弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

求人票や採用時に交付される労働条件通知書は捨ててはいけない-労働条件通知書のすり替えとその救済法理

1.労働条件の明示

 労働基準法15条1項は、

「使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。この場合において、賃金及び労働時間に関する事項その他の厚生労働省令で定める事項については、厚生労働省令で定める方法により明示しなければならない。」

と規定しています。

 これを受けた労働基準法施行規則5条4項本文は、

法第十五条第一項後段の厚生労働省令で定める方法は、労働者に対する前項に規定する事項が明らかとなる書面の交付とする。

と規定しています。

 これらの規定に基づいて、労働者に明示すべき労働条件をまとめた書面は、慣行上、労働条件通知書と呼ばれています。

 労働基準法15条の規定から分かるとおり、労働条件通知書の交付は法律上の義務です。違反すれば30万円以下の罰金に処せられます(労働基準法120条1号)。

 そのため、労働契約書・雇用契約書が作成されていない場合であったとしても、多くの事案で労働条件通知書は存在しています。この労働条件通知書は、就業規則と並んで、労働契約の内容を把握する重要な資料となります。

 近時公刊された判例集に、この労働条件通知書のすり替えが問題となった事案が掲載されていました。名古屋地判令2.1.21労働判例ジャーナル96-84 解雇無効地位確認等請求事件です。すり替えの手口は、不正防止の観点から一般に周知された方が良いと思われたため、当該裁判例をご紹介させて頂きます。

2.解雇無効地位確認等請求事件

 この事件で被告になったのは、衆議院議員であった方です。

 原告になったのは、平成29年9月に被告に採用され、議員秘書の補助として来客対応等の庶務を担当していた方です。

 平成30年6月1日に被告から解雇を通知されたため、その効力を争い、地位確認等を求める訴訟を提起しました。

 本件では、

① 労働契約の期間の定めの有無、

② 解雇の有効性、

の二つが争点となりました。

 期間の定めの有無が争点になるのは、解雇無効とされた時の未払賃金の発生の終期に関係してくるからです。

 有期契約であれば、基本的には、期間満了までが未払賃金の発生の終期となります。

 他方、無期契約であれば、特に終期はないことから、原告の請求を認容する判決が言い渡される場合、判決確定の日までに蓄積した未払賃金の支払いが命じられるのが通例となります。

 期間の定めの有無が争点になったのは、原告に交付されていた労働条件通知書の記載と、被告に保管されていた労働条件通知書の記載とが異なっていたからです。

 面接時に被告から原告に手渡された労働条件通知書には、「期間の定めのない雇用である。」という旨の記載がありました。

 しかし、被告に保管されていた原告の署名・押印入りの労働条件通知書には、「期間の定めあり(平成29年9月19日~平成30年9月18日)」との記載がありました。

 こうした状況下で、原告・被告間の労働契約の期間の定めの有無をどのように理解するかが問題となりました。

 裁判所は、次のとおり、事実を認定をしたうえ、原告・被告間の労働契約は期間の定めのない労働契約であると判示しました。

(裁判所の事実認定)

「原告は、平成29年9月14日、被告のP4事務所に、ハローワークで印刷した被告の求人票を持参し、被告の採用面接を受けた。その求人票には『雇用期間の定めなし』と記載されていた。その翌日、原告は、被告から電話で採用する旨伝えられた。・・・」
「原告は、平成29年9月19日、被告のP4事務所に初めて出勤した。同日、被告は、原告に対し、『期間の定めなし』との記載が丸で囲まれた当初労働条件通知書を手渡し、本件労働契約が期間の定めのないものである旨を説明した。さらに、その際、被告は、原告に対し、『これ(当初労働条件通知書)』と同じものを社会保険労務士に作らせますので、出来たものにサインをお願いします』と述べた。・・・
「原告が入所してから2週間ほど経過したころ、被告は、原告に対し、社会保険労務士作成の本件労働条件通知書を送付した。本件労働条件通知書には当初労働条件通知書と異なり『期間の定めあり(平成29年9月19日~平成30年9月18日)』と記載されていた。しかし、そのころ、被告が原告に対して当初労働条件通知書からの記載内容の変更につき説明することはなかった。・・・
「そのため、原告は、当初労働条件通知書と同じ内容のものが送付されてきたものと考え、平成29年10月10日に公示される選挙の準備が既に始まっていて忙しかったこともあり、送付されてきた本件労働条件通知書に目を通すことなく、『期間の定めあり』とされていたことに気付かずにそのころ署名押印して被告に提出した。

(裁判所の判断)

「本件では、原告が入所してから2週間ほど経過したころ、被告が原告に対して『期間の定めあり』とする本件労働条件通知書を送付し、平成29年10月20日ころ、原告がこれに署名押印している。この事実に基づいて被告は、期間の定めのある労働契約の成立を主張するところ、この主張は先に期間の定めのない契約として成立を認定した本件労働契約の変更合意を主張する趣旨を含むものと解される。」
「しかしながら、・・・本件労働条件通知書に原告が署名押印した行為をもって、期間の定めのない労働契約から1年の有期契約への変更を原告が十分に認識したうえで自由な意思に基づいて合意したものと評価することはできないから、労働条件の変更合意を認めることはできない。
「被告は、原告に対して期間の定めのある労働契約となる旨を説明した上で、本件労働条件通知書を交わし、原告の承諾を得たと主張するけれども、本件労働条件通知書に原告が署名押印している以外にこれを裏付ける証拠はなく、・・・証拠に照らして採用することはできない。」
「したがって、本件労働契約には期間の定めがあったとは認められない。」

3.労働条件通知書のすり替えに対抗するには・・・

 本件の被告は、最初、期間定めのない労働条件通知書を示しながら、「これ・・・と同じもの」であるとして期間の定めのある労働条件通知書を送付し、最初に示された労働条件通知書と同じ内容だと誤信した原告から署名・押印を取り付けています。

 民法95条は、

「意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。」

と規定しています。

 これに基づいて、錯誤による意思表示は、無効だと主張することができます。

 しかし、書面に期間の定めが明記されいてるとなると、誤信するわけがないだろという突っ込みが入りますし、誤信したとの主張・立証が通りそうになっても、

「重過失があるから錯誤無効の主張は制限される」

との反論が提示されることが予想されます。

 では、本件のような場合に原告の方は救済されないのかというと、そのようなことはありません。

 裁判所は、

「自由な意思に基づいて合意したものと評価することはできないから、労働条件の変更合意を認めることはできない。」

という救済法理を用いてすり替えられた労働条件通知書による労働条件変更(期間の定め無し→有りへの変更)の合意の効力を否定しました。

 素朴な公平感に照らせば、裁判所の判断は当然のことであるように思われます。

 しかし、裁判所の救済法理の適用を受けられたのは、求人票や最初の労働条件通知書を原告が保管していたため、労働条件通知書のすり替えを比較的容易に立証できたからです。

 求人票や最初の労働条件通知書を捨ててしまっていて、被告から、

「当初から期間の定めを明記した労働条件通知書を交付していました。」

と言い張られていたら、結論はどうなっていたか分かりません。

 使用者から渡される書類は、紛争になった時に、重要な役割を果たすものが少なくありません。採用されたからもう使わないと判断するのは早計で、退職するまでの間、求人票や労働条件通知書などの使用者から交付される書類は、なくさないようにきちんと保管しておくことが大切です。