1.労働契約の成立要素としての賃金
労働契約法6条は、
「労働契約は、労働者が使用者に使用されて労働し、使用者がこれに対して賃金を支払うことについて、労働者及び使用者が合意することによって成立する」
と規定しています。
賃金支払いについて双方当事者の合意が労働契約の要素になっていることは上記の条文の体裁から明らかです。ただ、賃金支払いの合意にどの程度の具体性が要求されるのかは法文からは良く分かりません。
荒木尚志ほか『詳説 労働契約法』〔弘文堂、第2版、平26〕97頁は、
「実際には、労働契約の締結に際して、労働者がおおよそどのような種類・内容の労働に従事し、使用者がこれに対してどの程度の額の賃金を支払うのかが明らかにされるのが普通であり、それらの合意がなければ、労働契約の成立には至らないのが通常であろう。」
としながらも、同条を、
「使用者が労働義務や賃金支払の具体的内容を明示せず、これらを後日の決定に委ねたとしても、労働契約それ自体としては成立するとの立場をとったものである。」
と理解しています。
労働契約の成立に必要な賃金支払の合意の具体性は上述のような議論状況にあるとして、
「(会社)設立時、具体的な給与の金額を定めず、会社の経営状況が給与を支払える状況になってから改めて給与の金額を定めるとして、労働契約を締結した」
との主張は、実際の訴訟においてどのように扱われるのでしょうか。
この点が問題となった裁判例として、大阪地判平31.4.25労働判例ジャーナル93-48・ヘリオスホールディングスほか4社事件があります。
2.ヘリオスホールディングスほか4社事件
本件で被告となった
被告ヘリオスHD、
被告ヘリオス、
被告ATSプランニング、
被告へリアントス、
被告ヘリオスEast
はいずれも介護保険法に基づく居宅介護支援事業等を目的とする株式会社です。
原告P2は被告ヘリオスとの間で雇用期間の定めなく労働契約を締結した方です。後に被告ヘリオスの取締役にも就任しています。
また、原告P2は被告ヘリオスの業務だけではなく、被告ASTプランニング、被告へリアントス、被告ヘリオスEastの経理・総務の業務を行い、被告ASTプランニング、被告へリアントス、被告ヘリオスEastからは実際に給与名目で金銭も支払われていました。
被告らが原告P2を解任・解雇する意思表示を行ったことを受け、原告P2は被告らに対して地位確認等を求める訴えを提起しました。
しかし、被告ASTプランニング、被告へリアントス、被告ヘリオスEastからの賃金は当初から支払われていたわけではなく、後になって支払われるようになったものでした。そのため、本件では上記各社との間で労働契約が成立していたと認められるかが問題になりました。労働契約が成立していないのに解雇するということは論理的に考えられないからです。
この点について原告P2は
「被告ASTプランニング、被告へリアントス及び被告ヘリオスEastとの間で、各設立時、具体的な給与の金額を定めず、会社の経営状況が給与を支払える状況になってから改めて給与の金額を定めるとして、労働契約を締結した」
と主張しました。
しかし、裁判所は次のとおり述べて、労働契約の成立を否定しました。
(裁判所の判断)
「原告P2は、被告ATSプランニング、被告ヘリアントス及び被告ヘリオスEastとの間で、各設立時、具体的な給与の金額を定めず、会社の経営状況が給与を支払える状況になってから改めて給与の金額を定めるとして、労働契約を締結したと主張し、これに沿う供述(陳述書の記載を含む。)をする。」
「しかしながら、賃金の支払は労働契約の重要な要素であり、通常、その支払がない状況で労働契約を締結するとは考え難い。また、被告ヘリオス、被告ATSプランニング、被告ヘリアントス及び被告ヘリオスEastがいずれも介護施設の運営を目的とし、被告ヘリオスHDを持株会社とするグループ会社であり、被告ヘリオスがその中核的な会社であったこと(弁論の全趣旨)からすると、被告ヘリオスの従業員であった原告P2が、被告ATSプランニング、被告ヘリアントス及び被告ヘリオスEastの経理や総務の業務を行っていたとしても不自然とはいえない。さらに、・・・原告らが、P1の了承を得たと認められない状況で、被告ヘリオスHD、被告ヘリアントス及び被告ヘリオスEastの株式を譲渡する内容の本件各契約書を作成した経緯も考慮すると、被告ATSプランニングについては平成24年4月以降、被告ヘリアントスについては平成26年9月以降、被告ヘリオスEastについては平成25年10月以降、給与名目で金員が支払われているからといって、直ちにそれぞれの設立時に労働契約が締結されていたとまではいえない。」
「以上によれば、原告P2の上記供述部分(陳述書の記載を含む。)を採用することができない。」
3.会社の支配権争いについての不正行為が関係している事案ではあるが・・・
原告P2は会社の支配権争いについての不正行為に関与していました。
被告ヘリオスHDはP1を一人株主とする会社でした。被告ヘリオスHDは被告ヘリオス、被告ATSプランニング、被告へリアントス、被告ヘリオスEastの全株式を保有する会社でした。
しかし、本件では、P1の了承を得ないまま、被告ヘリオスHD、被告へリアントス、被告ヘリオスEastの株式を原告P3に譲渡する内容の契約書(本件各契約書)が作成されていました。原告P2は本件各契約書の作成に関与しており、それが解雇・解任の引き金になりました。
そうした事情も背景にあったためか、裁判所は
「賃金の支払は労働契約の重要な要素であり、通常、その支払がない状況で労働契約を締結するとは考え難い。」
との経験則を示したうえ、後で給与の額を決める予定であったとする労働契約の成立を否定しました。
冒頭に示した参考文献に記載されているとおり、理論的な可能性はともかく、実務上、賃金の支払いについてはある程度の具体性がなければ、労働契約の成立の認定には至りにくいのかも知れません。
賃金額が明確に定められないことは創業直後の会社ではあっても不思議ではないと思いますが、賃金の合意が不明確なまま労働契約を締結してしまうと、賃金は請求しにくいは、契約は労働契約としての保護を受けられないはで踏んだり蹴ったりとなりかねないので注意が必要です。