1.退職妨害への対抗手段
人材が不足している会社・業界では、労働者の退職妨害が行われることがあります。
退職妨害には幾つかの類型がありますが、その中に、
①極端に長い予告期間を設定する、
②退職の意思表示を受けたことを頑として否認する、
といった手法があります。
①極端に長い予告期間を設定するというのは、例えば、退職するには2か月前、3か月前までに予告しておかなければならないといったように、辞意を表明してから退職の効力が生じるまでの期間を長くとることをいいます。
②の退職の意思表示を受けたことを否認する手法と組合せ、予告期間の起算点を遅らせることにより、長期間に渡って労働者を会社に縛り付ける例も散見されます。
こうした手法には、当然、対処方法があります。
①の極端に長い予告期間に対しては、その効力を争うことが考えられます。
民法627条1項は、
「当事者が雇用の期間を定めなかったときは、各当事者は、いつでも解約の申入れをすることができる。この場合において、雇用は、解約の申入れの日から二週間を経過することによって終了する。」
と規定しています。この2週間の予告期間に関しては、
「使用者による不当な人身拘束を防ぐ趣旨のものであり、強行的な性質をもつ(これを超える予告期間を定めても民法627条1項違反として無効となる)」
とする見解があります(水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、初版、令元〕960頁参照)。1か月程度までなら就業規則等で伸ばせるという見解も有力に提唱されてはいるのですが、民法627条1項を強行規定とする見解も、それと同等かそれ以上に有力な見解として知られています。労働者側としては、こうした有力な見解を根拠として、2週間を超える予告期間を定めることは無効だと主張していくことが考えられます。
②の問題への対処は比較的簡単で、内容証明郵便という特殊な形で退職の意思表示を伝達することにより、「受け取っていない」という強弁を封じることができます。
しかし、
内容証明郵便で退職の意思表示をする、
その際に民法627条1項の強行法規性を主張する、
といった辞意の伝え方は、素人の方が簡単に思いつけるわけではありません。
それでは、こうした特殊な退職の意思表示の仕方をしていない限り、
「退職届など受け取っていない。」
「(自社の設定した)予告期間に準拠した意思表示は受けていない。」
といった使用者側からの主張に対抗する術はないのでしょうか?
この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令4.2.24労働判例ジャーナル125-52 ハッピーグリッド事件です。
2.ハッピーグリッド事件
本件で被告になったのは「コンピュータ、その周辺機器・関連機器及びそれらのソフトウェアの利用に関するサービスの提供及びコンサルティング」等を業とする株式会社です。
原告になったのは、被告との間で労働契約を締結し(本件労働契約)、IT技術開発業務に従事していた方です。退職した当時、被告の業務委託元である会社(本件業務委託元)の業務に従事していました。
本件の原告の方は、幾つかの請求を行っているのですが、その中の一つに、退職証明書の不交付がありました。
具体的に言うと、原告の方は、
「原告は、被告に対し、令和2年9月1日、退職願を提出し、同年10月1日付けで被告を退職する旨の意思表示をした。」
「原告は、被告に対し、同月5日、退職証明書の交付を請求したが、被告は、これを無視し続け、退職証明書を交付しない。交付しないことは違法である。」
などと主張し、慰謝料を請求しました。
これに対し、被告は、
「被告は、令和2年9月1日ころに、原告から、退職を考えている旨の話を聞いたことはあるが、退職願は提出されておらず、原告から正式に退職の意思表示を受けたことはないから、原告の退職を認めていない。」
と反論し、原告の請求を争いました。なお、被告と原告との間で取り交わされた契約書(本件労働契約書)には、
「自己都合退職の手続き 少なくとも60日前までに会社に申し出さなければならない。」
と記載されていました。
このような事実関係のもと、本件では退職証明書の交付義務を論じる前提として、そもそも原告が退職をしたといえるのかどうかが問題になりました。
裁判所は、次のとおり述べて、退職の事実を認めました。
(裁判所の判断)
「被告代表者は、原告から退職の意向について初めて相談を受けたのは令和2年9月初めであり、60日未満であるから10月1日付けで退職の手続きを取ることはできない旨、原告から退職届の提出を受けたことはない旨、被告が原告の退職を承認したことはない旨を述べるが・・・、被告代表者の述べるところからしても、被告代表者から原告に対し、原告が辞める意思を有していることを認識した上で令和2年9月中に退職届の書式を送付したというのであり(・・・原告も、被告代表者に対し、令和2年9月1日、同月末日で退職したいことを口頭及びウィーチャットで話した旨、その際、被告代表者から、大丈夫だが会社の書類をもとに退職願を会社に送るよう言われた旨、被告代表者から退職届の書式をデータでもらったことがある旨を述べている・・・。)、また、原告が被告に対し退職の意思を伝えており、原告と被告の契約が9月末で終了すると認識していたため、最後の1か月として令和2年9月の勤務時間表に担当者印を得るよう指示したというのであるから・・・、被告代表者は、原告が令和2年9月末日で被告を退職することを前提とした行動をとっていたというべきであり、原告の同日での退職について黙示の承認をしていたというべきである。」
「よって、原告は、被告を、令和2年9月末日限りで退職したと認められる。」
3.退職を認めないと強弁していたとしても、退職を前提とする行動はないか?
当たり前ですが、幾ら「退職を認めない」と言い張ったとしても、そのような強弁が通るとは限りません。労働者の側でリスクをとったうえ、強引に出勤しないという方法が選択される可能性もあります。こうした事態に備え、使用者側で労働者の退職を予期した対応がとられることは少なくありません。ここに黙示の承認を読み込む契機があります。
内容証明郵便を使って意思表示の到達を明確に立証できなかったり、異様に長い予告期間の有効性を反駁したうえ強い退職意思があることを伝え切れていなかったりした場合でも、使用者側に労働者の退職を前提とするかのような行動がとられていれば、それを退職についての黙示の承認と理解することで、退職を実現できる可能性があります。
退職妨害に対抗するためには、この「黙示の承認」も有力な法律構成の一つとして覚えておく必要があります。