弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

「1コマ1万円」では労働契約の成立は認められない?

1.契約の文言をめぐる同床異夢

 契約上の文言をめぐって、各当事者が異なる認識を有することがあります。

 例えば、「100円」という文言も、税抜か税込かが表示されていなければ、二通りの理解が有り得ます。売る方は税抜100円・税込110円だと認識していたとしても、買う方は税込100円だと思っているかも知れません。

 同様の問題は、労働契約の場面でも生じます。例えば、講師の募集にあたっては「1コマ1万円」という文言で、求人募集されることがあります。

 この「1コマ1万円」には、

1授業あたり1万円であるという理解と、

1週間の時間割のうち1授業(月4回から5回)を受け持ち、それが1万円であるという理解

の二通りの考え方が成り立ちます。

 「1コマ1万円」という言葉自体は双方が認識していたものの、講師側が前者の意味で理解し、学校側が後者の意味で理解していたという場合、労働契約の成立は認められるのでしょうか?

 近時公刊された判例集に、この問題を取り扱った裁判例が掲載されていました。大阪地判令2.10.15労働判例ジャーナル107-24 イスト事件です。

2.イスト事件

 本件で被告になったのは、教育機関への人材派遣等の事業を行っている会社です。

 原告になったのは、教員免許を有し、被告に派遣登録していた方です。

 原告の方は、被告から、派遣先として須磨ノ浦高校の紹介を受けました。須磨ノ浦高校の求人案内には、「1コマ10,000円/月額固定」と記載されていました。

 これを原告は1授業1万円と理解しました。しかし、須磨ノ浦高校は、1週間の時間割のうち1授業(月4回から5回)を受け持ち、それが1万円であるということを意図していました。

 しかし、派遣会社である被告が就業条件の明示(労働者派遣法34条)をしなかったため、原告と須磨ノ浦高校の認識の齟齬は健在化することなく話が進み、須磨ノ浦高校は原告に授業用の教科書を交付しました。

 その後、被告派遣会社の社員Cから賃金は1授業1万円ではないとの認識が示され、原告は須磨ノ浦高校で働くことを断念しました。

 こうした事実関係のもと、原告は、

既に1授業1万円で労働契約は成立していた、

そうであるにもかかわらず、被告は原告を不当に解雇した、

と主張し、派遣期間満了までの賃金額に相当する損害賠償等を請求する訴訟を提起しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、労働契約の成立を否定し、原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「原告は、原告と被告との間で、須磨ノ浦高校への派遣に係る有期労働契約が成立した旨主張する。しかしながら、原告の主張を前提としても、原告と被告との間で、契約書が取り交わされていないだけでなく、賃金という労働契約の重要な要素について合意に至っていなかったのであるから、仮に派遣先である須磨ノ浦高校が原告の派遣を受入れる意向を示していたとしても、原告・被告間の労働契約の成立を認めることができない。

「原告は、平成30年8月30日、須磨ノ浦高校における勤務について、Cから、1コマにつき1回の講義当たり1万円、1か月(月に4回)につき4万円との説明を受けた旨主張し、これに沿う供述・・・をする。」

「しかしながら、Cが原告に対し、平成30年3月頃にも須磨ノ浦高校における勤務と同様の賃金額の非常勤講師の勤務を紹介していた・・・状況において、Cがあえて事実と異なり、かつ、高等学校における非常勤講師派遣の一般的な賃金額に比べて高額となる賃金額・・・を説明するとは考え難い。仮に、原告が、須磨ノ浦高校近くで、1コマ(1回の講義当たり)1万円でなければ赤字となるような賃貸物件を探していたとしても、そのことから直ちにCが1コマ(1回の講義当たり)1万円との説明をしていたとまで認められるものではない。そのほか、原告の上記供述部分・・・を裏付けるに足りる証拠はなく、これを採用することができない。」

3.契約の成立は認定されてもおかしくなかったのではないか

 「出向手当」を固定残業代として理解できるのか否かが問題になった事案において、「その労働契約はやはり一般に理解される意味で解釈するべきである」と述べたうえ、これを否定した裁判例があります(東京地判平29.8.25判例タイムズ1461-216)。

固定残業代-入社時には聞いてなかった、後で告げられて話が違うと思っている方へ - 弁護士 師子角允彬のブログ

 こうした考え方に準拠して、本件でも、契約の成立は認めたうえ「1コマ10,000円」の「一般的に理解される意味」が何なのかを探求するという判断も在り得たのではないかと思います。

 特に、本件のように就業条件の明示が懈怠されていた事案において、あまり形式的に労働契約の成立を否定することは、やや疑問に思われます。