弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

「残業代割増率1.25」と記載された給与明細を支給していても固定残業代の合意が認められなかった例

1.固定残業代の有効要件としての合意

 最一小判令2.3.30労働判例1220-5 国際自動車(第二次上告審)事件は、固定残業代の有効要件について、

通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の定める割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である・・・。そして、使用者が、労働契約に基づく特定の手当を支払うことにより労働基準法37条の定める割増賃金を支払ったと主張している場合において、上記の判別をすることができるというためには、当該手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていることを要するところ、当該手当がそのような趣旨で支払われるものとされているか否かは、当該労働契約に係る契約書等の記載内容のほか諸般の事情を考慮して判断すべきであり・・・、その判断に際しては、当該手当の名称や算定方法だけでなく、上記・・・で説示した同条の趣旨を踏まえ、当該労働契約の定める賃金体系全体における当該手当の位置付け等にも留意して検討しなければならない」

と判示しています。

 色々な呼び方がありますが、傍線部の一番目は「判別要件」だとか「明確区分性」と言われています。傍線部の二番目は、一般に「対価性要件」と言われています。

 この「判別要件」「対価性要件」に関して、複雑な判例法理が展開されていることは、このブログでも折に触れて紹介してきたとおりです。

 しかし、判別要件、対価性要件を検討する前提として、固定残業代が有効であるといえるためには、そもそも労使間で一定の金額を固定残業代とすることの合意が成立していなければなりません。固定残業代の合意の成立が認定できなければ、判別要件や対価性要件を検討する以前の問題として、その効力が認められることはありません。

 固定残業代の合意が認められるのか否かをめぐっては、これまでも多くの裁判例で争われてきましたが、近時公刊された判例集に興味深い裁判例が掲載されていました。東京地判令4.2.22労働判例ジャーナル125-52 ハピネスファクトリー事件です。何が興味深いのかというと、「残業代割増率1.25」「残業代割増率1.5」などと書かれた給与明細を受け取っていた事実がありながら、固定残業代の合意の成立が否定されていることです。

2.ハピネスファクトリー事件

 本件で被告になったのは、α及びβに営業所を有し、無店舗型性風俗特殊営業を行っている株式会社です(被告会社)

 原告になったのは、被告会社の元従業員の方です。被告会社を退職した後、割増賃金(残業代)等を請求する訴えを提起したのが本件です。

 本件では幾つかの争点がありますが、その中の一つに固定残業代の効力があります。被告会社は、時間外、深夜の割増賃金を支払うつもりで、給与明細上「残業代割増率1.25」「残業代割増率1.5」と書かれた一定額の金銭を支給していました。

 これに対し、原告は、

採用面接時に給与や残業代について具体的な説明がなかった、

給与明細は、事後的かつ一方的に作成されたものであるし、これを受領していたとしても単に異議を述べなかったにすぎないんであり、合意が認められる余地はない、

などと主張し、合意の成立に再反論しました。

 当事者双方の主張を踏まえたうえ、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の合意の成立を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告会社は、原告に対し、採用面接時に、残業代を含めた月額賃金が27万円程度であることを説明し、その内容で労働契約を締結することを合意した旨を主張し、被告代表者もその本人尋問においてこれに沿う供述をする。しかしながら、上記供述を裏付けるに足りる的確な証拠はなく、提出された全証拠を検討しても、原告と被告会社が固定残業代として『残業代割増率1.25』及び『残業代割増率1.5』名目の金員を支給することに合意していたことを認めるに足りる証拠はない。」

「また、被告会社は、原告が『残業代割増率1.25』及び『残業代割増率1.5』と記載された給与明細を受領していながら、これに異議を述べていなかったことからすると、上記費目で支給された金員を固定残業代として受領することに合意をしていたとも主張する。

しかしながら、原告は、被告会社から、内訳が異なっているだけで総額は合意したとおりの賃金の支払を受けていたものであり、労働契約が継続している中で給与明細上の支給内訳が異なっていることに異議を述べなかったというだけでは、固定残業代について合意をしていたと認めることはできない。被告会社のその余の主張や提出された全証拠を検討しても、原告と被告会社が本件労働契約の締結後に固定残業代について合意したことは認められない。

3.積極的な承認行為が必要?

 上述のとおり、裁判所は、固定残業代の合意が成立したというためには、単に「残業代割増率1.25」などと書かれた給与明細が受領されていただけでは足りないと判示しました。これは、使用者側からの明確な説明と労働者側からの積極的な承認行為がない限り、固定残業代の合意は認められないと述べているに等しい判示であるように思われます。

 固定残業代の効力をめぐる紛争は後を絶ちません。労働契約の締結時点で十分な説明をしないまま入社させ、済し崩し的に固定残業代と分かるような給与明細を交付し、既成事実の積み重ねが図られることも、残念ながら少なくありません。そうした事案で固定残業代の合意の存在を争うにあたり、本裁判例は大いに参考になります。