弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

初期の固定残業代が無効であったことから、その後の基本給の増額が労働条件の不利益変更扱いとされた例

1.固定残業代

 固定残業代とは、

「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」

をいいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。

 固定残業代は、一定の要件のもとで残業代の支払としての有効性が認められています。

 しかし、固定残業代は使用者にとって損でしかない仕組みです。

 残業時間が予定された時間に満たなくても固定残業代部分の賃金を支払わなければならない反面、実労働をもとに計算した残業代が固定残業代を上回っている場合には、その差額を労働者に支払わなければならないからです。労働者の労働時間を把握する責務から解放されるわけでもなく、固定残業代の導入には、何のメリットもありません。

 それでも固定残業代が採用されているのは、賃金に固定残業代を組み込んでおけば定額働かせ放題にすることができるといった誤解が横行していることなどに原因があります。

 当たり前ですが、こうした法潜脱的な固定残業代の定めは、その効力が否定されます。固定残業代の有効性が否定されると、固定残業代の支払に残業代の弁済としての効力が認められなくなるほか、使用者は固定残業代部分まで基礎単価に組み込んで計算した割増賃金を改めて支払うことになります。このことが使用者側にもたらすダメージは大きく、一般に「残業代のダブルパンチ」(白石哲ほか編著『労働家計訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕118頁)などと呼ばれています。

 また、近時公刊された判例集に、

「その後の基本給の増額が労働条件の不利益変更扱いとされる」

というトリプルパンチともいえる効果が認められた裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令5.3.29労働経済判例速報2536-28 染谷梱包事件です。

2.染谷梱包事件

 本件で被告になったのは、貨物自動車運送事業等を業とする特例有限会社です。

 原告になったのは、被告との間で期間の定めのない労働契約を締結し、トラック運転手として働いていた方です。被告を退職した後、未払割増賃金(残業代)等を請求する訴えを提起したのが本件です。

 原告の賃金構成は特徴的で、入社当時、2トントラックを運転していた時の賃金は、

基本給12万円、

残業手当12万円

とされていました。

 これが10トントラックを運転するようになり、

基本給16万円、

残業手当17万円⇒22万円⇒24万円⇒26万円

と随時増額されて行ったという経過が辿られています。

 本件では、当初契約の「残業手当12万円」の固定残業代としての有効性が否定されました。

 結果、基本給が12万円⇒16万円に増加されたこと等は、労働条件の不利益変更として、その効力が議論されることになりました。該当部分に係る裁判所の判示は、次のとおりです。

(裁判所の判断)

原告が10トントラックを運転するようになった頃、月例賃金のうちの基本給は16万円となり、『残業手当』名目の賃金は17万円、22万円、24万円、26万円と順次増額されている。仮に上記『残業手当』名目の賃金が固定残業代の定めとして有効であれば、基礎賃金は基本給の16万円のみとなり、基礎賃金が月額24万円・・・から不利益に変更されることになるから、労働条件の不利益変更に対する労働者の同意があったか否かという点も問題となる。

(中略)

「本件について見ると、証人Aは、原告の月例賃金を変更する際に原告にその内容を説明した旨証言するものの、原告本人はそのことを否定しており、月例賃金の変更に当たって、改めて雇用契約書や労働条件通知書等の書面は一切作成されていないことからすると、同証人の証言を直ちに採用することはできない。その点を措くとしても、原告は、入社当時2トントラックを運転したが、その後10トントラックを運転するようになり、配送の範囲も関東一円から長距離に拡大され、その責任や負担が重くなることはあっても、軽くなることはなかったのであるから、労働条件の不利益変更に対する同意が労働者の自由な意思に基づいてなされたと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するともいえない。」

「また、同証人の証言を前提としても、原告が10トントラックの長距離運行を担当していた時期に、原告の業務の内容に変更がないにもかかわらず、『残業手当』名目の賃金を22万円、24万円、26万円と順次増額変更した理由として、原告の働きぶり、頑張りに対する評価の要素が含まれており・・・、このような点に照らすと、上記『残業手当』名目の賃金には通常の労働時間の賃金に当たる部分が含まれていると解さざるを得ず、その部分については時間外労働等に対する対価性を欠くというべきである。そうすると、上記『残業手当』名目の賃金の通常の労働時間の賃金に当たる部分と固定残業代に当たる部分とを判別することはできないから、上記『残業手当』名目の賃金は固定残業代の定めとして有効とは認められない。」

「以上のとおり、原告の月例賃金が変更される都度、『残業手当』名目の賃金を固定残業代とする合意があったのかどうかも不明である上、その点を措くとしても、労働条件の不利益変更に対する同意が労働者の自由な意思に基づいてされたと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するともいえないし、また、『残業手当』名目の賃金は、時間外労働等に対する対価性を欠き、通常の労働時間の賃金に当たる部分と固定残業代に当たる部分とを判別することはできないから、いずれにせよ、『残業手当』名目の賃金が固定残業代の定めとして有効とは認められない。

3.情報提供や説明が普通されない事案における「自由な意思の法理」の適用

 裁判所は、当初契約の「残業手当」の固定残業代としての効力を否定し、固定残業代の効力が否定された後の賃金(基礎賃金月額24万円)との関係では不利益変更に該当するとして、基本給を16万円とする措置等の効力を否定しました。

 賃金のような重要な労働条件を合意によって不利益に変更するためには、「自由な意思の法理」が適用されます。これは、

「使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である」

とする判例法理です(最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件)。

 自由な意思の法理のもとで労働条件を不利益に変更するためには、労働者への事前の情報提供や説明の内容が重要な意味を持ちます。

 本件の場合、使用者側としては、基本給や残業手当を「増額」したと認識しているのであって、労働条件を不利益に変更したと思っているわけではありません。そのため、自由な意思の法理の適用を踏まえ、労働条件の不利益変更に必要となるレベルでの情報提供や説明がされるはずもありません。

 しかし、裁判所は、自由な意思の法理を適用したうえ、情報提供や説明の欠如等を指摘し、基本給を16万円とする措置の効力を否定しました。本件のように、労働条件の不利益変更に必要となるレベルでの情報提供や説明が期待できない場合でも自由な意思の法理が適用されると判示し、使用者側にトリプルパンチともいうべきペナルティを科した事案として、本件は実務上参考になります。

 不適切な固定残業代の設定は、後々まで使用者の不利益に作用します。やはり、固定残業代の導入に関しては、危険はあっても利点はないといえそうです。