弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

年収2500万円を提示されたのに、年収2000万円の契約書を作ってしまっても・・・

1.別法人から残額が支払われると思っていたという主張

 昨日、自己調達した防塵マスクを着用して診療にあたったことを理由に、医師が勤務開始初日に即日解雇された裁判例を紹介しました(さいたま地判令3.1.28労働判例ジャーナル109-2 医療法人社団和栄会事件)。

防塵マスクを着用して就労した医師を解雇することは許されるか? - 弁護士 師子角允彬のブログ

 この事件は、新型コロナウイルスの流行する世相を反映した事件という点で目を引くだけではなく、かなり珍しい判断がされている裁判例でもあります。

 何が珍しいのかというと、年収2000万円の雇用契約書しか取り交わしていなかった事案でありながら、年収2500万円を基準とした未払賃金請求が認められている部分です。

2.医療法人社団和栄会事件

 本件は勤務開始初日に即時解雇された医師が、解雇の無効を主張して、地位確認と未払賃金の支払を請求した事件です。

 被告になったのは、二つの医療法人社団です。

 一つは、所沢腎クリニックを開設・運営する医療法人社団である被告和栄会です。

 もう一つは、所沢第一病院を開設・運営する医療法人社団である被告秀栄会です。

 原告と被告和栄会は、人材紹介会社を通じ、

勤務先  所沢腎クリニック 及び 所沢第一病院

想定年収 2500万円

とする雇用概要確認書を作成しました。

 しかし、原告は、被告和栄会と

年収 2000万円

とする医師勤務契約書を取り交わしただけで、被告秀栄会とは何の書面も作成していませんでした。

 このことについて、原告は、年俸2500万円を、被告和栄会との関係で2000万円、被告秀栄会との関係で500万円と分割すると通告を受けていたからだと主張しました。勤務開始初日に解雇されたため、被告秀栄会との間では契約書の作成に至らなかっただけだという主張です。

 こうした事実関係のもと、原告は年俸2500万円を基準とした未払賃金を請求するため、二つの法律構成を主張しました。

 一つは、被告秀栄会との間で年俸を500万円とする契約が既に成立していたという主張です。雇用契約の成立には、書面によることが必要とされているわけではありません。事務的な書面作成が未了であっただけだという主張です。

 もう一つは、被告和栄会との間で年俸2500万円とする合意が成立していたとする主張です。形式的に被告秀栄会と年俸を分割することを認めはしたものの、年俸額に関する合意は飽くまでも2500万円だという考え方です。

 裁判所は、次のとおり述べて、一つ目の法律構成は否定しましたが、二つ目の法律構成を容れ、年俸は2500万円であると認定しました。解雇を無効としたため、結論として、被告和栄会には年俸2500万円を基準とする未払賃金の支払が命じられています。

(裁判所の判断)

-被告秀栄会との間での契約の成否について-

「前記認定のとおり、原告は、令和元年10月23日の時点で被告和栄会との間で雇用条件の概要を合意し、入職日である令和2年4月1日に被告和栄会との間で雇用契約書を作成しているものの、被告秀栄会との間においては、何らの合意もした形跡はない。」

「この点、たしかに、原告が当初合意した年俸は2500万円であるのに対し、被告和栄会との間の雇用契約書上の年俸は2000万円であること、被告和栄会のD事務長が被告秀栄会と原告との間で雇用契約書が作成される予定であることを認識して原告に伝えていたことからすれば、雇用概要確認書に記された勤務日の割合に照らしても、被告秀栄会との間で年俸を500万円とする雇用契約書が別途作成されるものと原告が考えたことは合理的といえる。

しかし、D事務長は被告和栄会の者であり、被告秀栄会と原告との雇用契約に関する事務を取り扱う権限を有していたとまでは認められないこと、被告秀栄会から原告に対して明確に雇用契約の内容が示されたことはないこと、被告和栄会との間の雇用契約書に記された職位や勤務時間、勤務日は、雇用概要確認書と比較して不足するところはないから、被告秀栄会における役職や勤務日を推知することもできないことなどからすれば、被告和栄会との間の雇用契約書を作成した時点で、被告秀栄会との間の雇用契約が口頭で成立したということはできない。

-被告和栄会との間での年俸額の合意について-

「雇用概要確認書を形式的に読めば、原告は、被告和栄会の雇用の下で、被告秀栄会が運営する所沢第一病院でも勤務し、年俸2500万円の支払を受けることとなるべきところ、被告和栄会とは別に被告秀栄会との雇用契約を締結するということについては、当事者間に実質的な合意が成立した形跡は一切ない。」

「前記認定のとおり、令和2年4月1日に原告が被告和栄会との雇用契約書を作成するときは、被告秀栄会との間でも別途雇用契約書を作成することが予定されており、原告もそのことを認識し、被告秀栄会から雇用概要確認書の年俸との差額である年俸500万円を受けられるものと信じていた。原告としては、被告秀栄会と別途雇用契約を締結する実益はない反面、給与の全額が被告和栄会から支払われようが、被告秀栄会と分けて支払われようが、実質的に不利益もないことから、被告和栄会からの年俸を2000万円とする雇用契約書に署名押印したものと認められる。」

「そうであれば、被告和栄会とは別に被告秀栄会との間でも雇用契約書の作成が予定されていたことは、被告ら側の事情により形式的に契約を分けるためのものに過ぎないというべきであるから、被告和栄会との年俸2000万円での契約がそれ自体で雇用概要確認書を変更するものというのは相当でなく、被告秀栄会との間の契約も成立して、雇用概要確認書どおりの条件が満たされて初めて、雇用概要確認書の内容を変更する効果が生じると解すべきである。

したがって、被告秀栄会との間で雇用契約が成立せず、原告が被告秀栄会に対する賃金請求権を形式的にも取得するに至らなかった以上、被告和栄会は、雇用契約書の記載に関わらず、原告に対し、雇用概要確認書のとおり年俸2500万円を毎月12等分して支払う義務を免れないというべきである。

3.概要確認書の段階で合意の成立が認定された

 一見すると、本件は特異な事案であり、他の事案への応用可能性に乏しいように思われるかも知れません。

 しかし、労働契約の締結過程において、中間的な合意を経た後、雇用契約書の取り交わしに至っているケースは、割と少なくないように思われます(中間的な合意を契約とみるのか単なる交渉過程の一地点にすぎないとみるのかという問題はありますが)。 

 本件の裁判所で採用されている理屈は、こうした事案に応用することができる可能性があり、覚えておいて損はなさそうに思われます。