弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

事後的に給与明細に想定残業時間数を付記したところで固定残業代は有効にならない

1.固定残業代の不備の糊塗

 固定残業代が有効といえるためには、通常の労働時間の賃金に当たる部分と時間外の割増賃金に当たる部分とが判別できる必要があります(最一小判平24.3.8労働判例1060-5テックジャパン事件、最二小判平29.7.7労働判例1168-49医療法人社団康心会事件)。

 当然のことながら、判別可能性は労働契約の締結当時に認められなければなりません。しかし、訴訟実務に携わっていると、労働契約の締結時点では固定残業代の額や想定労働時間数について明確にせず、給与として支給する時に給与明細で通常の労働時間の賃金に当たる部分と時間外割増賃金に当たる部分とを区分けしている会社も散見されます。これは募集・採用の時点で固定残業代の定めがあることを積極的に告知すると、求職者から敬遠されるからだろうと思います。固定残業代に関わる紛争は日本各地で頻発しており、最近では一般の方にも濫用の危険が周知されつつあります。

 こうした会社に対し、固定残業代に関する合意の欠缺を主張して訴訟を提起すると、しばしば「給与明細を見れば分かったはずだ。」「給与明細を見ていながら長期間文句を言っていない。」といった反論が寄せられます。

 それでは、こうした反論は有効に機能しているのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.10.15労働判例ジャーナル108-28 アクレス事件です。

2.アクレス事件

 本件はいわゆる残業代請求訴訟です。

 被告になったのは、不動産の仲介、建築工事等を業とする株式会社です。

 原告になったのは、被告の元従業員です。退職後、残業代等の支払いを求めて被告を提訴しました。

 本件では固定残業代の有効性が争点の一つになりました。

 原告と被告との間では、平成29年5月1日付けで雇用条件通知書兼雇用契約書が取り交わされた後、更に同年11月1日付けで雇用条件通知書兼雇用契約書が取り交わされていました。

 いずれの雇用条件通知書件雇用契約書にも、「基本給40万円」という記載の後に「残業代込み」と書かれていました。しかし、基本給のうち幾らが残業代にあたるのかや、何時間分の残業代が基本給に含まれているかは明示されていませんでした。

 しかし、平成30年3月分及び令和元年5月分の給与明細書の備考欄には、「基本給には定額残業代100,000(45時間分)を含む」と記載されていました。

 本件では、こうした状況のもとで、有効な固定残業代の合意の成立が認められるのか否かが問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の有効性を否定しました。

(裁判所の判断)

「割増賃金を基本給等にあらかじめ含める方法により支払うこと自体は労基法37条に反するものではなく、使用者は、労働者に対し、雇用契約に基づき、時間外労働等に対する対価として定額の手当てを支払うことにより、同条の割増賃金の全部または一部を支払うことができるが、その場合には、割増賃金として支払われた金額が、通常の労働時間の賃金に相当する部分の金額を基礎として、労基法37条等に定められた方法により算定した割増賃金の額を下回らないか否かを検討することとなり、その前提として、労働契約における基本給等の定めにつき、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である(最高裁平成29年7月7日第二小法廷判決・民集256号31頁等参照)。」

「本件において、被告は、原告の基本給に残業代が含まれている旨主張しており、証拠・・・によれば、原告が平成29年5月1日付け及び同年11月1日付けで押印した各雇用条件通知書兼雇用契約書の『賃金』欄の基本給40万円の記載の直後に、『残業代込み』と記載されていることが認められるが、同契約書のその他の記載を見ても具体的に基本給のうちいくらが残業代に当たるのか又は何時間分の残業代が基本給に含まれているのかを明示する部分はない。また、証拠・・・によれば、原告の平成30年3月分及び令和元年5月分の各給与明細の備考欄には『※基本給には定額残業代100、000円(45時間分)を含む』と記載されていることが認められるが、これらは原告が被告での勤務を開始してから相当期間が経過した後に被告が記載したものであって、これらにより直ちに被告と原告の間で基本給のうち10万円を固定残業代とする旨の合意をしたことが推認されるとはいえない。また、就業規則において通常の労働の対価の部分と残業代が明確に区分されているとも認められない(なお、証拠・・・によれば就業規則33条及び46条には賃金に関する詳細は賃金規程に定める旨記載があるが、被告は賃金規程を証拠として提出せず、また、その内容も覚えていない旨述べている。)。その他一件記録によっても、本件労働契約締結時又はその後いずれかの時点において、原告と被告の間において金額又は対象時間数を明示したうえで基本給の一部を固定残業代とする旨の合意をしたと認めるに足りる証拠は見当たらない。」

「よって、被告主張の固定残業代の合意が有効であるとは認められない。」

3.給与明細を一方的に交付されたところで合意の不備は治癒されない

 手当型の固定残業代に関しては、契約当時に金額が明示されていなかった場合であっても、給与明細上の記載を根拠に合意の成立を認めた裁判例があります(東京地判平31.1.31 労働経済判例速報2384-23さいたま労基署長事件参照)。

 しかし、区分けがはっきりとしている手当型とは違い、基本給組込型の固定残業代の場合、金額も想定残業時間数の定めもなければ、判別可能性がないため、固定残業代の合意を認定することは困難であるように思われます。そして、成立しなかった合意は、事後的に給与明細が交付され、その中で判別できるような形になっていたところで、当然に治癒されるわけではありません。

 給与明細に、突然、金額や想定残業時間数が表示されたところで、事件化できなくなるわけではありません。労働契約締結時の問題は、糊塗しようとしたところで簡単に糊塗できるものでもないため、おかしいと思ったら、安易に諦めることなく、弁護士に相談してみることをお勧めします。