弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職届の提出は慎重に-自由な意思に基づいていないとの理屈は通用しにくい

1.退職届けを撤回したい

 勤務先に提出した退職届けを撤回することができないかという相談を受けることがあります。

 売り言葉に買い言葉で勤務先に退職する意思を示してしまったものの、冷静になって考えてみて、早まったことをしたと後悔される方は、決して少なくありません。

 しかし、民法上、意思表示は、錯誤や詐欺、強迫といった問題がない限り、その効力を取り消すことができないのが原則です。

 ただ、労働法の領域においては、意思表示に欠缺や瑕疵がなかったとしても、

「自由な意思に基づいていない」

との理屈で意思表示や合意の効力を否定できることがあります。

 例えば、

退職金を放棄してしまった場合、

賃金や退職金を引き下げることに同意してしまった場合、

妊娠中の軽易業務への転換を契機として降格されることに同意してしまった場合

などが、その典型とされています。

 こうした場合、錯誤、詐欺、強迫といった事情がなかったとしても、自由な意思に基づいていないことを理由に合意の効力を否定できる余地があります。

 では、この、

「自由な意思に基づいていない」

という理屈は、退職の意思表示をした場面でも通用するのでしょうか。

 この点が問題になった事案が、公刊物・判例データベースに掲載されていました。東京地判平31.1.22労働判例ジャーナル89-56ゼグゥ事件LEX/DB25562990です。

2.ゼグゥ事件

 この事件で原告になったのは、フランス共和国に属するニューカレドニアの現地法人と提携して結婚式をコーディネートする事業を行っていた株式会社です。

 被告になったのは、原告を退職した従業員の方です。

 原告は、被告が在職中に結婚式用の小道具91点を第三者に無償譲渡したとして、小道具の時価、逸失利益、弁護士費用等の損害賠償を請求しました。

 これに対し、被告は、小道具当の譲渡は原告の指示に従っただけだと争いました。また、退職届けは、このままでは原告に解雇され、損害賠償まで請求されると誤信して提出したものであり、錯誤に基づいているほか、自由な意思に基づく効果意思が欠缺していたと主張し、退職の意思表示は無効であるとして、逆に未払賃金を請求する訴え(反訴)を起こしました。

 原告の請求は言い掛かりに近いもので、比較的簡単に排斥されています。

 しかし、裁判所は、自由な意思に基づいていないから退職届けの提出が無効であるとする被告の主張も、次のように述べて排斥しました。

(裁判所の判断)

賃金に当たる退職金債権の放棄(シンガー・ソーイング・メシーン事件判決)、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に係る同意(山梨県民信用組合事件判決)、女性労働者につき妊娠中の軽易な業務への転換を契機として降格させる事業主の措置に対する同意(広島中央保健生協事件判決)などの存否が問題となる局面においては、労働者が、使用者の指揮命令下に置かれている上、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力も限られており、使用者から求められるがままに不利益を受け入れる行為をせざるを得なくなるような状況に置かれることも少ないことから、『自由な意思と認められる合理的な理由』を検討して慎重に意思表示の存否を判断することが要請されているものと解される(山梨県民信用組合事件判決に関する判例解説(法曹時報70巻1号317~321頁)参照)。これに対し、退職届の提出という局面においては、労働者は使用者の指揮命令下から離脱することになるうえ、退職に伴う不利益の内容は、使用者による情報提供等を受けるまでもなく、労働者において明確に認識している場合が通常であり、上記各最高裁判決の判旨が直ちに妥当するとは解しがたい。
「本件退職届について検討しても、その提出に伴う本件雇用契約の解消という不利益は、被告においても十分に認識していたものであるし、原告との指揮命令関係の存在ゆえに本件退職届の提出を余儀なくされたという事情も特に窺われず、本件雇用契約の解消に係る効果意思が欠缺していたとは認めがたい。そして、原告代表者から解雇や損害賠償をほのめかされたゆえに本件退職届を提出したという被告の主張する点については、基本的には、退職の意思表示の存在を前提として、錯誤等の意思表示の瑕疵に関する民法の規定の適用において検討されるべき問題であるといえる。そうすると、本件退職届の送付により被告が原告に対して退職の意思表示がなされたこと自体は否定しがたく、自由意思に基づく効果意思の欠缺を理由として退職の意思表示の不存在又は無効をいう被告の主張を採用することは困難である。」

3.退職届けの提出は慎重に

 上記のとおり、裁判所は、退職金放棄の場面、退職金や賃金の引き下げの場面、妊娠中の軽易作業への転換を契機とする降格に同意する場面などに適用されている民法の意思表示理論の修正法理(自由意思に基づいていないからダメという理屈)を、退職届けの提出の局面において適用することに消極的な判断を示しました。

 退職届けは、一旦提出してしまうと、その効力を否定することが必ずしも容易ではありません。

 使用者からの損害賠償請求は、そう簡単に通るようなものではありません。難癖に近いものであれば猶更です。腹の立つことを言われても、売り言葉に買い言葉で退職を告げるようなことは控え、退職届けを出すか否かを判断するにあたっては、一呼吸おいてから意思決定する冷静さが必要です。