弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

訴訟と行政措置要求の手続的相違点-行政措置要求では受理段階で実体審査・実質的審査が可能

1.行政措置要求

 公務員特有の制度として「行政措置要求」という仕組みがあります。

 これは、

「職員は、俸給、給料その他あらゆる勤務条件に関し、人事院に対して、人事院若しくは内閣総理大臣又はその職員の所轄庁の長により、適当な行政上の措置が行われることを要求することができる」

とする制度です(国家公務員法86条)。同様の仕組みは地方公務員にも設けられています(地方公務員法46条)。

 この制度は公務員の労働問題を解決するにあたり、かなり大きな可能性を持った制度です。例えば、令和元年12月、身体的性別は男性であるものの、自認している性が女性である方に対し、女性用トイレの自由な使用を認めなかったことを違法だと判示した判決が言い渡され、マスコミで話題になりました(東京地判令元.12.12労働判例ジャーナル96-1 経済産業省職員(性同一性障害)事件)。これは行政措置要求の要求を認めないとした判定に対する取消訴訟です。結局、女性用トイレの自由な使用を認めなかったことを違法だと判示した部分は二審で取り消されましたが(東京高判令3.5.27労働判例ジャーナル113-2 経済産業省職員(性同一性障害)事件)、行政措置要求にこうした使い方があることが知られたのは、極めて大きな意義があったと思います。

 このように行政としての公権的判断、司法判断を引き出すためのツールとして可能性を持った制度ではありますが、その手続の性質はあまり良く分かっていません。良く分からないのは利用が極めて低調だからです。例えば、令和2年度の国家公務員による行政措置要求の継続件数は21件でしかありません。

令和2年度 年次報告書

 手続の性質が不分明であることから関心を持っていたところ、近時公刊された判例集に興味深い判断を示した裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令4.2.16労働経済判例速報2481-29 国・人事院事件です。何が興味深いのかというと、受理前に実体審査・実質的審査ができると判示されていることです。

2.国・人事院事件

 本件で原告になったのは、刑務所の看守をしていた方です。夜間勤務を外されたことが、パワー・ハラスメント、平等取扱の原則違反、人事管理の原則違反に該当するとして、その是正を求める行政措置要求を行いました(本件措置要求)。しかし、これが「各省各庁の長の裁量に委ねられていること」を理由に却下決定を受けたため(本件決定)、その取消や損害賠償を求めて国を提訴しました。

 裁判では、要求を受理したうえで、パワー・ハラスメント、平等取扱の原則違反、人事管理の原則違反の存否を判断することなく、いきなり要求を不適法却下した処分行政庁の対応の適否も問題になりました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり述べて、処分行政庁の対応は不適法ではないと結論付けました。

(裁判所の判断)

「原告は、本件措置要求申立書において、勤務条件の側面に関する要求として、パワー・ハラスメント、平等取扱いの原則及び人事管理の原則(以下、これらを併せて『パワー・ハラスメント等』という。)に関する主張が記載されている旨を主張することから、これらの主張が、勤務条件の側面に関する要求と認められるか否かについて検討する。」

「この点、原告は、〔1〕パワー・ハラスメント等に当たるか否かについては、本件措置が本件刑務所長の裁量権を逸脱、濫用してなされたものであるか否かが問題となるから、行政措置要求の適法性に関する事項ではなく、裁量権の逸脱、濫用の有無という実体に関する事項であり、実体について審査する必要がある旨を主張した上で、〔2〕本件措置要求申立書において、パワー・ハラスメント等に関する要求が主張として記載されている以上、実体について審査を行うべきである旨主張する。」

「しかしながら、前記・・・で述べたとおり、本件措置要求は、本件措置が管理運営事項に該当することを前提として、勤務条件の側面を有する場合に、初めて適法なものとなり得る関係にある。この点で、申立書に記載された主張を前提としても、本件措置がパワー・ハラスメント等に該当するとはいえず、又は勤務条件としての側面を有するものとはいえない場合には、本件措置要求は適法性を欠くものというほかない。また、行政措置要求制度の手続について、人事院は審査に必要な場合には受理前においても関係者からの事情聴取その他の調査を行うことができ(人事院規則13-2第4条参照)、適当と認めるときは、受理すべきか否かの決定を行う前に関係当事者に対して要求事項について交渉を行うようにすすめることができる(同第5条)等の規定があることからすれば、同制度においては、申立ての適法性の審査について実質的な審査を行うことが予定されているというべきであり、原告が主張するように形式的な審査が義務付けられているものと解することは相当ではない。

3.訴訟の感覚は通用しない

 訴訟の場合、例えどれだけ荒唐無稽なものであったとしても、形式が整っていれば、訴状審査はクリアされます。荒唐無稽な内容であるとして棄却されることはあっても、実体判断に入る前の訴状審査の段階で不適法却下されることはありません。

 しかし、この理屈は行政措置要求には通用しないようです。裁判所は要求書受理段階から実体審査・実質的審査を行うことを肯定し、その結果を踏まえたうえで不適法却下判定を行うことを肯定しました。

 これは要求の段階で主張や立証を相当に練り込んでおかなければならないことを意味します。要求者の知らないところで実体審査・実質的審査が行われ、不適法却下判定を受けかねないからです。

 事案にもよりますが、相手方が保持している客観証拠との矛盾を防いだり、当方手持ちの資料を伏せておいたりする趣旨から、訴状提出段階で提出する主張や証拠を必要な限度に絞り込んでおくことは少なくありません。しかし、相手の出方を見たうえで主張、立証を補充するという訴訟事件におけるセオリーに従うことは、行政措置要求の場面では危険を含みます。

 本裁判例は、行政措置要求の活用にあたり、参考になります。

 

管理運営事項と行政措置要求の対象としての適格性Ⅱ

1.行政措置要求

 公務員特有の制度として「行政措置要求」という仕組みがあります。

 これは、

「職員は、俸給、給料その他あらゆる勤務条件に関し、人事院に対して、人事院若しくは内閣総理大臣又はその職員の所轄庁の長により、適当な行政上の措置が行われることを要求することができる」

とする制度です(国家公務員法86条)。同様の仕組みは地方公務員にも設けられています(地方公務員法46条)。

 法文上、行政措置要求の対象事項には、特段の限定は加えられていません。勤務条件に関連する事項である限り、広く要求の対象にできるかに見えます。

 しかし、行政措置要求の対象は見かけほど広くはありません。それは「管理運営事項」は行政措置要求の対象にはならないとされているからです。

 管理運営事項というのは、職員団体による団体交渉の対象外とされている「国の事務の管理及び運営に関する事項」のことです(国家公務員法108条の5第3項)。職員団体による団体交渉と行政措置要求は趣旨を共通にするため、職員団体による団体交渉の対象にならない管理運営事項は、行政措置要求の対象にもならないと理解されています。

 管理運営事項とは「一般的には、行組法や各府省の設置根拠法令に基づいて、各府省に割り振られている事務、業務のうち、行政主体としての各機関が自らの判断と責任において処理すべき事項をいう」「行政の企画、立案、執行に関する事項、予算の編成に関する事項などがある」と理解されています(森園幸男ほか編著『逐条国家公務員法』〔学陽書房、全訂版、平27〕1163頁参照)。

 ただ、管理運営事項であるからといって、全てが行政措置要求の対象から除外されると理解されているわけではありません。字義通りに理解すると、管理運営事項は行政作用のほぼ全てに及ぶため、行政措置要求の対象になる事項がなくなってしまうからです。そのため、裁判例の多くは、行政措置要求の対象とならない管理運営事項に一定の絞りをかけています(名古屋地判平5.7.7労働判例648-76 愛知県人事委員会(佐屋高校)事件、横浜地判令3.9.27労働判例ジャーナル120-52 川崎市・川崎市人事委員会事件等参照)。

 この絞りのかけ方に一例を加える裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令4.2.16労働経済判例速報2481-29 国・人事院事件です。

2.国・人事院事件

 本件で原告になったのは、刑務所の看守をしていた方です。夜間勤務を外されたことが、パワー・ハラスメント、平等取扱の原則違反、人事管理の原則違反に該当するとして、その是正を求める行政措置要求を行いました(本件措置要求)。しかし、これが「各省各庁の長の裁量に委ねられていること」を理由に却下決定を受けたため(本件決定)、その取消や損害賠償を求めて国を提訴しました。

 裁判所は、管理運営事項と行政措置要求の対象との関係について、次のとおり判示したうえ、本件措置要求は不適法だと結論付けました。

(裁判所の判断)

「行政措置要求の制度は、公務員については労働組合法の適用が排除され、団体協約を締結する権利が認められず、また、争議行為が禁止され、労働委員会に対する救済申立ての途が閉ざされていることに対応し、職員の勤務条件の適法な判定を要求し得べきことを職員の権利ないし法的利益として保障する趣旨のものと解すべきであり、措置要求の対象となる「勤務条件」(国家公務員法86条)については、給与、勤務時間、休暇、職場での安全衛生、災害補償、職員がその労務を提供するに際しての諸条件のほか、労務の提供に関連した待遇の一切を含むと解するのが相当である。もっとも、予算の執行や個別の人事権の行使等の管理運営事項は、法令に基づき各省各庁の機関がその責任と判断において、自主的に処理・執行すべきものであり、国家公務員法108条の5第3項は、管理運営事項を交渉の対象とすることができないと定めていることからすれば、労働基本権の制約に対する代償措置である行政措置要求においても同様に、管理運営事項は原則としてその対象とならないというべきであるが、ある事項が管理運営事項に関するものであっても、それが職員の勤務条件に密接に関連し、かつ、当該行政の基幹たる管理運営事項に必ずしも該当しない場合には、勤務条件の側面から捉えて措置要求の対象とすることが可能であると解される(最高裁平成6年(行ツ)第115号同7年3月28日第三小法廷判決、名古屋高等裁判所平成5年(行コ)第24号同6年3月29日判決参照)。

「本件措置要求は、実質的には、原告に係る個別の措置(本件措置)に対する不服を申立て、原告に夜間勤務を担当させることを要求事項とするものであり、個別の人事権の行使に係るものといえる。また、本件措置は、勤務時間法7条及び人事院規則15-14に規定される交替制勤務職員の勤務時間の割振りに関するものであり、上記規定において、各省各庁の長が週休日及び勤務時間の割振りを定めることができる旨が定められていることからすれば、行政庁が自らの責任と判断において自主的に処理すべきものとして、国家公務員法108条の5第3項所定の管理運営事項に当たるものと解される。」

「そうすると、前記・・・のとおり、本件措置要求について、行政措置要求の対象とすることができるのは、勤務条件の側面から捉えて措置要求の対象と解することができる場合に限られるというべきである。」

「原告は、本件措置要求申立書において、勤務条件の側面に関する要求として、パワー・ハラスメント、平等取扱いの原則及び人事管理の原則(以下、これらを併せて「パワー・ハラスメント等」という。)に関する主張が記載されている旨を主張することから、これらの主張が、勤務条件の側面に関する要求と認められるか否かについて検討する。」

(以下略)

3.基幹たる管理運営事項とは何だろうか?

 裁判所は、管理運営事項に関するものであっても、

勤務条件との密接関連性

基幹たる管理運営事項への非該当性

を要件に行政措置要求の対象としての適格性が認められると判示しました。

 しかし、管理運営事項は管理運営事項でしかなく、「基幹的」の意味するところは良く分かりません。

 このように定義のない用語を作り出して行政措置要求の対象を限定することには、かなりの違和感があります。

 とはいえ、東京地裁労働部が本件のような規範を定立したことは、公務員の労働事件を担当する弁護士としては留意しておく必要があるように思われます。

 

 

最低賃金法違反と不法行為の成否

1.残業代の不払と不法行為の成否

 残業代(時間外勤務手当等)の不払を不法行為(民法709条)であると構成して、損害賠償請求をすることができないかという論点があります。

 これは残業代の時効と不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効とが異なっていることから議論されてきた問題です。旧来、残業代の消滅時効は2年と、不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効は3年と定められていました。そのため、残業代請求の枠からはみ出た1年分の未払割増賃金相当額について、不法行為に基づく損害賠償として請求することが試みられました。

 この問題について、広島高判平19.9.4労働判例952-33 杉本商事事件は、

「控訴人は、不法行為を理由として平成15年7月15日から平成16年7月14日までの間における未払時間外勤務手当相当分を不法行為を原因として被控訴人に請求することができるというべきである。」

「被控訴人は、前記・・・認定の時間外勤務手当については、仮に存在しても、本件提訴が平成18年7月14日であることからすれば、労働基準法115条によって2年の消滅時効が完成している旨の主張をする。しかしながら、本件は、不法行為に基づく損害賠償請求であって、その成立要件、時効消滅期間も異なるから、その主張は失当である。」

と判示し、未払割増賃金を不法行為に基づく損害賠償請求の枠組みで請求することを認めました。

 しかし、杉本商事事件で広島高裁が判示した見解を採用する裁判例は少なく、一般的には未払割増賃金を不法行為構成で請求することは難しいと理解されています。

2.法改正により残業代請求の枠組みからはみ出ることはなくなったが・・・

 法改正により、現在では、残業代の消滅時効期間は5年(ただし、当分の間は3年 労働基準法115条、同法附則143条3項)とされています。

 財産権を害する不法行為の消滅時効は3年であるため(民法724条1号)、現行法のもとでは、残業代請求の枠組みからはみ出た分を不法行為に基づく損害賠償請求で補足しなければならない事態は、あまり想定できません。

 しかし、サービス残業を強いるなどの行為が慰謝料の発生原因になるのではないかという問題は依然として残っています。そのため、残業代を払わないまま長時間労働させることが不法行為を構成するのではないのかという議論は、未だ実益を完全に喪失したとはいえない状況にあります。

3.最低賃金法との関係ではどうか?

 残業代と不法行為の問題の亜種として、最低賃金法と不法行為の関係をどのように考えるのかという問題があります。

 これは最低賃金を割り込むような労働をさせた場合に、差額賃金相当額や慰謝料を不法行為に基づく損害賠償請求の枠組みで請求することができないかという問題です。

 残業代の不払と不法行為の成否と並行的に考えることができるのでしょうか?

 それとも、残業代とは別の考慮が働いてくるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令4.1.19労働判例ジャーナル123-20 未払賃金等請求事件です。

4.未払賃金等請求事件

 本件の被告は、個人事業として自動車整備・販売業を営んでいた方です。

 原告になったのは、被告が営んでいた工場(本件工場)で、自動車整備等に関する作業を行っていた方です。最低賃金額を下回る金額の賃金しか支払われていないとして、最低賃金額との差額賃金を請求したほか、不法行為に基づいて時効消滅した差額賃金相当額の損害賠償等を請求したのが本件です(本件は法改正前の事案です)。

 裁判所は、最低賃金法違反を認めましたが、不法行為の成立に関しては、次のとおり述べて、これを否定しました。

(裁判所の判断)

「原告は、未払賃金のうち消滅時効が完成したものについて、不法行為に基づく損害賠償請求として、同賃金相当額を請求している。」

「しかし、最低賃金に基づいて算出した賃金額との差額である未払賃金や時間外労働に対する割増賃金は、それに相応した未払賃金ないし割増賃金の請求権が原告に発生しており、最低賃金を下回る支払をされたこと又は時間外労働をしたことによって、損害があるとは直ちに評価できないし、また、消滅時効が完成した結果、未払賃金ないし割増賃金の請求権が行使できなくなったとしても、それは時効の援用による結果であって、それ自体を不法行為と評価することはできない。加えて、本件において、上記未払賃金の不支給が単なる債務不履行にとどまらず不法行為を構成することを基礎付けるような事情は認められない。」

「したがって、原告の請求のうち、不法行為に基づく未払賃金相当額の損害賠償請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないから、認めることはできない。」

5.慰謝料請求ならどうだろうか?

 上述のとおり、裁判所は、最低賃金との差額賃金相当額を不法行為構成で請求することを否定しました。

 しかし、裁判所が示した論理は、差額賃金には妥当しても、生活を脅かされるようなレベルの賃金しか支給されないことによって受けた精神的苦痛との関係にはあてはまらないように思われます。私の感覚では、最低賃金を割り込む賃金しか支給しないことは、個人の尊厳を毀損する行為であり、それによる精神的苦痛は慰謝料の発生原因になって然るべきではないかという気がします。

 本件では慰謝料請求はなされていなかったようですが、時効の問題が整理された今、この問題は、慰謝料請求の可否という観点から、改めて検討する必要があるように思われます。

 

美容師がやむなく不動産会社の営業職として再就職しても、就労意思が否定されなかった例

1.他社就労と就労の意思

 違法・不当な解雇をされたとしても、裁判所で労働契約上の地位を確認してもらうためには、かなりの時間がかかるのが通例です。勝訴判決を得るためには、1年を超える審理期間を要することも少なくありません。

 しかし、解雇されたその日から、労働者は使用者から賃金の支払を受けることができなくなります。それでは、裁判所の判断が得られるまでの間、労働者は、どのように生活費を確保すればよいのでしょうか?

 主な方法は三つあります。①雇用保険法の基本手当等の仮給付を受ける方法、②賃金仮払いの仮処分を申立てる方法、③他社就労する方法の三つです。

 それぞれの方法には、いずれも利点と難点があります。難点について簡単に説明すると、①の方法は、基本手当等の受給要件を満たしていなければ使えません。また、要件を満たして受給できたとしても、受給期間には制限が設けられています。②の方法は、保全の必要性の認定が厳格で、被保全権利の存在が認められるような事案であったとしても、余程窮乏していない限り容易には認められません。また、審理の中で窮乏していることを使用者に知られてしまいますし、本案で敗訴してしまった場合には、受領した賃金を使用者に返す必要まで生じます。仮払いで得られるのも、最低限生活に必要な金額だけです。③の方法は、従前の仕事よりも労働条件の良い職場で働いてしまうと、旧勤務先での就労意思が否定され、本案での未払賃金請求が認められない危険があります。

 労働者側で解雇の効力を争う場合、各方法の難点を検討しながら、一つ又は複数の方法を組み合わせて行くことになります。

 このうち、③他社就労する方法について、近時公刊された判例集に興味深い裁判例が掲載されていました。一昨日、昨日とご紹介させて頂いている、東京地判令3.10.14労働判例1264-42 グローバルマーケティングほか事件です。何が興味深いのかというと、月によって従前給与を上回る収入を得ていたとしても、資格職がやむなく資格を活かせない仕事についた場合について、就労意思が否定されないと判示されていることです。

2.グローバルマーケティングほか事件

 本件で被告になったのは、美容院、理容院の経営等を業とする合同会社(被告会社)とその代表者(被告乙山)らです。

 原告になったのは、被告らが経営する店舗(本件店舗)で美容師として勤務していた方です。被告会社らとの間で交わされた退職合意が不成立・無効であると主張して、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認等を請求したのが本件です。

 本件の原告は解雇された後、不動産会社に再就職し、リーシング事業部の営業職として稼働を始めました。

 美容師として勤務していた時に被告から支給されていた賃金は、基本給30万円とインセンティブで構成されていました。

 他方、不動産会社から支給されていた賃金は、基本給16万4200円、固定残業代3万5800円、通信手当3000円と歩合給で構成され、原告は少ない時で20万3000円、多い時で35万0520円の支給を受けていました。

 こうした事実関係のもと、被告は、

「仮に本件合意退職が無効であり、原告が賃金請求権を有するとしても・・・少なくとも再就職先から安定して歩合給の支給を受けるようになった・・・以降は、・・・就労意思を失っ」ている

と主張し、賃金支払義務を負うことを争いました。

 これに対し、原告は、

「過去の経験及びキャリアを活かすことのできる就職先を見つけたかったが、生計を維持するため、全く異なる業種の会社で働くことを決意したものであり、現在でも美容師として勤務可能な被告会社らにおいて就労する意思を有している」

と反論しました。

 裁判所は、退職合意の効力を否定したうえ、次のとおり述べて、原告の就労意思を認めました。

(裁判所の判断)

「被告らは、原告には本件退職合意当初から被告会社らにおける就労意思はなく、仮に当初はこれを有していたとしても、少なくとも原告が現在の勤務先に再就職した令和元年7月以降、又は、再就職先から安定して歩合給の支給を受けるようになった同年11月以降は、被告会社らにおける就労意思は失われた旨主張する。」

「しかしながら、前記認定事実によれば、原告は、美容師の資格を有し、本件店舗において美容師として勤務していたところ、本件退職合意後、その資格を生かすことができず、職種も異なる不動産会社の営業職として再就職していること、再就職後の給与額は月額22万円から35万円程度と変動があり、本件賃金変更前には基本給だけで月額30万円を支給されていたことと比較して不安定であり、平均的にみると給与額も減少していることが認められるから、他に特段の事情が認められない本件においては、再就職
により原告の就労意思が失われたと認めることはできず、被告らの前記主張は採用することができない。

3.資格職がやむなく非資格職に就くパターン

 当然のことながら、資格職の方は、資格を活かして働くことを重視していることが多くみられます。こうした方が、やむなく非資格職についた場合、瞬間最大風速的に従前の賃金を上回ったとしても就労意思は否定されないと判示された点に本件の意義があります。

 恒常的に賃金が上回っていた場合にも妥当するのかという問題はありますが、資格職の方の他社就労を考えるにあたり、本件の判示は参考になります。

 

自由な意思による賃金減額の合意が成立したといえるために必要な情報提供・説明のレベルをどう考えるか

1.賃金減額の合意と自由な意思の法理

 最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件は、

「使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁、最高裁昭和63年(オ)第4号平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁等参照)。」

と判示しています。

 この最高裁判例は、錯誤、詐欺、強迫といった瑕疵が認められない場合であったとしても、「自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在」するとは認められないとして、労使間での合意の効力を否定する余地を認めるものです。この法理は使用者から一方的に賃金減額などの労働条件の不利益変更を押し付けられてしまった労働者の保護に広く活用されています。

 自由な意思の法理の適用の可否を判断するにあたっての重要な考慮要素の一つに、事前の労働者への情報提供・説明があります。一般的に言うと、情報提供や説明が丁寧であればあるほど自由な意思は認められやすく、不十分であればあるほど自由な意思が認められにくい傾向にあります。しかし、具体的にどのような程度・態様の情報提供・説明が必要なのかについては、他の考慮要素との相関を考えなければならないこともあり、それほど明確に分かっているわけではありません。

 こうした状況のもと、近時公刊された判例集に、自由な意思による合意が成立したといえるために必要な情報提供・説明を、かなり高い水準で設定した裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令3.10.14労働判例1264-42 グローバルマーケティングほか事件です。

2.グローバルマーケティングほか事件

 本件で被告になったのは、美容院、理容院の経営等を業とする合同会社(被告会社)とその代表者(被告乙山)らです。

 原告になったのは、被告らが経営する店舗(本件店舗)で美容師として勤務していた方です。被告会社らとの間で交わされた退職合意が不成立・無効であると主張して、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認等を請求したのが本件です。

 本件では退職合意よりも以前に賃金の減額が行われており、退職合意の効力だけではなく、賃金減額の効力も争いの対象になりました。変更前、変更後の賃金は、それぞれ次のとおりです。

(変更前)

基本給 

 30万円及び後記歩合給

 毎月末日締め翌月10日払い

歩合給

 アアポイントインセンティブ(月間)

  10組 1万円

  15組 1万5000円

  20組 3万円

  25組 3万5000円

  30組 4万円

  35組 4万5000円

  40組 5万円

  50組 8万円

 売上インセンティブ(月間,税別)

  60万円未満 5%

  60万円以上 7%

  90万円以上 8%

  100万円以上 10%

 注記

  指名、自分で連れてきた知人、友人、通行人のアポイント、売上に限る。

(変更後)

基本給 25万円

特別報酬(OR)

 担当売上50万円以上3万円

 同100万円以上5万円

売上報酬(売上インセンティブ)

 前記と同じ。

担当売上の条件

 お客様からの指名、ただし紹介サイト経由の初回指名は除く

 担当自ら連れてきた知人・友人・通行ハント

 社内紹介のお客様からの指名は、必ず紹介者の承認を得ること

 原告は変更開始月(平成30年10月)にのみ不服を述べましたが、その後、退職(令和元年5月30日)に至るまで賃金変更に異議を述べることはありませんでした。

 こうした事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、自由な意思の法理を適用し、賃金減額の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「前記認定事実のとおり、本件賃金変更は、被告乙山が被告グラン社の従業員全員に対し、一律に基本給を5万円減額し、アポン(ママ)イント・インセンティブを廃止し、給料分の売上げを上げられた場合には3万円のプラス、上げられなかった場合には3万円のマイナスなどとするものである(筆者注:原告が不服を述べたことにより、売上未達の場合の給与3万減は全従業員との関係で行われなくなった)。」

「基本給が一律に減額となっていること、給料分の売上げを上げられなかった場合にも減給となることからすれば、被告ら主張に係る被告乙山の紹介顧客からの指名も売上げに加算することなどの売上算入条件の変更等があったことを考慮しても、被告グラン社の従業員の労働条件が不利益に変更されたものというべきである。」

「このように労働者の同意に基づき雇用契約の内容である労働条件を労働者に不利益に変更する場合には、労働者が使用者に対し交渉力の弱い立場であることに照らせば、労働者に与える不利益の程度や使用者による不利益変更についての説明等を踏まえて、当該不利益変更を受け入れる旨の労働者の意思表示が自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在しなければならないものと解するのが相当である。」

「これを本件についてみるに、前記前提事実及び認定事実によれば、本件賃金変更は、基本給を5万円減額し、アポイント・インセンティブを廃止する一方、特別報酬(OR)を創設し、売上インセンティブの売上げに被告乙山紹介の顧客の売上げを含めるというものであるが、上記基本給の減額分を特別報酬(OR)で賄うためには1か月100万円の売上げを上げなければならないこと、多い月には月額1万円が支給されていたアポイント・インセンティブが廃止されたこと、上記被告乙山紹介の顧客が上記基本給及びアポイント・インセンティブの減額を補うに足りる程度の人数が存在することを認めるに足りる的確な証拠もないこと、本件賃金変更前後の原告の実際の給与支給額を見ても、別紙給与支給額一覧表記載のとおり、本件賃金変更前は月額30万円以上であったものが、本件賃金変更後は平均すると月額26万円程度に減少していることが認められ、これらの事情を考慮すれば、本件賃金変更は、全体として不利益の程度が相当大きい賃金減額であるということができる。

「そして、本件賃金変更の経緯を見るに、前記前提事実及び認定事実によれば、被告乙山は、平成30年9月18日、原告を含む全従業員とのミーティングの際に、自ら作成したメモ・・・に基づき、本件店舗の業績が不振であることから、翌月から基本給を一律5万円減額すること、アポイント・インセンティブを廃止すること、給料分の売上げを上げた人は3万円を増額、上げなかった人は3万円を減額すること、今後のインセンティブ報酬については、被告乙山が紹介した顧客についても対象に含めることを口頭で説明したにとどまる。被告乙山による上記説明は、新しい給与体系の詳細や実際の支給額がどのように変動するかについて十分に説明をしたものとみることはできず、上記説明に加えて、原告を含む各従業員との間で個別の面談の機会を設定したり、制度変更の詳細を記載した書面を配布して承諾書を取得するなど、原告を含む個々の従業員の真意を十分に確認する措置を取った形跡もうかがわれない。

「以上に判示した本件賃金変更の不利益の程度及び被告らによる説明状況に加え、原告が事後に売上未達成の場合の減額について異議を述べていることに鑑みれば、前記ミーティングの場において原告を含む全従業員が本件賃金変更に異議を述べず、その後も上記を除き異議を述べていないことを考慮しても、本件賃金変更を受け入れる旨の労働者の意思表示が自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在したものと認めることはできない。」

「以上によれば、本件賃金変更は、原告ら従業員が自由な意思に基づき同意したものとは認められず、無効である。」

3.実際の支給額の明示、個別面談、書面配布、承諾書の取得

 上述のとおり、裁判所は、新しい給与体系の詳細、実際の支給額の変動の説明のほか、個別面談、書面配布、承諾書の取得等の欠落を指摘し、賃金変更が自由な意思に基づいていることを否定しました。

 本件の賃金減額の不利益性が相当大きいと評価されていたことを踏まえての判示だとしても、かなり踏み込んだ判断をしているように思われます。

 個別同意に基づいて賃金減額を実行する場面において、裁判所が指摘する事項を網羅的に履践している会社は、必ずしも多いとはいえません。賃金減額の効力を争う労働者にとって、本裁判例は有力な武器として活用できる可能性があります。

 

退職合意に自由な意思の法理の適用が認められた例

1.自由な意思の法理の射程

 最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件は、

「使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁昭和44年(オ)第1073号同48年1月19日第二小法廷判決・民集27巻1号27頁、最高裁昭和63年(オ)第4号平成2年11月26日第二小法廷判決・民集44巻8号1085頁等参照)。」

と判示しています。

 この最高裁判例は、錯誤、詐欺、強迫といった瑕疵が認められない場合であったとしても、「自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在」するとは認められないとして、労使間での合意の効力を否定する余地を認めるものです。この法理は使用者から一方的に労働条件の不利益変更を押し付けられてしまった労働者の保護に広く活用されています。

 最高裁判例の判示からも分かるとおり、この法理が賃金や退職金の減額の場面で適用されることに疑問の余地はありません。しかし、労働契約の解消、合意退職の場面でも適用されるのかには争いがあります。

 例えば、東京地判平31.1.22労働判例ジャーナル89-56ゼグゥ事件は、

「賃金に当たる退職金債権の放棄(シンガー・ソーイング・メシーン事件判決)、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に係る同意(山梨県民信用組合事件判決)、女性労働者につき妊娠中の軽易な業務への転換を契機として降格させる事業主の措置に対する同意(広島中央保健生協事件判決)などの存否が問題となる局面においては、労働者が、使用者の指揮命令下に置かれている上、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力も限られており、使用者から求められるがままに不利益を受け入れる行為をせざるを得なくなるような状況に置かれることも少ないことから、『自由な意思と認められる合理的な理由』を検討して慎重に意思表示の存否を判断することが要請されているものと解される(山梨県民信用組合事件判決に関する判例解説(法曹時報70巻1号317~321頁)参照)。これに対し、退職届の提出という局面においては、労働者は使用者の指揮命令下から離脱することになるうえ、退職に伴う不利益の内容は、使用者による情報提供等を受けるまでもなく、労働者において明確に認識している場合が通常であり、上記各最高裁判決の判旨が直ちに妥当するとは解しがたい。

と述べて退職合意の場面で自由な意思の法理が適用されることを否定しています。

 退職合意の場面で自由な意思の法理の適用が否定されたとしても、退職の意思表示を慎重に認定する一連の裁判例群がある関係で、労働者側が致命的に困るということはありません。

合意退職の争い方-退職の意思表示の慎重な認定 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 しかし、意思表示の慎重な認定で自由な意思の法理を完全に代替できるかどうかは必ずしも明らかではなく、両方の理屈が認められた方が労働者に好ましいことは間違いありません。こうした観点から判例集に目を通していたところ、退職合意に自由な意思の法理の適用を認めた裁判例が掲載されていました。東京地判令3.10.14労働判例1264-42 グローバルマーケティングほか事件です。

2.グローバルマーケティングほか事件

 本件で被告になったのは、美容院、理容院の経営等を業とする合同会社(被告会社)とその代表者(被告乙山)らです。

 原告になったのは、被告らが経営する店舗(本件店舗)で美容師として勤務していた方です。被告会社らとの間で交わされた退職合意が不成立・無効であると主張して、労働契約上の権利を有する地位にあることの確認等を請求したのが本件です。

 原告が被告会社と交わした退職合意書には、

「私は、貴社を退職するにあたり、下記の項目に同意したことをここに証します。」

などと書かれていました。

 しかし、これは、上司Cや被告乙山に対する暴行を否認する原告に対し、被告乙山とその弁護士が「(防犯カメラに)全部録画されているから。」「それも映ってます。」「何がしかの賠償になる。「映像も全部分析して、あなたが言ったことも全部暴いて。」「(退職に)応諾しないのであればもう私が出てるから、就業拒否で自宅待機。」で、貯回解雇。」「(懲戒解雇になると)転職先からですね、過去の経歴調査が入るんですよ。」などと言って取り付けたものでした。

 ところが、被告らの事務所に設置されていた防犯カメラには、問題となった暴行の場面は録画されていなかったことが後に明らかになりました。

 こうした事実関係のもと、本件では退職合意の効力が争点になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、退職合意の成立・効力を否定しました。

(裁判所の判断)

労働者が使用者の退職勧奨に応じて退職の意向を示した場合、使用者と労働者との間の交渉力に差異がある一方で、退職が労働者にとって生活の糧を喪失するなどの大きな不利益を生じさせ得ることに照らせば、労働者による退職の意思表示というためには、当該退職の意向が示されるに至った経緯等を踏まえ、労働者の自由な意思に基づいて退職の意思が表示される必要があり、自由な意思に基づくといえるか否かは、当該意思表示をした動機、具体的言動等を総合的に考慮して判断するのが相当である。
「これを本件についてみるに、前記前提事実及び認定事実によれば、原告は、令和元年5月30日、本件面談において、被告乙山及びB弁護士から退職を勧奨されて退職合意書等に署名しており、被告らの退職勧奨に応じて退職の意向を示したものと認められる。」
「そこで、本件面談の経緯を具体的にみると、B弁護士は、依頼者である被告乙山から直前に依頼を受けて本件面談に同席したものの、自ら事実確認する時間的余裕がなく、被告乙山及びCに対する暴行の内容、程度や原告の不良かつ指導によっても改善のみられない勤務状況という事実関係については、被告乙山の説明を前提として当日初対面の原告との本件面談に臨んだものであるから、原告が違法な暴行行為に及んだとの認識に基づき、懲戒解雇事由が存在し、不法行為も成立し得るとの見解に立ち前記認定に係る各発言をしたことは、準備時間が限られており、依頼者からの一面的な情報に基づいていた面があることを踏まえると、依頼者の代理人として交渉に当たった弁護士として必ずしも不当とはいえない面もある。また、本件面談の様子の録音・・・全体を通じてみると、原告は、本件面談前日の被告乙山とのやり取りについて、監禁されたことを基礎付ける証拠は見当たらないにもかかわらず『監禁された』と述べたほか、約2時間に及ぶ本件面談において、退職条件についても自己の要求を具体的に述べた上、結果的に要求の相当部分をB弁護士に手書きで条項を追記させる形で実現した上で退職合意書等に署名しているということができる。このように、本件面談全体をみると、原告が退職に当たって自らの要求を貫徹し、これを実現した面があることは否定できない。」
「しかしながら、上記原告の要求は、本件面談当初から持ち出していたものではなく、原告は、本件面談の当初は、在職を希望していたのである。すなわち、被告乙山は、本件暴行の事実を否定した原告に対し、実際には防犯カメラの映像を確認していないにもかかわらず、『全部録画されているから』、『それも映ってます。」』などと述べ、B弁護士も、被告乙山の同発言を前提として、原告に対し、『映像を全部分析して、あなたが言ったことも全部暴いて。』、『応諾しないのであればもう私が出ているから、就業拒否で自宅待機。で、懲戒解雇』、『転職先からですね、過去の経歴調査が入るんですよ。』などと述べたことから、原告は、当初希望していた在職を希望しなくなり、退職を前提とした退職条件の交渉に終始した経緯に照らせば、原告は、上記被告乙山及びB弁護士の一連の発言により、防犯カメラ映像に本件暴行の様子が記録されており、当該映像の存在及び内容を前提にすると法的に懲戒解雇や損害賠償請求が認められると認識したことにより、在職を諦め、退職の意向を示すに至ったとみるのが相当である。」
「そして、被告乙山及びB弁護士は、本件面談の際、防犯カメラの映像を確認しておらず、しかも、当該映像には本件暴行の場面は記録されていなかったというのであるから、防犯カメラに本件暴行の様子が記録されており、当該映像の存在及び内容を前提にすると法的にみて損害賠償請求や懲戒解雇が認められるという、原告が退職の意向を示すに至った前提となる事情が客観的には存在しなかったものである。」
「さらに、前記前提事実及び認定事実のとおり、原告が、本件面談の当初、本件暴行の事実を否定し、在職を希望していたことに加え、当時、美容師の資格は有していたものの、既に再就職先を確保していたことや、再就職先を探していたことはうかがわれないこと、原告は、当時、扶養すべき家族があり(原告本人)、実際にも被告会社らを退職後に美容師とは全く職種の異なる不動産会社の営業職に就職していることからすれば、退職に伴う原告の不利益は大きいものがあったことなどの事情を総合すると、原告において、防犯カメラの映像に本件暴行の場面が記録されているとの認識を持たなければ、退職の意向を示すことはなかったことが認められる。」
以上に判示したところを総合考慮すれば、原告は、被告乙山及びB弁護士から、実際には記録されていなかった防犯カメラの映像に本件暴行の場面が記録されており、これを前提として懲戒解雇や損害賠償請求が認められると言われ、在職を希望する言動から退職を前提とした退職条件の交渉に移行して退職合意書等に署名したものであるから、その自由な意思に基づいて退職の意思表示をしたものとは認められず、本件退職合意の成立は認められないというべきである。

3.錯誤取消が認められそうな事案ではあるが・・・

 本件では「ある」と思っていた映像が実は「なかった」ものであり、錯誤取消が認められてもおかしくなかったように思われます(民法95条)。

 その意味で、自由な意思の法理によらなければ救済ができなかったケースとは言えないかも知れません。それでも、退職合意・合意退職に自由な意思の法理の適用を認めたことは注目に値します。

 退職合意・合意退職の効力を争うにあたり、本裁判例は、退職の意思表示を慎重に認定する裁判例群とともに、労働者側にとって有力な武器となる可能性があるように思われます。

 

雇止め-改善可能性の検討の仕方・更新前の問題行動への評価

1.雇止めの理由

 労働契約法19条2号は、

「当該労働者において当該有期労働契約の契約期間の満了時に当該有期労働契約が更新されるものと期待することについて合理的な理由があるものであると認められる」

場合(いわゆる「合理的期待」が認められる場合)、

有期労働契約の更新拒絶を行うためには、客観的合理的理由、社会通念上の相当性が必要になると規定しています。

 この規定があるため、契約更新に向けて合理的期待を有している労働者は、さしたる理由もなく契約更新を拒絶されることから保護されています。

2.客観的合理的理由、社会通念上野相当性

 雇止めを正当化するだけの客観的合理的理由、社会通念上の相当性が認められるのかどうかは解雇の場合に準じて考えられます。勤務態度不良や問題行動に対する考え方も同様で、事前に改善の機会を与えたのかが重要な意味を持つことが少なくありません。

 それでは、この改善の機会は、どの程度、幅を持った概念として理解されているのでしょうか? 注意・指導された事項さえ繰り返されなければ改善したものと考えられるのでしょうか? それとも、より広く-例えば、注意・指導された事項と態様は異なっていても、対人トラブルを繰り返しているようではダメだと考えられるのでしょうか?

 また、雇止め特有の問題として、今期契約更新前の不適切行為はどのように評価されるのでしょうか? 契約更新がされたことに伴い、水に流されたものと考えることができるのでしょうか? 契約更新がされたとしても、問題として蓄積され、次期以降の更新の可否の判断に響いて来るのでしょうか?

 昨日ご紹介した、東京地判令4.1.27労働判例ジャーナル123-12 学校法人茶屋四郎次郎記念学園事件は、これらの問題を考えるうえでも参考になります。

3.学校法人茶屋四郎次郎記念学園事件

 本件で被告になったのは、東京福祉大学及び東京福祉大学大学院を設置・運営する学校法人です。

 原告になったのは、平成25年4月1日に被告と期間1年の有期労働契約を締結して以来、1年刻みで契約の更新を繰り返してきた方です。平成31年3月31日付けで雇止めにされたことを受け、労働契約法19条による契約更新を主張し、地位の確認等を求める訴えを提起しました。

 本件では被告から原告の勤務態度不良を基礎付ける種々の事実が主張されましたが、裁判所は、次のとおり述べて、雇止めの効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「原告は、

合理的な理由なく一方的に感情を高ぶらせて及んだ暴力的行為に対して本件けん責処分を受けたこと(理由〔1〕)、

本件留学生に対する不適切な発言に対して本件厳重注意を受けたこと(理由〔2〕)、

東京福祉大学のオリエンテーションに複数回遅刻し、事前に欠席届を提出せず平成29年度及び平成30年度のカリキュラム編成専門部会を複数回欠席したことがあったこと(理由〔3〕)、

本件研究室の整理整頓を怠り、本件女性職員に対してセクシャルハラスメントを行い、学生のいるカフェテリア内で大声で叫んだことがあること(理由〔4〕)

が認められ、他方、被告が本件雇止めの理由として主張するその余の事実については、認定することができない。」

本件けん責処分の対象となった原告の暴力的行為は平成29年12月14日の出来事であり、原告の本件女性職員に対するセクシャルハラスメントは平成28年10月から平成29年1月頃までの出来事であり、原告がカフェテリア内で大声で叫んだのは平成29年8月の出来事である。前記前提事実・・・によれば、被告は、平成29年3月31日付け有期労働契約・・・を更新しないときには、同年末までに原告に対してその旨を予告しなければならないところ、被告は、同年末までにこれらの出来事を把握していながら、原告を雇止めすることなく、平成29年3月31日付け有期労働契約を更新することとし、原告との間で本件労働契約を締結したものと認めることができる。

「この点、C局長は、被告は、平成29年12月の時点で、同年3月31日付け有期労働契約を更新することを予定していたところ、その後、本件けん責処分及び本件厳重注意の対象となった原告の言動が発生したが、上記有期労働契約の契約期間の満了日である平成30年3月末までの期間が短く、本件留学生に対する不適切な発言に関する懲戒委員会の判断が年度をまたぐことになり、翌年度の授業の計画も決まっていたため、時期的な問題から雇止めを見送って、1年間様子を見ることとし、本件労働契約を締結したものであって、本件労働契約を締結する際には本件けん責処分及び本件厳重注意の対象となった言動は考慮できていないのであって、仮にこれらを考慮することができていれば、平成29年3月31日付け有期労働契約を更新して本件労働契約を締結することなく、雇止めにしていた可能性が高い旨の証言等をする・・・。しかしながら、前記前提事実・・・のとおり、原告の担当科目の授業については、他の教員に割り当てて実施することもできるのであるから、被告において、本件けん責処分及び本件厳重注意の対象となった原告の言動、本件女性職員に対するセクシャルハラスメント並びに平成29年8月のカフェテリア内での言動を考慮すると雇止めをする必要があると判断していたのであれば、これを回避する必要があったとは認め難く、C局長の上記証言等は採用することができない。」

「また、上記・・・において説示したとおり、本件けん責処分の対象となった暴力的行為については、被告も、本件けん責処分をもって終えるものとしていたのであり、また、原告は、平成29年1月頃にE教授から注意を受けた後は、業務上必要な範囲を超えて本件女性職員に接触することはなかったことが認められる。

以上の・・・事情を総合考慮すると、上記・・・の出来事を理由に本件雇止めをすることは、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であるとはいえないというべきである。

原告の本件留学生に対する不適切な発言は、本件留学生から論文指導を求められた際に具体例を挙げて指導した場面に限られたものであって、本件全証拠を精査しても、原告が、本件厳重注意の後に、学生や留学生に対して差別的あるいは不適切な言動を繰り返したことは認められない。また、被告は、原告の本件留学生に対する不適切な発言について、軽微なもので懲戒処分を必要としないと判断したからこそ、本件厳重注意をするにとどめたものと認められる・・・。

したがって、原告が本件厳重注意を受けたことを理由に本件雇止めをすることは、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であるとはいえないというべきである。

「また、原告について、オリエンテーションに複数回遅刻し、平成29年度及び平成30年度のカリキュラム編成専門部会を事前の欠席届を提出しないままに複数回欠席し、本件研究室の清掃・整理整頓を怠っていたことは認められるものの、上記遅刻によってオリエンテーションの実施に具体的な支障を生じさせたわけではなく、上記欠席によってカリキュラム編成専門部会の運営に具体的な支障を生じさせたわけではないことや、本件研究室が整理整頓されていないことによって被告やその職員に何らかの具体的支障が生じたことの主張立証もないことを考慮すると、これらだけでは本件雇止めをする客観的に合理的な理由とまではいい難く、本件雇止めは、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であるとは認められないというべきである。」

4.契約更新の事実は効く・改善可能性は個別の問題行動毎とされた例

 二回に渡って更新されていたためか、契約更新前の問題行動については、本件ではあまり重視されませんでした。

 また、改善可能性は指導・注意後も女子社員と接触していたのか、指導・注意後も留学生への不適切発言を繰り返していたのか、といったように、個別の問題行動毎に検討されています。

 雇止めの可否をめぐる紛争において、使用者側から、かなり昔の出来事まで引っ張り出されることは少なくありません。また、使用者側は改善の機会を、しばしば同種行為という括りでまとめようとしてきます。

 こうした使用者側からの主張に反駁していくにあたり、本件の判示事項は参考になります。