弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

固定残業代の支払いの取り止め-労働者が「お任せします」と言っただけではダメ

1.合意による労働条件の変更

 労働者と利用者は、合意することにより、労働条件を変更することができます(労働契約法8条)。

 しかし、賃金の減額を伴うなど労働条件を不利益に変更する場合、「合意」の存在は、かなり慎重に認定される傾向にあります。使用者からの提案に対し、これに応じる旨の返事をしてしまっても、すぐに前言を翻して争えば、合意の存在を争える場合があります。契約の成立後に文句を言ったところで後の祭りでしかない民法の世界の原則からすると、事後的に不服を言えば合意の成立が妨げられるというのは違和感のある考え方なのですが、労働法の世界では、事後的に異議を唱えることが、事実認定に少なくない影響力を持っています。そのことは、近時公刊された判例集に掲載されていた、大阪地判令3.9.17労働判例ジャーナル119-50 オフィス事務所事件からも窺い知ることができます。

2.オフィス事務所事件

 本件で被告になったのは、携帯電話機の販売代理店の運営事業等を行う株式会社(被告会社)とその営業本部長等の地位にあった方(被告c)です。

 原告になったのは、被告との間で雇用契約を締結し、販売代理店の店長等として勤務していた方です。賃金構成は、

基本給 月額20万円

役職手当(チームリーダー) 月額4万円

皆勤手当 月額1万円

残業手当(固定残業時間45時間) 月額9万円

とされていました。また、被告は、原告の署名がなされた「月の労働時間が規定労働時間に満たない場合は、固定残業代の支払いは無いものとする。」と記載された雇入通知書を作成、保管していました。

 本件の主要な争点は、休職期間の満了による退職扱いの適否と被告Cによるパワーハラスメントの成否ですが、付随的な問題として、残業手当の不支給の可否の問題がありました。原告の方は令和元年5月17日から休職と扱われることになりましたが、その月(令和元年5月分)の賃金について、残業手当が支払われませんでした。

 その理由について、被告会社は、

規定労働時間以上の労働をしていないこと、

固定残業手当の支払を取り止める旨告げたところ、原告が「お任せします」等と述べたこと、

を主張しました。

 このような被告会社の言い分には理由がないとして、原告は被告に対して残用手当の支給を求めました。

 裁判所は、次のとおり述べて、被告に対し、固定残業代の支払いを命じました。

(裁判所の判断)

「原告が署名押印をし、被告会社が保有している雇入通知書に、固定残業手当を示す『残業手当』『(固定残業時間45時間)』として月額9万円を支給する旨の記載があることに照らし、固定残業手当月額9万円の支給は、本件雇用契約の内容となっていることが認められる・・・。」

「そこで、令和元年5月分の固定残業手当を支給していない被告会社において・・・、かかる対応の法的根拠について主張立証すべきところ、被告会社は、規定労働時間に満たない場合には固定残業手当は支給されない旨の約定があり、かつ、原告は令和元年5月における規定労働時間以上の労働をしていないから、固定残業手当は支給されないなどと主張する。」

「しかし、固定残業手当を不支給とする要件としての『規定労働時間』につき、原告が署名押印をし、被告が保有する雇入通知書・・・にそれがいかなる時間を指すものであるか、一切言及はない。これに、原告が法人営業グループに配属されて以降、繁閑の差その他事情によって毎月の労働時間は必ずしも一律ではないであろう中、固定残業手当月額9万円の支給が継続されていたこと・・・を併せ考慮すれば、固定残業手当は、被告会社主張に係る約定の記載如何にかかわらず、本件雇用契約の内容として毎月支給されるものであったと解することが相当であり、これに反する被告会社の主張は採用できない。」

「また、被告会社は、原告が固定残業手当の減額等を了承していた旨主張し、前記認定事実のとおり、原告が『お任せします。』等との返答をした事実は認められる・・・。しかし、月額9万円という固定残業手当の金額及びそれが賃金額全体に占める割合・・・、原告が固定残業手当について記載のない従前とは異なる内容の本件雇入通知書への押印等を拒絶していること・・・に照らせば、原告の返答内容を考慮しても、原告が固定残業手当の減額を了承し、ひいては、原告と被告会社の間に労働契約の内容である労働条件を変更する旨の合意(労働契約法8条参照)が成立したと認めることはできない。

「さらに、被告会社は、固定残業手当が支給されない場合であっても、時間外労働があれば、法規に従った割増賃金の支給をしているなどと主張し、前記認定事実によれば、単に賃金を減額するものではなく、別途割増賃金が支払われる旨の被告cの発言(・・・『減った分はこれからもちゃんと出すけどもみなし残業としてはつけへんから』との発言等)が認められる。しかし、合意によって定められた賃金額を一方的に変更することは許されず、この点に関する被告会社の主張によって固定残業手当の不支給が認められるものとはいえない。」

「そうすると、これら被告会社が主張するところによって、固定残業手当の支払義務が消滅するものではなく、これに反する被告会社の主張は採用できない。」

「以上によれば、被告会社がした令和元年5月分の固定残業手当の不支給について、これが有効であるとは認められない。」

3.不本意な合意をしてしまったら、早目に相談を

 冒頭で述べたとおり、労働法の世界では、使用者からの求めに応じるような言動をとってしまっていても、直ちに異議が述べられたことが、法的な意味における合意の成立を否定する根拠になることがあります。

 そのため、納得のいかない労働条件の切り下げを押し付けられてしまったときには、できるだけ早く専門家に相談し、異議を述べておくことが重要です。