弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

勤務先から未収金を支払えと言われたら・・・

1.未収金を支払え

 クラブホステスなどの一定の業種では、事業主から顧客に対する未収売掛金の支払の保証を求められることがあります。これの亜種というわけでもありませんが、使用者から未収金の支払いを求められる労働者は少なくありません。法律相談をしていると、一定の頻度で、会社から未収金の支払いを求められている/求められて支払うと約束してしまったがどうしたらいいのかという質問を受けます。

 求められているだけであれば、応じられないと断ればよいだけです。

 問題は、求められて拒み切れずに曖昧な返事をしてしまったり、支払うと約束してしまったりした場合です。このような場合、労働者は使用者からの未収金の請求に応じなければならないのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が掲載されていました。大阪地判令4.5.20労働判例ジャーナル126-16 千田事件です。

2.千田事件

 本件で被告になったのは、厨房用機会器具の製造・販売、厨房設備工事等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、被告で定年まで勤めあげた後、嘱託社員として働いてきた方です。被告を退職したうえ、退職金の支払いを求めたところ、担当取引先に対する未収金が約1億9600万円あるとして退職金の支払いを拒まれました。未収金については原告が責任を持って回収することになっていた(未収金の回収が完了しなければ退職金を支払わない旨の合意が成立していた)というのが被告の主張の骨子です。こうした被告の対応を踏まえ、原告は退職金等の支払いを求める訴えを提起しました。

 この事案で、裁判所は、次のとおり述べて、上記合意の成立を否定し、原告による退職金請求を認めました。

(裁判所の判断)

「被告は、原告と被告との間で、平成28年7月12日に、原告が未収金の回収を行い、未収金の回収が完了しなければ退職金を支払わない旨の合意が成立した旨主張し、被告代表者も手帳に記載があるなどとして、これに沿う供述をする。」

「しかし、被告の退職金規程を前提とした原告の退職金が562万8000円(被告から支給される部分は238万6257円。)という金額になること自体は当事者間に争いがないところ、そのような高額の退職金を支給しない(あるいは支給しない可能性がある)旨の合意をするのであれば、その旨の書面を作成することが想定され、実際、原告が、本件文書1ないし本件文書3において、未収金残高を認めたり、未収金について責任をもって回収する旨の書き込みや署名・押印をしていることに照らせば、そのような書面を作成すること(あるいは本件文書1ないし本件文書3において、未収金の回収に関する記載と併せて退職金に関する合意内容を記載すること)について支障はなかったといえるが、原告と被告との間において、原告の定年退職の前後を通じて、退職金を支給しない(あるは支給しない可能性がある)旨の合意をしたことを明らかにする書面は作成されていない(なお,被告代表者もそのような内容の文書を作成していないこと自体は自認している(被告代表者尋問調書7頁)。)。

(中略)

「確かに、退職金は、一般的には、退職の時期に近接した時期に支払われるものであり、実際、被告の退職金規程においても、退職金は退職の事実の発生した日の属する月の翌月末日までに支給することとされているが・・・、原告の定年退職日が平成28年7月31日であるにもかかわらず、同年8月末日までに退職金が支払われていないこと、原告が、定年退職後、本件訴えを提起するまでの間に、被告に対して退職金を請求した形跡もうかがわれないこと(なお、原告は、被告に退職金を請求したことがある旨供述するが・・・、時期や態様が明らかとなっておらず、また、供述を的確かつ客観的に裏付ける証拠もない。)。)、手帳に「未収金解決後退職金支払とする」などの記載があること・・・からすれば、何らかの事情があったことはうかがわれる。」

「しかし、前記・・・認定説示のほか、原告が、被告代表者から、未収金を回収しない限り退職金は払わないと一方的に言われた、強く言うと嘱託契約もなされないこともあるかと思った旨供述していること・・・、前記・・・のとおり、dについても未収金があることを理由に退職金が支払われていないことからすれば、被告においては、未収金を理由に退職金を支給しない運用がなされていたこともうかがわれるということができ、後記の金銭消費貸借契約書に関する事情からうかがわれる被告の強固な意思をも併せ考慮すれば、手帳の記載は、そのような被告の運用・意思の表れであるということができる。」

「そうすると、退職金規程所定の時期に退職金が支払われていないことや手帳の記載をもって、原告が、被告が主張するような合意をしたことの証左であると評価することはできない。」

「以上を総合考慮すれば、被告代表者の供述を的確かつ客観的に裏付ける証拠はなく、また、その供述内容も不合理であることからすれば、被告代表者の供述を採用することはできず、ほかに、原告と被告との間で、原告が未収金の回収を行い、未収金の回収が完了しなければ退職金を支払わない旨の合意が成立したことを認めるに足りる証拠もない。」

「したがって、本件において、被告が主張するような合意が成立したと認めることはできない。」

仮に、前記・・・をさておき、原告と被告との間で、被告が主張するような合意がなされたという事実があったとした場合、それは、退職金に関する労働条件を変更するものである。使用者と労働者は、その合意により労働契約の内容である労働条件を変更することができるところ、使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁平成28年2月19日第二小法廷判決・民集70巻2号123頁参照)。

「本件についてみると、原告の退職金は562万8000円(被告から支給される部分は238万6257円。)であるところ、そのような高額の退職金の支払を受けられないこととなれば、その不利益の程度は非常に大きなものとなる。」

「また、既に説示したとおり、仮に、被告に未収金が生じていたとしても、それは基本的には被告が組織として取引相手から回収を図るべきものであって、従業員が個人的に負担すべきものではないから、そのような未収金の存在を理由に退職金を不支給とすることに合理的な理由があるとはいい難い。

「さらに、被告は、令和2年4月頃から、原告に対し、未収金相当額について、被告から原告に対する貸金とする旨の金銭消費貸借契約書に署名・押印することを求めているところ・・・、かかる行為は、未収金を何としても、従業員個人から回収しようとする強固な被告の意思の表れであるといえる。実際、被告の主張やdの供述を前提とすれば、被告は、dとの間においても、dが未収金を発生させていたことを理由に、同様に、未収金を回収しなければ退職金を支給しない旨の合意をしたことになるが、これも、未収金を何としても、従業員個人から回収しようとする強固な被告の意思の表れであるといえる。」

「以上からすれば、仮に、被告が主張するような合意が存するとしても、そのような合意は、原告の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するとは到底いうことができず、無効というほかない。

3.書面作成の有無/自由な意思の法理

 裁判所の判断で注目しているのは、次の二点です。

 一つ目は、合意の認定にあたり書証の存在を重視していることです。

 要旨、書証がない⇒被告側の主張の裏付けがない⇒合意の成立が認められない、といったように議論が展開されています。このことは、黙認してしまったかのような事実経過が存在する事案でも、書面がなければ、債務負担・退職金不支給の合意の成立自体を争える余地があることを意味します。

 二つ目は、未収金について、基本的に被告が回収を図るものであり、従業員が個人的に負担すべきものではないと指摘したうえ、退職金不支給の合意に自由な意思の法理を適用していることです。本来会社が被るべき負担を従業員が負担することの整合性が問われるのであれば、退職金の絡まない単純な債務負担行為においても、自由な意思の法理の適用があっておかしくないのではないかと思われます。

 仮に会社から未収金を個人で払えと言われ、黙認、債務負担の合意をしてしまったとしても、合意自体の成立を争ったり、自由な意思の法理の適用を主張して合意の効力を争ったりできる余地はあるように思います。 

 この問題でお困りの方は、一度、弁護士に相談してみることをお勧めします。もちろん、当事務所でもご相談はお受けできます。