行論文を引用した旨の表示がなかったとして、原告の方は、停職3か月の懲戒処分などのペナルティを受けました。

 また、これに加え、教授会から副学部長の解任処分、大学院の研究科から科目担当を当分の間認めない処分も受けました(本件教授会等処分)。

 原告の方は、懲戒処分の無効確認等を求めるとともに、本件教授会等処分が不法行為に該当するとして、損害賠償を請求する訴えを提起しました。

 事柄の重大さから原告の請求は全部棄却されましたが、裁判所は、本件教授会等処分の有効性について、次のような判断を示しました。

(裁判所の判断)

「大学には、学問の自由を保障するために大学の自治が認められているところ、このような大学の自治を担う中心的組織は教授会(学校教育法93条)と解される。本件学部は、本件教授会規程・・・により、教授会の審議、議決事項として、学部長の選出、副学部長の承認、教員の任用及び昇任その他人事に関する事項等を定めている・・・。また、被告は、関大に大学院(同法97条)及び研究科(同法100条)を設置し、本件大学院学則により、各研究科に研究科委員会を設置することを定めているところ・・・、大学院における研究科委員会は、大学院の自治を担う中心的組織と解され、その審議、議決事項として、授業科目担任に関する事項等が定められている・・・。」

「このように、本件教授会は、人事事項等について自主的な判断を行い、本件研究科委員会は、授業に関する事項について自主的な判断を行うことになっており、これらの判断を尊重することが大学の自治の趣旨に沿うものであるから、本件教授会や本件研究科委員会は、上記各審議、議決事項について広範な裁量権を有しているものと解するのが相当である。もっとも、上記各裁量権も純全たる自由裁量ではなく、上記各審議、議決が、裁量権の範囲を逸脱又は濫用した場合には、無効になると解するのが相当である。

(中略)

「原告は、『盗用』という研究活動における特定不正行為に該当する重大な行為に及んで本件懲戒処分を受けたものであるから、副学部長を解任されてもやむを得ないというべきであり、本件教授会の裁量権の行使として合理的かつ相当なものということができる。」

(中略)

「原告は、『盗用』という重大な不正行為に及び、その『盗用』の対象は自身が指導教員を務めた大学院生の修士論文であったから、大学院における科目担当を当分認めない処分を受けてもやむを得ないというべきであり、本件研究科委員会の裁量権の行使として合理的かつ相当なものということができる。」

3.広範な裁量はあっても司法審査の対象にはなる

 上述のとおり、裁判所は、大学側の広範な裁量権を認めながらも、本件教授会等処分が司法審査の対象になること自体は認めました。

 本件は措くとして、現実には「盗用」と言い切れるのか微妙なケースがないわけではありません。微妙なケースでは大学側の裁量が認められることが多いとは思いますが、「盗用」の疑いをかけられた研究者に対し、司法的救済の余地を残す判断が示されたことは、意義のある判断だと思います。

 この点でも、本件は、大学に関連する事件を扱う弁護士にとって、実務上参考になります。

 

指導教授の単著論文(交際関係にあった学生の修士論文と約70%の表現が同一)が「盗用」に該当するとされた例

1.指導教授等による研究業績の剽窃

 労働事件におけるハラスメントと構造的に類似することや、大学教員の方の労働事件を比較的多く受けている関係で、アカデミックハラスメントは個人的な興味研究の対象になっています。

 アカデミックハラスメントに関する相談の一つに、指導教授や上位の研究者に研究成果を盗用されたというものがあります。

 アカデミックハラスメントを対象とする裁判例ではありませんが、近時公刊された判例集に、研究不正の一態様である「盗用」の解釈が示された裁判例が掲載されていました。大阪地判令6.1.11労働経済判例速報2541-18 学校法人関西大学事件です。

2.学校法人関西大学事件

 本件で被告になったのは、関西大学等を運営する学校法人です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、教授の職位にあった方です。職員研修制度により、大学院の博士課程前期課程の院生となったAの指導教員として、修士論文作成を指導していました。また、原告の方はAとは交際関係にありました。

 作成した単著論文(本件論文)の約70%の表現が、Aの作成した修士論文(先行論文)の表現と同一であったにもかかわらず、先行論文を引用した旨の表示がなかったとして、原告の方は、停職3か月の懲戒処分などのペナルティを受けました。これに対し、懲戒処分の無効確認等を求め、訴訟提起したのが本件です。

 原告の方は、

Aの了解を得ていた、

指導教員として通常の指導を超え、Aとの共著と評価できる程度の寄与をした、

などとして、本件論文は先行論文を「盗用」したものではないと主張しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、「盗用」への該当性を認めました。

(裁判所の判断)

「令和2年3月27日、原告は、Aと飲食店で食事をして別れた後、帰りの電車内において、LINEにより、『ところで修論ですが、かなり削り、ボクのオリジナルを足して、論文に仕上げて単著で出したいと思っていますが、構いませんか? 国際化戦略ではなく、新しい時代に対応した高等教育の模索というテーマになります。』とのメッセージを送信した。これに対し、Aは、『今日の件もそうですが、突然帰り無理やり呼び出されて支払いもと言われたり、論文も自分が書いてあげるからとさんざん言っていたのを結局私が書いたものについて単著で出しますが構いませんかと言われても、私には理解もできませんし、もう一気に気持ちが冷めたというのが正直なところです。単著でもなんでも好きにしてもらって構いませんので、今日でお別れしてもらいたいというのと、今までのデータは必ず消去してください。』とのメッセージを返信した。」

(中略)

「本件ガイドライン(文部科学大臣決定による『研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン 括弧内筆者)及びこれを受けて定められた本件取扱規程は、『盗用』について、『他の研究者のアイディア、分析・解析方法、データ、研究結果、論文又は用語を当該研究者の了解又は適切な表示なく流用すること』と定義しているところ・・・その文言上、『当該研究者の了解』と『適切な表示』のいずれか一方のみを欠いた場合も『盗用』に該当すると解することが可能である。」

(中略)

「他の研究者の論文の内容を適切な表示なく流用することは、他の研究者の業績とこれを流用した研究者による研究成果(自分自身の省察・発想・アイディア等に基づく新たな知見)との区別を困難なものとし、流用した研究者による研究成果でないものまで同人の研究成果であるかのように科学コミュニティの中で誤解され、同研究者による研究成果に対する的確な吟味・批判が妨げられるほか、同研究者の研究実績に対する評価が不当に歪められる結果を招くおそれがあり、科学コミュニティの正常な科学的コミュニケーションを妨げる行為に当たるというべきである。そして、以上のことは、他の研究者が流用を了解していたか否かによって左右されるものではない。」

以上によれば、本件ガイドライン及び本件取扱規程が研究活動における不正行為として定める『盗用』には、『当該研究者の了解』と『適切な表示』のいずれか一方のみを欠いた場合も含まれると解するのが相当である。

・・・本件論文は、その表現の70%が先行論文の表現と同一であるにもかかわらず、先行論文を引用した旨の表示がなかったのであるから、適切な表示なく流用したものとして、『盗用』に該当すると認めるのが相当である。

(中略)

「上記・・・で説示したとおり、本件論文は『盗用』に当たるが、原告は、Aが、本件論文で先行論文を引用することを了解していたから、『盗用』に当たらない旨を主張するので、念のためにこの点について検討する。」

「まず、原告は、令和2年3月27日にAの了解を得たと主張し、これに沿う陳述・・・及び供述・・・をする。」

「しかし、同日の本件LINEのやりとり・・・によれば、Aは、『結局私が書いたものについて単著で出しますが構いませんかと言われても、私には理解もできませんし、もう一気に気持ちが冷めたというのが正直なところです。』とのメッセージに続けて、『単著でもなんでも好きにしてもらって構いませんので』とのメッセージを送信しており、およそAが原告に対して先行論文の引用を真摯に了解したと評価することはできない。加えて、原告は、Aによる上記メッセージの前に、『修論ですが、かなり削り、ボクのオリジナルを足して、論文に仕上げて単著で出したいと思っていますが、構いませんか? 国際化戦略ではなく、新しい時代に対応した高等教育の模索というテーマになります。』とのメッセージを送信しているところ・・・、実際は、本件論文の表現の約70%が先行論文の表現と同一であり、そのテーマも同様のものであったと考えられるのであるから、Aが原告による先行論文の引用範囲や程度等について正しく認識していたかについても疑わしい。

「したがって、上記各証拠を採用することはできず、原告の上記主張は採用することができない。」

「次に、原告は、令和2年7月6日にもAから先行論文の引用について了解を得たと主張し、これに沿う陳述・・・及び供述・・・をする。」

「しかし、同日に原告とAとが飲食し、本件論文に関する何等かのやり取りがなされたとしても、本件LINEのやりとりに現れたAの先行論文の引用に対する態度がその後に変化したような事情はうかがわれず、原告がAに対して一度も本件論文の内容を確認する機会を与えたことがないこと・・・等も考慮すると、Aが原告に対して先行論文の引用を真摯に了解したとは考え難い。したがって、上記各証拠を採用することはできず、原告の上記主張は採用することができない。」

「なお、証拠・・・によれば、本件本調査における事情聴取の際、Aが原告に対して先行論文を使ってよいと言ったことがある旨述べたことが認められるが、本件LINEのやり取りのことを指している可能性があるし、上記のとおり、その後、Aの態度が変化するような事情はうかがわれないことからすると、上記判断を左右しない。」

「さらに、原告は、先行論文について、指導教官として通常の指導を超えてAとの共著と評価できる程度の寄与をしたから、『盗用』に該当しないと主張する。」

「この点、原告がAの指導教員として、先行論文の作成当初から積極的に関与したことは認められるが・・・、先行論文は、飽くまでAが作成した修士論文であり、本件研究科委員会もA個人の研究成果として承認し、修士号を授与したものである・・・。」

「以上によれば、先行論文は、Aの単著として認められたものであり、原告が指導教員として関与したからといって、原告とAとの共著となるとは到底いえないから、原告の上記主張は採用することができない。」

3.了解・同意の真摯性

 裁判所の判示で個人的に気になったのは、「真摯な了解」「正しく認識」といったフレーズが「了解」の欠如を判示する脈絡で用いられていることです。

 職場のセクシュアルハラスメントが問題となる事案では、外形的に了解・同意がされているように見えても、了解・同意は認められないと判示されることが少なくありません。

 本件はハラスメントを理由とする損害賠償請求事件ではないものの、院生の指導教授に対する研究業績の流用との関係でも、了解・同意の真摯性が問題になることが示された点は、注目に値する判断だと思います。事案は違っても、裁判所の判示は、外形的に流用を認めてしまった院生、下位の研究者が、論文の盗用を問題視して行くにあたり活用できる可能性があるからです。

 本件は労働事件として意義のある判断が示されているだけではなく、アカデミックハラスメントに関連する事件を取り扱っていくうえでも参考になります。

 

親族関係が絡む解雇事件の注意点-「仕事をやらなくていい」「出勤しなくていい」「仕事を引き継いでくれ」が解雇の意思表示ではないとされた例

1.「仕事をやらなくていい」「仕事を引き継いでくれ」

 使用者から労働契約の終了が告げられる時、はっきりと「解雇する」とは言われないことがあります。このブログでも以前取り上げましたが、「明日から来なくてもいい」といったような言動がその典型です。 

「明日から来なくていい」の法的な意味-曖昧な言葉を事後的に都合よく解釈する手法への警鐘 - 弁護士 師子角允彬のブログ

「明日から来なくていい」の法的な意味-続報 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 話の脈絡や事後の事実経過にもよるものの、こうした言動が裁判所で解雇の意思表示に該当すると認定されることは十分に考えられます。

 しかし、近時公刊された判例集に、「仕事をやらなくていい」「出勤しなくていい」「仕事を引き継いでくれ」といった言動が解雇の意思表示にあたらないと判示された裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令5.7.19労働判例ジャーナル144-44 未払賃金等支払事件です。

2.東京地判令5.7.19労働判例ジャーナル144-44 未払賃金等支払事件

 本件で被告になったのは、歯科医院を経営する歯科医師です。

 原告になったのは、被告の妻で、被告の経営する歯科医院で従業員(歯科衛生士)として勤務していた方です。

 令和3年10月30日に口論となり、その後、原告は被告との同居を解消し、雇用契約上に基づく労務の提供を行わなくなりました。

 原告の方は令和3年10月30日の口論で解雇されたと主張して、働けなくなったのは被告の責任であるとして、未払賃金(バックペイ)を請求しました。

 これに対し、被告は、そもそも原告を解雇していないし、別居後一貫して復職を求め続けているのに原告が復職を拒んでいるにすぎないと主張し、原告の請求を争いました。

 裁判所は、被告の言動についての事実認定を行ったうえ、

「被告は・・・原告が被告において就労できない状態を生じさせているといえる。」

と判示しながらも、次のとおり述べて、被告の言動を解雇の意思表示とは認定しませんでした。

(裁判所の判断)

「原告及び被告は、令和2年4月ころに雇用契約(以下『本件雇用契約』という。)を締結し、原告は、同契約に基づき、インスタグラムのアカウントを作成するなどして、SNSによる集客業務を行った・・・。」

「また、原告は、土曜日・日曜日に歯科医院で歯科衛生士としての業務を行ったことがあるものの・・・、原告は、本件雇用契約に基づく業務はSNSによる集客業務のみであり、歯科衛生士としての業務は、原告が被告と交際関係又は婚姻関係にあったことから善意により無給で行ったものであると考えていたのに対し・・・、被告は、本件雇用契約に基づく業務にはSNSによる集客業務と歯科衛生士としての業務の両方が含まれると考えていた・・・。」

原告及び被告は、令和3年10月30日の夜に口論となり、その際、原告は、被告に対し、土曜日・日曜日に歯科衛生士として勤務することへの不満を述べたところ、被告は、原告に対し、〔1〕仕事に出なくてよい旨を伝えるとともに、〔2〕SNS業務についても他の者に引き継ぐよう伝えた。・・・

「被告は、他の歯科衛生士に相談し原告が土日に歯科医院に出勤する必要がないように調整した後、令和3年10月31日午前2時頃、原告に対し、『土日はみんなで交代で出ることなったから大丈夫です。今まで嫌な仕事させてごめんなさい。』とのメッセージを送信した。被告は、同日の昼過ぎには、歯科医院のグループラインに、原告が勤務予定であった土日について他の従業員が出勤する旨のメッセージを送信した・・・。また、被告は歯科医院内のアポイントを管理するシステムについて、原告をログインできなくしたうえで、歯科医院のグループラインから退出させた・・・。」

「被告は、令和3年10月30日以降、継続的に、原告に対し、原告のみが知っていたインスタグラム(被告の歯科医院ではインスタグラムを用いて患者との連絡を行っており、被告は患者と連絡が取れないと業務を行う上で重大な支障が生じると考えた。)のIDとパスワードを開示するように求めたものの、原告はこれを拒否した・・・。原告は、令和3年11月25日頃、代理人を通じて、当該IDとパスワードを開示した・・・。」

「原告は、被告と口論した直後から自身の荷物をまとめ、令和3年11月1日又は2日に鹿児島の実家に引っ越した・・・。被告は、親せきの家から帰った同月3日には原告が引っ越したことに気づき・・・、その直後に、原告に対し、『馬鹿なことしないで帰ってきて。』『頼むから帰ってこい』とのメッセージを送ったのに対し、原告は『帰る気は無いです。もう今更戻る気は無いです』『もういいです。取り返しつかなくたって。今更どうにもならん。』とのメッセージを送った・・・。」

(中略)

原告は、被告が令和3年10月30日に原告を解雇した旨主張し、その根拠として、〔1〕被告は、同日に原告に対し、歯科医院に『出なくていい、仕事やらなくていい、出勤しなくていいから、姉や姪に仕事を引き継いでくれ」と発言した(以下「原告主張の発言1』という。)、〔2〕被告は、同月31日、原告に対し、改めてクビであることを宣告し、活動を辞めるように述べた(以下『原告主張の発言2』という。)などと主張するほか、上記・・・記載の事実を根拠として主張する。

しかしながら、本件においては解雇通知書のように被告による解雇の意思表示が記載された書面は作成されておらず、また本件口論の際の被告の発言は上記1(2)(傍線部参照 括弧内筆者)のとおりであり、このような事実関係からは、解雇の意思表示がされたとは認められない。また被告が仮に原告主張の発言1のとおり発言したとしても、これは原告と被告との間の口論の際に発せられたものであり、確定的に原告と被告との間の雇用関係を一方的に解約する旨の意思表示がされたとは評価できないというべきである。さらに、原告主張の発言2については、被告はこれを否定しており・・・、他にこれを裏付ける証拠がない以上は、このような発言がされたとは認められない。

「それ以外の事実について検討すると、被告は、上記・・・のとおり、令和3年10月31日以降は、原告が歯科医院に出勤して歯科衛生士としての業務を行わないようにし、またSNSによる集客業務についても、原告に対してIDとパスワードを引き継ぐように求めているところ、これらの言動は、今後、本件雇用契約に基づいて原告が労務を提供しないことが前提となっている言動ではあるとは評価できる。しかしながら、〔1〕このような言動の発端となった令和3年10月30日の口論の際には、原告は土日に歯科衛生士として勤務をしたくない旨を表明しており、少なくとも歯科医院に勤務をしないことについては、原告の希望に沿うものであること、〔2〕原告及び被告は夫婦であるから、雇用契約の厳格な履行を求めることなく、一時的に就労を求めないことがありうる関係であり、仮に夫婦関係の悪化から一時的に就労を求めないことがあったとしても、ただちに一方的に労働関係を解約する確定的な意思表示がされたと解することはできないことからすると、上記の事実関係は、当分の間、原告が被告において就労できない状態を生じさせる言動ではあるものの、それ以上に、被告が原告を解雇する旨の意思表示をしたとまでは評価できないというべきである。」

3.就労できない状態を生じさせたとは認められたが・・・

 冒頭で述べたとおり、裁判所は上記の判示に続けて、

「被告は・・・原告が被告において就労できない状態を生じさせているといえる」

と判示しています。

 こうなると、原告に就労意思がある限り、不就労期間の賃金請求が認められるため、被告の言動が解雇であるのか否かは、それほど本質的な問題であるわけではありません(ただし、本件では原告が就労意思を喪失していたとして、不就労期間の賃金請求は棄却されています)。

 しかし、発言に加え、グループラインから退出させるなどの諸々の措置をとりながら、なお解雇の意思表示と認定されなかったことは、随分厳しい判断であるように思われます。

 こうした判断がなされた背景には、夫婦間の口論の最中での言動であったことが影響しているように思います。親族関係が背景にある労働事件の処理にあたっては、こうした特徴的な事実認定を受ける可能性があることも、意識しておいた方が良さそうです。

 

未払賃金があることは、使用者の責めに帰すべき事由によって労務提供できない理由になるか?

1.解雇撤回をめぐる攻防

 使用者から解雇された労働者が、解雇の無効を主張して地位確認を求めると、使用者の側から解雇を撤回するから、働くようにと指示されることがあります。

 このような局面で、

解雇が撤回されるまでの間の賃金が支払われない限り働くことはできない、

ということに加え、

働かないのは賃金を支払わない使用者の責任であるから、未払賃金全額が支払われるまでの間は、働かなくても賃金は発生し続ける、

と主張することはできないのでしょうか。

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令5.7.19労働判例ジャーナル144-44 未払賃金等支払事件です。

2.東京地判令5.7.19労働判例ジャーナル144-44 未払賃金等支払事件

 本件で被告になったのは、歯科医院を経営する歯科医師です。

 原告になったのは、被告の妻で、被告の経営する歯科医院で従業員(歯科衛生士)として勤務していた方です。

 令和3年10月30日に口論となり、その後、原告は被告との同居を解消し、雇用契約上に基づく労務の提供を行わなくなりました。

 原告の方は令和3年10月30日の口論で解雇されたと主張して、働けなくなったのは被告の責任であるとして、未払賃金(バックペイ)を請求しました。

 これに対し、被告は、そもそも原告を解雇していないし、別居後一貫して復職を求め続けているのに原告が復職を拒んでいるにすぎないと主張し、原告の請求を争いました。

 裁判所は、被告が原告を解雇した事実を否定しながらも、原告が就労できないのは、被告がそのような状態を生じさせたからだと判示しました。しかし、原告は労務提供する意思を喪失していたとして、未払賃金(バックペイ)の請求を棄却しました。

 注目に値するのは、その判断の中で裁判所が示した次の判示です。

(裁判所の判断)

「原告は、労働審判手続において、被告が未払賃金を支払うことを条件に復職の意向を申し出たとも主張する。しかしながら、本件雇用契約上、過去の未払賃金があることを理由に労働者が労務提供をしなかった場合には、労働者が労務を提供しなかったことの債務不履行責任を免れると解する可能性はあるとしても、それ以上に、労務を提供しなかったことが使用者の責めに帰すべき事由によるものとなるとは解されない。

3.解雇撤回の事案ではないが・・・

 本件は解雇の事実自体が認定されていないため、解雇撤回の事案ではありません。

 しかし、復職を指示する使用者への対応が問題になっているという点で、原告労働者が置かれた状況は、解雇撤回されて復職指示を受けた労働者と大差ありません。

 本件の原告は、

未払賃金を支払ったら復職する、

と述べたうえ、バックペイを請求したようですが、

裁判所は、

未払賃金の存在は、復職命令に従わないことを超えて、復職命令拒否期間中にも賃金が発生することを根拠付ける理由にはならない

と判示しました。

 使用者側からの解雇撤回への労働者側の対応については、様々な考察が重ねられていますが、未払賃金の存在を理由に、復職命令拒否期間中のバックペイまで請求するというのは難しいのかもしれません。

 裁判所の判断は、解雇撤回・復職命令を受けた労働者の対応を考えるにあたり、参考になります。

 

人材紹介会社が提示した労働条件が変更されたかどうかは慎重に検討するべきであるとされた例

1.人材紹介会社(職業紹介事業者)が流す不正確な求人情報

 人材紹介会社(職業紹介事業者)が出している求人情報を見て応募したところ、それとは異なる労働条件を使用者から提案されたとして、トラブルになる例は少なくありません。

 ただ、法も、こうした不正確な求人情報を野放しにしているわけではありません。

 職業紹介法5条の3は、次のとおり規定しています。

第五条の三 公共職業安定所、特定地方公共団体及び職業紹介事業者、労働者の募集を行う者及び募集受託者並びに労働者供給事業者は、それぞれ、職業紹介、労働者の募集又は労働者供給に当たり、求職者、募集に応じて労働者になろうとする者又は供給される労働者に対し、その者が従事すべき業務の内容及び賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。

② 求人者は求人の申込みに当たり公共職業安定所、特定地方公共団体又は職業紹介事業者に対し、労働者供給を受けようとする者はあらかじめ労働者供給事業者に対し、それぞれ、求職者又は供給される労働者が従事すべき業務の内容及び賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。

③ 求人者、労働者の募集を行う者及び労働者供給を受けようとする者・・・は、それぞれ、求人の申込みをした公共職業安定所、特定地方公共団体若しくは職業紹介事業者の紹介による求職者、募集に応じて労働者になろうとする者又は供給される労働者と労働契約を締結しようとする場合であつて、これらの者に対して第一項の規定により明示された従事すべき業務の内容及び賃金、労働時間その他の労働条件・・・を変更する場合その他厚生労働省令で定める場合は、当該契約の相手方となろうとする者に対し、当該変更する従事すべき業務の内容等その他厚生労働省令で定める事項を明示しなければならない。

④ 前三項の規定による明示は、賃金及び労働時間に関する事項その他の厚生労働省令で定める事項については、厚生労働省令で定める方法により行わなければならない。

 第3項の「厚生労働省令で定める事項」と第4項の「厚生労働省令で定める方法」は、それぞれ次のとおりです。

・厚生労働省令で定める事項(労働基準法施行規則4条の2第3項)

一 労働者が従事すべき業務の内容に関する事項(従事すべき業務の内容の変更の範囲を含む。)

二 労働契約の期間に関する事項

二の二 試みの使用期間に関する事項

二の三 有期労働契約を更新する場合の基準に関する事項(通算契約期間・・・又は有期労働契約の更新回数に上限の定めがある場合には当該上限を含む。)

三 就業の場所に関する事項(就業の場所の変更の範囲を含む。)

四 始業及び終業の時刻、所定労働時間を超える労働の有無、休憩時間及び休日に関する事項

五 賃金(臨時に支払われる賃金、賞与及び労働基準法施行規則・・・の額に関する事項

六 健康保険法・・・による健康保険、厚生年金保険法・・・による厚生年金、労働者災害補償保険法・・・による労働者災害補償保険及び雇用保険法・・・による雇用保険の適用に関する事項

七 労働者を雇用しようとする者の氏名又は名称に関する事項

八 労働者を派遣労働者として雇用しようとする旨

九 就業の場所における受動喫煙を防止するための措置に関する事項

・厚生労働省令で定める方法(労働基準法施行規則4条の2第4項)

一 書面の交付の方法

二 次のいずれかの方法によることを書面被交付者(明示事項を前号の方法により明示する場合において、書面の交付を受けるべき者をいう。以下この号及び次項において同じ。)が希望した場合における当該方法

イ ファクシミリを利用してする送信の方法

ロ 電子メールその他のその受信をする者を特定して情報を伝達するために用いられる電気通信・・・の送信の方法・・・

 長々として分かりにくいルールですが、要するに、求人情報で示した労働条件を変更する場合には、書面を交付するなり、ファックスを送信するなり、電子メールを送信するなりして、変更することを明確に告知しろということです。

 また、

「虚偽の条件を提示して、公共職業安定所又は職業紹介を行う者に求人の申込みを行つたとき。」

は犯罪とされており(6月以下の懲役又は30万円以下の罰金 職業安定法65条10号参照)、これによっても、使用者が虚偽の求人情報を職業紹介業者に提供することの抑止が図られています。

 しかし、これらは飽くまでも取締法規であって、求人情報で示した労働条件の変更を告げられ、そのまま済し崩し的に結ばれてしまった労働契約の民事的な効力に直ちに影響を与えるものではありません。

 それでは、こうした取締法規に違反していたとしても、民事紛争との関係では何の意味もないのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令5.7.19労働判例ジャーナル144-44 イザベラハウス事件です。

2.イザベラハウス事件

 本件で被告になったのは、飲食店の経営や不動産業を主たる事業目的とする有限会社です。

 原告になったのは、求人サイトに掲載されていた被告の求人情報に応募し、被告取締役Bの指示を受け、選挙用ポスターの裏側に取り付けるための両面テープの買い出し等をしていた方です。就労初日の午後1時ころから買い出しに出かけ、被告事務所に戻った後、同日午後4時30分頃に被告事務所から立ち去り、そのまま被告に対して労務を提供しなくなりました。

 その後、原告は、違法・無効な解雇をされたことを理由として、契約期間満了時までの賃金や、ハラスメント行為等を理由とする損害賠償を請求する訴えを提起しました。

 この訴えを審理する中で、求人情報とは異なる内容の労働契約を締結されていたこと(被告の求人情報に応募したのにB個人との間で労働契約が結ばれたこと)について、裁判所は、次のとおり判示しました。

(裁判所の判断)

「原告は虚偽の労働条件で求人を募集することは違法であり、労働条件を書面で明示することが義務付けられている旨を主張する。」

「確かに、職業安定法5条の3第3項及び4項及び職業安定法施行規則第4条の2第5項は、求人者等が、職業紹介事業者等の紹介による求職者等と労働契約を締結する場合に、職業紹介事業者等を通じて明示した業務内容、賃金、労働時間その他の労働条件(以下『従事すべき労働条件等』という。なお、労働者を雇用しようとする者の氏名又は名称に関する事項を含む(同施行規則4条の2第3項7号)。)と異なる労働条件に変更する場合には、当該契約相手となろうとする者に対し、当該変更する従事すべき労働条件等を明示しなければならず、その方法は原則として書面の交付、FAX送信、電子メール等の送信によらなければならない旨を定めており、虚偽の条件を提示して職業紹介を行う者に求人の申し込みを行った者に関する罰則も定められている(職業安定法65条9号)が、前記各規定に違反したからといって直ちに求人情報のとおりの労働条件で労働契約が成立するという法的効果は生じない。労働基準法15条1項違反についても同じである。」

「もっとも、前記各規定の趣旨は、使用者(求人者)に対し従事すべき労働条件等を明示させることにより、労働者(求職者)が労働契約を締結する前に従事すべき労働条件等を適切に把握することができるようにすることにあると考えられることから、労働契約の当事者や労働条件に争いがある事案において、従事すべき労働条件等の変更が行われたにもかかわらず、所定の方法による変更後の従事すべき労働条件等が明示されていない場合には、実際に変更後の労働条件等により労働契約が締結されたといえるか否かについて慎重に検討するべきであると考えられる。

「本件では、本件求人情報は被告の求人募集として本件サイトに掲載されていたのに、その後、BはB個人が使用者であると伝え、従事すべき労働条件等の変更を提案しているが、当該従事すべき労働条件等の変更について本件メールにより明示されていたとは認め難い。しかし、この点の経過については原告自身も原告本人尋問において認めていることからすれば、前記・・・のとおり、本件メールが送受信された段階では、原告及びBの間では、使用者はB個人であることは明確になっていたと認められる。よって、前記・・・のとおり、原告と被告との間で労働契約が成立していたとは認めることはできない。」

3.結論として原告の請求は棄却されたが・・・

 本件では、結論として会社に対する請求は棄却されています。

 しかし、

「前記各規定の趣旨は、使用者(求人者)に対し従事すべき労働条件等を明示させることにより、労働者(求職者)が労働契約を締結する前に従事すべき労働条件等を適切に把握することができるようにすることにあると考えられることから、労働契約の当事者や労働条件に争いがある事案において、従事すべき労働条件等の変更が行われたにもかかわらず、所定の方法による変更後の従事すべき労働条件等が明示されていない場合には、実際に変更後の労働条件等により労働契約が締結されたといえるか否かについて慎重に検討するべきであると考えられる。」

という考え方を示した部分は、他の事案にも応用可能な有意義な判示だと思います。以後、求人情報と実際の労働契約に齟齬がある場合には、上記判示部分を引用して行くことが考えられます。

 労働者敗訴事案ではあるものの、裁判所の上記判示は実務上参考になります。

 

求人票上の「3~5時間分の残業手当を固定残業代として支給する」との記載では判別可能性がないとされた例

1.固定残業代の有効要件

 最一小判令2.3.30労働判例1220-5 国際自動車(第二次上告審)事件は、固定残業代の有効要件について、

通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の定める割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である・・・。そして、使用者が、労働契約に基づく特定の手当を支払うことにより労働基準法37条の定める割増賃金を支払ったと主張している場合において、上記の判別をすることができるというためには、当該手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていることを要するところ、当該手当がそのような趣旨で支払われるものとされているか否かは、当該労働契約に係る契約書等の記載内容のほか諸般の事情を考慮して判断すべきであり・・・、その判断に際しては、当該手当の名称や算定方法だけでなく、上記・・・で説示した同条の趣旨を踏まえ、当該労働契約の定める賃金体系全体における当該手当の位置付け等にも留意して検討しなければならない」

と判示しています。

 傍線部の一番目は「判別要件」「明確区分性」などと言われています。傍線部の二番目は「対価性要件」と言われています。

 近時公刊された判例集に「判別要件」に欠けるとして、固定残業代の効力が否定された裁判例が掲載されていました。東京地判令5.7.18労働判例ジャーナル144-44 空色スペース事件です。この事件は、

求人票上に、

「固定残業代 5000円~1万円。3~5時間分の残業手当を固定残業代として支給し、3~5時間を超える時間外労働分は法定どおり追加で支給。」

という記載があり、

労働者の側で、

「被控訴人が控訴人から賃金月額20万円に諸手当及び固定残業代が含まれているとの説明を受けたことは認める」

という認否をしながらも、固定残業代の効力が否定された点に特徴があります。

2.空色スペース事件

 本件は控訴人(一審被告)との間で雇用契約を締結し、その後業務委託契約を締結した被控訴人(一審原告)が時間外勤務手当等を請求した事件です。原審簡裁が一審原告の請求を一部認容したことを受け、一審被告が控訴したのが本件です。

 一審被告は居宅介護支援事業を目的とする合同会社です。

 一審原告は、一審被告でケアマネージャーの仕事に従事していた方です。

 時間外勤務手当等を請求するにあたっては、固定残業代の効力が問題になりました。

 一審被告が作成した求人票には、

「固定残業代 5000円~1万円。3~5時間分の残業手当を固定残業代として支給し、3~5時間を超える時間外労働分は法定どおり追加で支給。」

と明記されていたからです。

 一審被告は、

「本件雇用契約においては、賃金月額20万円に諸手当及び固定残業代(1日当たり5時間分)を含むことが合意されて」

いたと主張し、一審原告(被控訴人)も、

「被控訴人が控訴人から賃金月額20万円に諸手当及び固定残業代が含まれているとの説明を受けたことは認める」

と固定残業代の説明を受けたこと自体は認めていました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「労基法37条が時間外労働等について割増賃金を支払うべきことを使用者に義務付けているのは、使用者に割増賃金を支払わせることによって、時間外労働等を抑制し、もって労働時間に関する同法の規定を遵守させるとともに、労働者への補償を行おうとする趣旨によるものであると解される(最高裁昭和44年(行ツ)第26号同47年4月6日第一小法廷判決・民集26巻3号397頁参照)。また、割増賃金の算定方法は、同条並びに政令及び厚生労働省令の関係規定(以下、これらの規定を「労基法37条等」という。)に具体的に定められているところ、同条は、労基法37条等に定められた方法により算定された額を下回らない額の割増賃金を支払うことを義務付けるにとどまるものと解され、労働者に支払われる基本給や諸手当(以下『基本給等』という。)にあらかじめ含めることにより割増賃金を支払うという方法自体が直ちに同条に反するものではない。」

「他方において、使用者が労働者に対して労基法37条の定める割増賃金を支払ったとすることができるか否かを判断するためには、割増賃金として支払われた金額が、通常の労働時間の賃金に相当する部分の金額を基礎として、労基法37条等に定められた方法により算定した割増賃金の額を下回らないか否かを検討することになるところ、同条の上記趣旨によれば、割増賃金をあらかじめ基本給等に含める方法で支払う場合においては、上記の検討の前提として、労働契約における基本給等の定めにつき、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である(最高裁平成3年(オ)第63号同6年6月13日第二小法廷判決・裁判集民事172号673頁、最高裁平成21年(受)第1186号同24年3月8日第一小法廷判決・裁判集民事240号121頁、最高裁平成27年(受)第1998号同29年2月28日第三小法廷判決・裁判集民事255号1頁、最高裁平成28年(受)第222号同29年7月7日・裁判集民事256号31頁参照)。」

控訴人は、月額20万円の賃金には、諸手当及び1日当たり5時間分の固定残業代が含まれている旨主張し、本件求人票には固定残業代の記載があるが、当該記載においてその時間数は特定されていないこと、被控訴人は、原審第2回口頭弁論期日において、本件雇用契約の締結時に控訴人から諸手当、固定残業代を全て含んで月額20万円の給料であると説明されたにとどまる旨を述べていることに照らすと、控訴人と被控訴人の間で固定残業代を1日当たり5時間分に相当するものとする旨の合意があったと認めることはできない。そして、上記諸手当の内訳及び金額も不明であることも併せ考慮すると、上記20万円のうち固定残業代に相当する額がいくらかを計算することは不可能であるから、通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の定める割増賃金に当たる部分とを判別することはできない。

「したがって、本件において、月額20万円の月例賃金の支払により労基法37条の割増賃金が支払われたということはできない。」

3.金額も時間も特定されていないようでは、やはりダメ

 判別可能性が求められるのは、判別可能性がないと、本来支払われるべき時間外勤務手当等の金額を計算することができなくなるからです。

 幾ら固定残業代を含むことが明示・説明されていたとしても、具体的な金額や時間数の合意がなければ、判別可能性が認められることはありません。

 本件類似の事案で不本意な固定残業代を適用されている方は、一度、弁護士のもとに相談に行ってみても良いのではないかと思います。もちろん、当事務所にご相談頂いても大丈夫です。