弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

アカデミックハラスメントによる懲戒処分(教授⇒専任講師・准教授への降格・降等級)が無効とされた例

1.アカデミックハラスメント

 大学等の養育・研究の場で生じるハラスメントを、アカデミックハラスメント(アカハラ)といいます。

 セクシュアルハラスメント、マタニティハラスメント、パワーハラスメントとは異なり、アカデミックハラスメントは、法令上の概念ではありません。各大学が独自に定義を定め、その抑止に努めています。

 アカデミックハラスメントは、多くの場合、懲戒事由にも該当します。しかし、セクシュアルハラスメント、マタニティハラスメント、パワーハラスメントが、それに該当したからといって必ずしも懲戒処分の対象になるわけではないのと同様、アカデミックハラスメントも、該当する行為が認められたからといって、必ずしも懲戒処分の対象になるわけではありません。「当該懲戒が、当該懲戒に係る労働者の行為の性質及び態様その他の事情に照らして、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合」、懲戒処分が効力を有することはありません(労働契約法15条参照)。

 近時公刊された判例集にも、ハラスメントの事実が認定されながらも、懲戒処分の効力が否定された裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令2.10.15労働判例1252-56 学校法人国士舘ほか事件です。

2.学校法人国士舘ほか事件

 本件は大学教授に対する懲戒解雇・降級処分の効力が問題になった事件です。

 被告になったのは、

7学部及び大学院10研究科を有する大学(本件大学)を設置・運営している学校法人(被告法人)、

本件大学の教授・学長(被告Y1)、

本件大学の教授・学部長(被告Y2)

の三名です。

 原告になったのは、教授職にある2名です(原告X2、原告X1)。

 ハラスメントとの関係で問題になったのは、原告X1に対する懲戒処分です。原告X1は、留年していたI学生にハラスメントを行ったことなどを理由として、主位的に専任講師に降等級する懲戒処分を、予備的に准教授に降等級する懲戒処分を受けました。

 これに対し、原告X1は、懲戒処分の効力を争い、教授としての労働契約上の地位にあることの確認等を求める訴えを提起しました。

 裁判所は、次のとおり述べて、懲戒事由への該当性を認めたものの、懲戒処分(降等級)の効力は否定しました。

(裁判所の判断)

「I学生の証言は、原告X1が、平成27年度の指導の際、I学生に対し、『あなたの人生は終わっている。』『あなたのお先は真っ暗だ。』『あなたは奴隷と一緒である。』旨発言した事実、原告X1の研究室の隣の部屋で下級生がいる状況で、下級生にお願いして卒論の書き方を聞いてくるよう発言した事実、I学生がアルバイトを続けていることに関し、『小金を稼いで遊んでいるに違いない。』旨発言した事実について、いずれもこれを信用することができ、これらを事実として認定することができる。」

(中略)

前記・・・の原告X1の言動は、いずれも学生の人格を否定し、不必要な屈辱を与える発言であり、指導の範囲を逸脱している。また、アルバイトに関する発言も、勉学にもっと時間を割くよう指導するといった内容ではなく、遊んでいると決めつけて屈辱を与えるものであるから、指導の範囲を逸脱した発言といえる。

「以上によれば、原告X1のI学生に対する発言は、人格を否定し、指導の範囲を逸脱しているもので、教員規則2条3号に違反し、20条の懲戒事由に該当する。」

(中略)

前記・・・の原告X1のI学生に対する言動はいずれも不適切であり、I学生に与えた精神的苦痛は大きいと認められるが、I学生にも、授業日変更の連絡や予習の程度や報告会欠席などに関し、指導を要する行動があったと認められ・・・、原告X1の前記言動と、I学生の再度の留年との因果関係も必ずしも明らかとはいえない。また、留年した特定の学生に対する指導において不適切な発言があったということはいえるが、そのことから直ちに、原告X1の指導全般に問題があったとまでは認められない。これらのことに加え、指導を要する行動を取る学生に対する指導方法については改善の機会が与えられるべきであること、原告X1にはこれまで懲戒処分歴はないこと(弁論の全趣旨)に照らせば、教授の地位を剥奪して専任講師又は准教授とするのは、重きに失するというべきである。

したがって、本件降等級処分は、主位的な講師への降等級及び予備的な准教授への降等級のいずれについても、社会通念上相当性を欠き、無効である。

3.教授からの降格(降等級)無効例

 大学教授についていうと、解雇の効力を争う裁判例は比較的数がありますが、准教授や講師への降格(降等級)処分の効力を争う公表裁判例は、必ずしも多くはないように思われます。

 今後、アカデミックハラスメントに関する意識の高まりとともに、解雇までは振り切れない軽度~中等度の摘発例が増えて行くことが予想されます。そうした状況下において、本件は降格(降等級)の効力を争えるかどうかを判断するにあたっての目安として参考になります。

 

客観証拠を伏せておいて、嘘をついた相手を非難する形で行われる解雇の効力

1.動かぬ証拠を伏せておく手法

 訴訟において、決定的な証拠を伏せておくという手法があります。

 例えば、不貞行為を理由に慰謝料を請求するにあたり、配偶者と不倫相手がホテルから出てくる場面を撮影した写真があったとします。

 交渉・訴訟の初期段階では、こうした証拠が手元にあることを伏せ、あたかも山勘で不貞を疑っているかのように見せかけて慰謝料を請求します。

 そうすると、高い確率で、相手方は、不貞行為の存在を否認してきます。

 その後、おもむろに写真を示し、相手方が嘘つきであることを分かりやすく示して行くという手法です。

 民事訴訟規則で訴訟提起にあたり重要な書証を添付することが義務付けられたり(民事訴訟規則53条2項参照)、心証形成に与える影響が疑問視されたりしている関係で、今では昔ほど用いられることはなくなりましたが、嵌らないように注意しなければならない古典的な手法の一つです。

 こうした手法は、不貞慰謝料を請求する事件に限りません。労働事件において使用者側が使ってくることもあります。

 例えば、労働者が非違行為に及んでいる場面を撮った録音・録画が存在しているにもかかわらず、素知らぬ体を装って、調査名目で非違行為の有無を労働者に照会するといったようにです。ここで知らぬ存ぜぬというと、録音・録画が取り出され、嘘をついたという非難のもと、懲戒などの不利益処分が行われます。

 しかし、冷静になって考えてみると、客観証拠が手元にある以上、嘘をつかれたところで使用者側に実害が生じるわけではありません。非違行為の存否は、本人がどのような供述をしようが、証拠によって十分に認めることができるからです。

 それでは、このように「嵌められた」(あるいは嵌まった)ことは、独立の懲戒事由となり得るのでしょうか? 懲戒解雇などの重い処分を行う理由になるのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.10.15労働判例1252-56 学校法人国士舘ほか事件です。

2.学校法人国士舘ほか事件

 本件は大学教授に対する懲戒解雇・降級処分の効力が問題になった事件です。

 被告になったのは、

7学部及び大学院10研究科を有する大学(本件大学)を設置・運営している学校法人(被告法人)、

本件大学の教授・学長(被告Y1)、

本件大学の教授・学部長(被告Y2)

の三名です。

 原告になったのは、教授職にある2名です(原告X2、原告X1)。

 問題になった解雇は、被告法人が、原告X2に対して行ったものです。

 本件において被告法人がX2の解雇理由にしたのは、

「平成28年12月19日、卒論研修(本件研修)の冒頭挨拶の際、本件研修に参加した4年生の学生28名の前で、

『①私なんかは、B先生は今回の件で学長に殺されたと思っています。そのぐらいひどい話なんですよ。いろんなことあると思いますけど、だけど、ちょっとひど過ぎると。』

『②Cゼミの4年生と3年生は学長に捨てられたんですよ。というしかないですよ。』

『③本来、学長がこういう形で学生さんのカリキュラムや単位のことに口を出しちゃいけないんですけど、だけども、こういう形になった。しかもあんまり文学部は、というか、もちろん東洋史も捨てるかもしれません。』

『④1月から、学長に楯突く者についてということで、懲罰委員会ができるそうです。理由なく学長に楯突いたら懲罰する。何なんですか、これ。というようなところで今、Aはおかしなことを言ってます。』

『⑤帰られたら、お父さん、お母さんにもそういうことがあると言ってくださって結構です。まあ、そういうのがある中で、それはそれでまた今日の発表が終わってから、いろいろ、何なんだいということでご相談あるようだったら、またそれはそれでご説明します、父兄と。』」

と発言したことや(解雇理由①)、

平成29年3月3日、被告Y1から、学生への挨拶の中で学長を誹謗中傷するような話をした事実はないかと問われたのに対し、ありません旨虚偽の事実を述べた。また、原告X2は、同月10日、被告法人の理事会の委嘱に基づき理事らにより行われた聴聞会において、発言①~⑤のほとんどを取り上げてその有無を確認されたのに対し、そのような発言はしていないと虚偽の陳述をした

こと(解雇理由②)等でした。

 原告X2は解雇理由②について、

「録音データを示すことなく、3箇月近く前の発言について、発言の一部を切り取って確認を求める行為は、懲戒処分を目的として、原告X2の否定の回答を引き出そうとする工作であり、原告X2の回答は、懲戒事由に該当する非違行為とはいえない。また、被告法人は、発言①~⑤について録音データを保有していたのであるから、原告X2の回答によって、被告法人の調査は何らの影響も受けず、業務妨害の結果は生じない。」

と反論しました。

 裁判所は、次のとおり述べて、懲戒事由への該当性自体は認めたものの、解雇理由②で重い処分を行うことは否定しました。

(裁判所の判断)

「発言①~⑤は、本件研修という特別な行事の際に行われたもので、発言内容は刺激的であったから、比較的記憶に留まりやすい出来事であり、約3箇月前の出来事といえども、原告X2が失念するとはいえないから、少なくとも、発言①~⑤の具体的な内容について問われて否定した平成29年3月10日の聴聞会においては、原告X2は、発言①~⑤を行ったことを認識していたにもかかわらず、故意にこれを否定し、もって虚偽の陳述をしたと認められる。」

「したがって、これは、本件大学の教員規則2条3号及び20条に該当するといえる。」

「原告X2は、録音データを示すことなく、3箇月近く前の発言について、発言の一部を切り取って確認を求める行為は、懲戒処分を目的として原告X2の否定の回答を引き出そうとする工作であって、懲戒事由に当たらない旨主張するが、どのような意図の質問であったとしても、自己の記憶に反する回答をすることは、教員規則2条3号及び20条に該当するというほかはなく、採用できない。また、被告法人が発言①~⑤について録音データを保有していたとしても、虚偽の回答をすることが許されるわけではなく、結論を左右しない。」

(中略)

「解雇理由①の発言①~⑤は、学生に不信感・不安感を与える内容であったものの、本件研修に参加した28名の学生の面前という限定された場面での発言であり、伝播性は低く、被告法人の一般的な信用を毀損するおそれは小さい。解雇理由②も、被告法人は既に発言①~⑤の録音のデータを入手していたことから、被告法人の業務に支障をきたすものではない。したがって、いずれも、規律違反は重大であるとまではいえない。このことに、原告X2が過去に懲戒処分を受けたことがないこと(弁論の全趣旨)を考慮すれば、解雇理由①②によって原告X2を解雇とすることは、重きに失し、社会的相当性を欠くものと言わざるを得ない。

「したがって、本件解雇は権利の濫用に当たり、無効である。本件解雇が普通解雇の意思表示を兼ねるとしても、社会通念上相当であると認められず、権利の濫用に当たり、無効である。」

3.嵌まっても大したダメージにはならない?

 一見して虚偽の主張をすることは、インパクトが大きいため、そのリスクが過大に評価される傾向にあります。しかし、判決でも指摘されているとおり、客観証拠が既に確保されている事案においては、虚偽主張がされたとしても、法人業務に支障が生じることは殆ど考えられません。さほどの実害が観念できないのに懲戒解雇を行うことは、やはり難しいように思われます。

 嵌められた/嵌まったとしても、それだけで訴訟の帰趨が決まるわけではないので、過度に悲観的にならないことが重要です。

 

就業規則の周知性の否定例-尋問で足を掬えることもある

1.就業規則の周知性

 労働契約法7条本文は、

「労働者及び使用者が労働契約を締結する場合において、使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容は、その就業規則で定める労働条件によるものとする。」

と規定しています(契約規律効)。

 就業規則に契約規律効が認められるための「周知」に関しては、

「労基法106条1項及び労基法施行規則52条の2の周知の方法(見やすい場所への掲示・備付け、書面交付又は記録した磁気テープ等を労働者が常時確認できる機器の設置)に限られず、事業場の労働者が実質的に知り得る状態となり得る方法が採られることで足りる」

と理解されています(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕32頁参照)。

 この「実質的に知り得る状態」というのは極めて緩やかに理解されており、実務上、就業規則の周知性が否定されることは殆どありません。

 そうした状況の中、近時公刊された判例集に、就業規則の周知性が否定された裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令3.4.13労働判例ジャーナル116-52 ノミック事件です。

2.ノミック事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 被告になったのは、室内装飾及び店舗の設計、施工等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、

平成25年4月1日に被告との間で労働契約を締結し、被告のD支社に配属されて就労していた原告A

平成15年3月1日に被告との間で労働契約を締結し、被告のD支社い配属されて就労していた原告B

の二名です。

 原告Aは平成30年3月31日に退職し、原告Bは平成30年4月30日に退職しました。その後、催告を経て、平成30年12月27日、割増賃金の支払を求める訴えを提起しました。

 この事件の興味深いところは、原告Aにしても、原告Bにしても、かなり長期間に渡って「固定残業手当」の支給を受けていたことです。

 原告Aは被告に入社した平成25年4月当時から、原告Bは入社後約3年を経た平成18年7月から「固定残業手当」の名目で一定額の支給を受けていました。

 本件では、固定残業代についての合意の成否のほか、周知性の観点から就業規則の効力も争われました。

 裁判所は、この事案について、次のとおり述べて、就業規則の周知性を否定しました。

(裁判所の判断)

被告は本件就業規則を原告ら従業員に周知していたと主張するが、これを認めるに足りる的確な証拠はない。

この点、被告の従業員のE(以下『E』という。)は、その証人尋問において、被告のD支社では、本件就業規則を事務職員が就労している場所の後ろの棚に置いて周知している旨を証言するが、これを裏付ける証拠はない。また、E自身、実際にその棚に本件就業規則が保管されているのを見たことはなく、被告からその場所に本件就業規則が保管されていると聞いたこともないと証言している。

「また、被告は、平成18年8月24日の営業会議において就業規則を変更して固定残業手当を導入することについて説明し、これによって本件就業規則を周知したとも主張し、これに沿う証拠(乙27、30、証人E)もあるが、仮に上記営業会議において固定残業手当の導入を説明・告知したことがあったとしても、それだけでは本件就業規則について周知したとは認められない。」

「上記のとおり、被告においてD支社の従業員が本件就業規則の内容を知り得ることができる措置をとっていたと認めるに足りる証拠がない以上、本件就業規則は周知性を欠いており、無効であるから、本件就業規則の固定残業代についての定めが、原告らと被告との間の労働契約の内容になっていたと認めることはできない。

3.労働基準監督署による是正勧告が効いている可能性もあるが・・・

 本件では、

「本件就業規則は、原告らが所属していた被告のD支社を所轄する中央労働基準監督署長には届出られていない。また、被告は、平成30年4月30日時点で、中央労働基準監督署長に対し就業規則を届け出ておらず、平成31年3月18日、同監督署長から、労働基準法89条1項に従って就業規則を届け出ていないことと、労働基準法106条1項に従って就業規則を周知していないことについて、是正勧告を受けた。」

との事実が認定されています。

 本件が、こうしたやや特殊な前提事実のもとでの判断であることは、十分に意識しておく必要があります。

 とはいえ、曲がりなりにも、従業員が、

「被告のD支社では、本件就業規則を事務職員が就労している場所の後ろの棚に置いて周知している」

と証言する中、実務上極めて緩やかに認定されることの多い就業規則の周知性が、

「これを認めるに足りる的確な証拠はない。」

と極めてあっさりと否定されていることは、注目に値します。

 また、従業員の証言が、

「E自身、実際にその棚に本件就業規則が保管されているのを見たことはなく、被告からその場所に本件就業規則が保管されていると聞いたこともないと証言している」

と崩れている部分も興味深いところです。

 普通、証人尋問にあたっては、予め入念な予行練習を実施します。そのため、会社側証人が会社側に不利な証言をするという事態は、そうそう起きることではありません。

 それが起きたのは、周知性の要件が極めて緩やかであることから、会社側が反対尋問対策を御座なりにいていたのではないかと推測されます。こうした実例を目の当たりにすると、使用者側に有利な論点であるからといって安易に諦めることなく、反対尋問権を適切に行使することの重要性を自覚させられます。

 

固定残業代-差額清算合意・差額清算実態は侮れない?

1.固定残業代の有効要件と「差額清算合意」「差額清算実態」

 固定残業代とは、

「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」

をいいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。

 この固定残業代について、一時期、

「労基法所定の計算方法による額が固定残業代の額を上回るときはその差額を当該賃金の支払期に支払うことを合意したこと」(差額清算合意)

が有効要件になるのか否かが、議論の対象になったことがあります。

 しかし、現在では、

「『差額清算があること』ないし『清算の実態があること』の要件については、・・・支給が合意された固定残業代の額を超えて時間外労働が行われた場合に、その超過分について割増賃金が別途支払われるべきことは、労基法上当然のことであり、『清算合意』ないし『清算実態』を独立した要件と解する必要はない」

「雇用契約に基づいて支払われる手当が、時間外労働等に対する対価として支払われるものとされてりうか否かは、契約の内容によって定まり、その他に何らかの独立の要件を必要とするものではない・・・必ずしも清算の実態を要求するものではない」

と、差額支払合意や差額清算実態は、固定残業代の有効要件ではないとの理解が通説的な地位を占めるに至っています(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ』〔青林書院、改訂版、令3〕190-191頁参照)。

 ただ、差額清算合意や差額清算実態が、固定残業代の効力を争うにあたり、何の意味もないのかというと、そういうわけでもありません。差額清算が行われていなかったことは、固定残業代に関する合意の成立を否定する根拠になることがあります。近時公刊された判例集に掲載されていた、東京地判令3.4.13労働判例ジャーナル116-52 ノミック事件も、差額清算実態が固定残業代の効力に影響を及ぼした事件の一つです。

2.ノミック事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 被告になったのは、室内装飾及び店舗の設計、施工等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、

平成25年4月1日に被告との間で労働契約を締結し、被告のD支社に配属されて就労していた原告A

平成15年3月1日に被告との間で労働契約を締結し、被告のD支社い配属されて就労していた原告B

の二名です。

 原告Aは平成30年3月31日に退職し、原告Bは平成30年4月30日に退職しました。その後、催告を経て、平成30年12月27日、割増賃金の支払を求める訴えを提起しました。

 この事件の興味深いところは、原告Aにしても、原告Bにしても、かなり長期間に渡って「固定残業手当」の支給を受けていたことです。

 原告Aは被告に入社した平成25年4月当時から、原告Bは入社後約3年を経た平成18年7月から「固定残業手当」の名目で一定額の支給を受けていました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、原告らとの間で、それぞれ固定残業手当を固定残業代として支払うことを合意したと主張するが、原告らと賃金や手当の一部を固定残業代として支払うことを合意したことについて具体的に主張しておらず、また、上記事実を認めるに足りる的確な証拠もない。」

「この点に関し、証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、原告Bには、平成18年7月分の給与から、それまで支給されていた調整手当が支払われなくなり、代わりに固定残業手当が支払われるようになったこと、原告Bは、退職するまでの間、これに異議を述べなかったことが認められる。しかしながら、証拠・・・によれば、上記変更の前後で原告Bに対する支給総額は増えており、また、被告では、従前、残業をしても割増賃金が支払われることがなかったことが認められることに照らすと、原告Bは、手取りの給与が減らず、むしろ増えていることから、支給名目が変更したとしても異議を述べることをしなかったと解することができ、原告Bが異議を述べなかったからといって、それだけでは固定残業代について合意をしたと認めることはできない。また、被告は、平成18年8月の営業会議において被告代表者が原告Bら従業員に対して、固定残業代について説明したと主張し、これに沿う証拠・・・もあるが、仮に被告主張のような事実があったとしても、被告代表者が一方的に固定残業代の導入の方針を伝えたというだけであり、それだけで原告Bら従業員が、残業をしたとしても、固定残業代を超えない限り、残業代が別途支払われることはないことについて同意をしたと認めることはできない。」

「証拠・・・によれば、原告Aについても、被告に入社して正社員になった当時から支給額の一部が固定残業手当名目で支払われていることが認められるが、原告Aについても残業時間の多寡にかかわらず割増賃金が支払われることはなかったことも考慮すると、上記事実だけでは、原告Aが被告と労働契約を締結するに当たって、支給額の一部に固定残業代が含まれていることの説明を受け、これに同意をしたと認めることはできない。

3.就業規則に周知性の欠如も説明義務の程度に影響したかも知れないが・・・

 本件では、

「被告は、平成30年4月30日時点で、中央労働基準監督署長に対し就業規則を届け出ておらず、平成31年3月18日、同監督署長から、労働基準法89条1項に従って就業規則を届け出ていないことと、労働基準法106条1項に従って就業規則を周知していないことについて、是正勧告を受けた。」

という事実が認定され、就業規則の周知性も否定されています。

 就業規則が周知されていない以上、丁寧に説明されていない労働条件が労働契約の内容に組み込むことは許容されるべきではない-そうした価値判断が影響している可能性もあることから、本件の判示を安易に一般化することはできないだろうと思います。

 それでも、差額清算実態の欠如 ⇒ 説明の欠如 ⇒ 固定残業代を労働条件に組み込むことを内容とする合意の欠如 と推認を重ね、固定残業代の効力を否定したことは、画期的な判断として注目されます。

 こうした裁判例を見ると、差額清算実態の欠如は、有効要件とまでは言えないにしても、決して軽視することはできないなと思います。

 

手続要件を満たせない場合でも、退職日までの出勤日(労働日)を有給休暇で埋められるか?

1.退職日までの出勤日(労働日)を有給休暇で埋める方法

 退職妨害が懸念される会社を辞めるにあたっては、退職の意思表示を行うと同時に、退職予定日までの出勤日(労働日)を有給休暇で埋めてしまうという方法をとることがあります。

 労働者から有給休暇の付与を請求されても、請求された時季に有給休暇を与えることが事業の正常な運営を妨げる場合、使用者には有給休暇の時季を変更することが認められています(労働基準法39条5項参照)。しかし、当該労働者の退職日を超えて時期変更権を行使することは認められていません(昭49.1.11基収5554号参照)。そのため、退職予定日までの出勤日を全て有給休暇で埋めてしまうと、事業の正常な運営を妨げることになったとしても、使用者において時季変更権を行使することができないため、労働者は請求通りに有給を取得することができます。

退職までの出勤日を有給休暇で埋める法的根拠 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 しかし、この手法は、会社が定める有給休暇の手続要件を満たせない場合でも、使うことができるのでしょうか?

 長期間に渡り有給休暇を取得するにあたっては、〇日前に申請を要するといったように、就業規則で手続的な要件が定められていることが少なくありません。退職予定日との関係で、こうした要件を遵守できない場合でも、退職日までの出勤日を全て有給休暇で埋めてしまうという手法は、認められるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり、参考になる裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令3.6.30 労働判例ジャーナル116-40 三誠産業事件です。

2.三誠産業事件

 本件で被告になったのは、アルミサッシ及び鋼製建具類の加工、取り付け、販売等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、正規雇用、定年後再雇用を経て退職した被告の元従業員です。

 本件では時間外勤務手当等ほか複数の請求が掲げられており、その中の一つに、有給休暇中の賃金が支払われていないことが挙げられます。

 平成30年9月15日、原告は、同月16日~退職予定日(同年11月16日)の出勤日に有給を取得することを通知しました。

 しかし、被告の就業規則には、

「第64条(年次有給休暇)
〔3〕社員は、年次有給休暇を取得しようとするときは、取得しようとする日の少なくとも1週間前までに、取得する日を指定して届け出なければならない。ただし会社は,事業の正常な運営に支障があるときは社員の指定した日を変更することがある。」

・・・

〔5〕第3項の規定にかかわらず、2週間以上の長期継続の年次有給休暇を申請する場合、指定する最初の休暇日より2週間前までに届け出て、その休暇取得に関し,使用者と事前の調整をしなければならない。

との規則が定められていました。

 就業規則で定められている予告期間が遵守されていないことを指摘し、被告は原告を欠勤扱いにしました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、有給休暇の取得を認めました。

(裁判所の判断)

「原告は、本件有休申請により、平成30年9月26日から退職日である同年11月16日(同日は0.5日)までの間の年休を取得した旨主張する。」

「この点、労働者の年休の権利は、労基法39条1、2項の要件の充足により、法律上当然に労働者に生じるものであり、労働者がその有する年休の日数の範囲内で始期と終期を特定して休暇の時季指定をしたときは、客観的に同条5項ただし書所定の事由が存在し、かつ、これを理由として使用者が適法な時季変更権を行使しない限り、上記指定によって、年休が成立して当該労働日における就労義務が消滅するものと解するのが相当である(最高裁判所昭和41年(オ)第848号同48年3月2日第二小法廷判決・民集27巻2号191頁、同昭和41年(オ)第1420号同48年3月2日第二小法廷判決・民集27巻2号210頁参照)。」

「前記前提事実によれば、原告は、本件有休申請をした平成30年9月25日の時点で、37.5日分の年休を有していたところ、同日、本件有休申請によって、その有する年休の日数の範囲内で、始期を同月26日、終期を同年11月15日と特定して休暇の時季指定をしたものと認められる。」

被告は、原告による本件有休申請は、2週間以上の長期かつ連続した年休の申請であるところ、そのような年休を取得する場合には、被告の就業規則中の規定によれば、『指定する最初の休暇日より2週間前までに届出て、その休暇取得に関し使用者と事前の調整をしなければならない』にもかかわらず、原告は、当該手続を経ていないから、年休の取得は認められない旨主張する。

しかし、被告の上記規定は、被告に時季変更権を行使するか否かを検討するために要する期間を確保するために設けられた規定であると解されるところ、本件においては、前記認定事実のとおり、原告の担当業務は、平成30年9月21日以降、C及びDに割り振られ、両人によって処理されていることが認められ、原告が本件有休申請により年休の時季指定をしたことによって、被告の事業の正常な運営が妨げられたとの事実は認められない。また、被告が、原告による年休の時季指定に対して、時季変更権を行使した事実は認められない。そうすると、本件では、原告の時季指定によって、年休が成立したものと認めるのが相当であり、被告の主張は採用することができない。

(中略)

「以上によれば、本件においては、使用者である被告が適法な時季変更権を行使したとは認められないから、原告は、平成30年9月26日から同年11月15日までの37日間につき、年休を取得し、当該期間内の所定労働日については、就労義務はなかったものと認められる。」

3.必ずしも手続要件を遵守する必要はない

 上述のとおり、裁判所は、手続要件が遵守されない場合であっても、有給休暇が有効に取得されたことを認めました。

 有給休暇に事前申請のルールが採用されている会社に退職の意思表示をして手続要件の欠如を指摘された場合、労働者側としては、本件のような裁判例を活用して対抗して行くことが考えられます。

 

定年後再雇用に伴う労働条件の不利益変更と自由な意思の法理

1.自由な意思の法理

 労働者及び使用者は、自主的な交渉のもと、合意(同意)により労働契約の内容を変更することができます(労働契約法1条、同法3条1項等参照)。

 しかし、

就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である

と理解されています(最二小判平28.2.19労働判例1136-6山梨県民信用組合事件)。

 つまり、賃金や退職金を減額することを内容とする合意は、外形的に合意してしまった事実があるとしても「自由な意思に基づいてなされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在」しないという理屈で、その効力を否定できることがあります(以下「自由な意思の法理」といいます)。

2.定年後再雇用に伴う労働条件の不利益変更との関係

 高年齢者雇用安定法9条は、高年齢者の安定した雇用を確保するため、事業主に対し、①定年の引き上げ、②継続雇用制度の導入、③定年の定めの廃止のいずれかの措置をとることを義務付けています。この法律の定めに従い、多くの事業主は65歳までの継続雇用制度を導入しています。

 継続雇用制度に基づいて定年後再雇用される場合、賃金等の労働条件は、定年前との比較において、大幅に引き下げられるのが通例です。

 これが許容されているのは、定年後再雇用契約が、新たな労働契約の締結だと理解されているからだと思われます。

 しかし、定年後再雇用契約は、従前の労働条件を変更しているという側面も有しています。特に、再雇用の前後で、職務の内容に顕著な差がない場合は、猶更です。

 それでは、この定年後再雇用契約による労働条件の切り下げに対し、山梨県民信用組合事件で最高裁が示している自由な意思の法理を適用して、一定の歯止めをかけて行くことはできないのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令3.6.30 労働判例ジャーナル116-40 三誠産業事件です。

2.三誠産業事件

 本件で被告になったのは、アルミサッシ及び鋼製建具類の加工、取り付け、販売等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、正規雇用、定年後再雇用を経て退職した被告の元従業員です。

 本件では複数の請求が掲げられていましたが、その中の一つに未払時間外勤務手当等(いわゆる残業代)の請求がありました。

 原告の定年前の賃金構成は、

基本給35万円、

役付手当3万円、

物価手当3万4000円、

住宅手当1万円、

家族手当6000円

の合計43万円でした。

 これが定年後再雇用契約により、

基本給27万1000円、

定額時間外手当12万9000円、

役付手当3万円

の合計43万円になりました。

 額面は同じく43万円ですが、手当が固定残業代(定額時間外手当)に編入されいる点で、定年後再雇用契約の労働条件は、従前の労働契約における残業代の発生要件を不利に変更するものでした(定額時間外手当相当額が割増賃金計算の基礎に入らない・定額時間外手当相当額を超えるまで残業代の支払いを求めることができない)。

 これを自由な意思に基づいてなされていないことから無効であるなどと主張し、原告は定額時間外手当相当額の支払いが割増賃金の弁済にあたることを争いました。

 この論点について、裁判所は、次のとおり述べて、原告の主張を排斥しました。

(裁判所の判断)

「被告は、本件再雇用契約における月12万9000円の定額時間外手当は、割増賃金として原告に支払ったものである旨主張するところ、労働者に支払われる基本給や諸手当(以下『基本給等』という。)にあらかじめ割増賃金を含めて支払う方法は直ちに労基法37条に反するものではないが、他方で、使用者が労働者に対して同条の定める割増賃金を支払ったとすることができるか否かを判断するためには、割増賃金として支払われた金額が、通常の労働時間の賃金に相当する部分の金額を基礎として、同条等に定められた方法により算定した割増賃金の額を下回らないか否かを検討することになるところ、その前提として、労働契約における賃金の定めにつき、通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の定める割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である(最高裁判所平成28年(受)第222号同29年7月7日第二小法廷判決・裁判集民事256号31頁等参照)。」

「前記前提事実及び認定事実によれば、本件再雇用契約の労働契約書には、定額時間外手当について、基本給とは別に、月60時間分の時間外労働手当相当分として月12万9000円を定額支給する旨記載されており、また、被告代表者は、本件再雇用契約を締結する際に、原告に対し、同契約の労働契約書に記載されたとおりの条件を提案し、原告は、上記記載のある労働契約書を一度持ち帰って検討した上で、同契約書に署名捺印し、本件再雇用契約を締結したことが認められる。以上の本件再雇用契約の労働契約書の記載内容及び同契約の締結に至る経緯に加えて、原告の毎月の給与明細書にも、定額時間外手当として12万9000円が計上されていることに照らせば、原告に支払われていた定額時間外手当は、通常の労働時間の賃金ではなく、労基法37条の定める割増賃金として支払われた手当であると認められ、本件再雇用契約における賃金の定めにつき、通常の労働時間の賃金に当たる部分と割増賃金に当たる部分とを判別することができるといえる。」

「したがって、被告による定額時間外手当の支払は、割増賃金として支払われたものと認められる。」

原告は、定年前後で原告の業務内容等に変更はないから、本件再雇用契約の締結は、新たな雇用契約の締結ではなく、その実質は労働条件の変更であり、定額時間外手当について原告の自由な意思に基づく同意はないから、同手当に基づく合意は無効である旨主張する。

しかし、被告の就業規則第28条によれば、被告では、社員の定年は60歳であり、定年で退職扱いとなるが、社員が再雇用を希望する場合には再雇用される旨記載されており、原告も、平成28年○○月○日で定年となったところ、再雇用を希望したことから、被告との間で、新たに期間の定めのある本件再雇用契約を締結したのであって、原告の業務内容等に変更がないからといって、本件再雇用契約が新たな雇用契約の締結ではないとはいえない。また、前記・・・の本件再雇用契約の労働契約書の記載内容及び同契約の締結に至る経緯に照らせば、原告は、定額時間外手当は割増賃金として支払われる手当であることを理解できたといえるし、その理解を前提に本件再雇用契約の内容について十分に検討した上で同契約を締結したといえるから、定額時間外手当につき、自由な意思に基づいて合意したものと認められる。なお、原告は、被告代表者は、本件再雇用契約の締結の際に、原告に対し、振り込まれる給与総額は定年前と変わらない旨説明したことを捉えて、原告に誤解を与える説明である旨主張するが、上記労働契約書の記載内容等に照らせば、上記のとおり、原告は、定額時間外手当は割増賃金として支払われる手当であることを理解できたといえるから、原告が指摘する説明内容をもって、原告による自由な意思に基づく合意がないとは認められない。

「また、原告は、定額時間外手当は、再雇用前の基本給の一部、物価手当、住宅手当及び家族手当を名目だけ変更したものであるから、割増賃金の性質を有していない旨主張する。」

「しかし、前記認定事実のとおり、被告代表者は、被告が把握する残業の実態を考慮して月60時間の時間外労働に相当する割増賃金を定額時間外手当として支払うこととし、その旨労働契約書にも明記していることからすれば、定額時間外手当は単に再雇用前の手当等の名目を変更したものとは認められないから、原告の主張は採用することができない。」

4.結論として原告の主張は否定されたが、「自由な意思」が認定されている

 裁判所は、結論として、定額時間外手当の固定残業代としての効力を認めました。

 しかし、その理由として「自由な意思に基づく合意」が認められることを指摘しています。

 もし、定年後再雇用契約が純粋な新契約の締結であり、自由な意思の法理の適用の枠外に置かれるのだとすれば、論理的に「自由な意思に基づく合意」を認定する必要はないはずです。

 本件が業務内容に変更がないという特殊性がある事案であることは考慮に入れておく必要がありますが(「原告の業務内容等に変更がないからといって」参照)、定年後再雇用に伴う労働条件の切り下げに対し、自由な意思の法理を適用する可能性を示唆する点において、本件は画期的な判断を示した裁判例であるように思われます。

 

管理監督者にふさわしい待遇-月4万円の手当では不十分

1.管理監督者性

 管理監督者には、労働基準法上の労働時間規制が適用されません(労働基準法41条2号)。俗に、管理職に残業代が支払われないいといわれるのは、このためです。

 残業代が支払われるのか/支払われないのかの分水嶺になることから、管理監督者への該当性は、しばしば裁判で熾烈に争われます。

 管理監督者とは、

「労働条件その他労務管理について経営者と一体的な立場にある者」

という意味であると理解されています。そして、裁判例の多くは、①事業主の経営上の決定に参画し、労務管理上の決定権限を有していること(経営者との一体性)、②自己の労働時間についての裁量を有していること(労働時間の裁量)、③管理監督者にふさわしい賃金等の待遇を得ていること(賃金等の待遇)といった要素をもとに管理監督者性を判断しています(佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅰ」〔青林書院、改訂版、令3〕249-250参照)。

 この三番目の要素「賃金等の待遇」について、一般の従業員には付与していない手当を支給することで対応している企業は少なくありません。しかし、その中には極少額の手当を支給することでお茶を濁しているだけではないかと疑われる例も散見されます。

 それでは、手当によって管理監督者にふさわしい待遇が基礎づけられるためには、どの程度の金額が必要になってくるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令3.6.30 労働判例ジャーナル116-40 三誠産業事件です。

2.三誠産業事件

 本件で被告になったのは、アルミサッシ及び鋼製建具類の加工、取り付け、販売等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、正規雇用、定年後再雇用を経て退職した被告の元従業員です。

 本件では複数の請求が掲げられていましたが、その中の一つに未払時間外勤務手当等(いわゆる残業代)の請求がありました。ここでは定年後再雇用前の原告の地位が、管理監督者に該当するのかが問題になりました。

 この論点について、裁判所は、次のとおり述べて、原告の管理監督者性を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、定年後再雇用前における原告は、管理監督者に該当する旨主張する。この点、労基法41条2号の管理監督者が、労働時間等について労基法の定める規制の適用を除外されているのは、管理監督者は、労務管理について経営者と一体的な立場にある者として、経営者に代わって他の労働者の労働時間等を決定し、他の労働者の労務を管理監督する権限と責任を有しているところ、その職責を果たすためには、労働時間等に関する規制の枠にとらわれずに活動せざるを得ないからであると解される。そうすると、管理監督者に該当するといえるためには、当該労働者の職務内容、権限及び責任が、労働時間等に関する規制の枠を越えて労働することが要請されるほどのものであると認められることが必要であり、これを裏付ける事情として、勤務態様や賃金等の待遇についても、当該労働者の職責に見合うものであることが必要であるといえる。」

「前記認定事実のとおり、原告は、平成21年7月頃から定年時まで、ビル建材部施工管理課の課長であり、平成28年頃、同課にはC及びDが在籍していたが、原告は、C及びDの担当業務を決定する権限は有しておらず、同人らの人事評価を行ったこともなかったこと、少なくともCに関しては、原告が退職する少し前までは、年休や振替休日に関する届出を被告代表者に提出していたことから、原告は、同人の休暇について把握していなかったこと、原告の業務内容の大半は、C及びDの業務内容と同様の施工管理業務であったこと、原告は、被告従業員の採用について、被告代表者から履歴書を見せられ意見を求められた程度のことはあったものの、それ以外に採用について関与したことはなかったことが認められる。これらの事情に照らせば、原告は、部下従業員の採用、人事考課、勤務割等に関して何らの権限も有しておらず、経営者に代わって他の労働者の労働時間等を決定し、他の労働者の労務を管理監督する権限と責任を有しているとは認められない。また、原告は、他の従業員と同様にタイムカードによって出退勤が管理されていたところ、証拠・・・によれば、所定始業時刻に数分遅れた場合にはその都度遅刻の届書を被告に提出していることが認められる上、前記認定事実のとおり、残業許可申請書を提出せずにタイムカードに21時以降打刻した場合には、その都度「残業未承認」というゴム印を押されていたことが認められることからすれば、原告は、その勤務態様について自由な裁量を有していたとまでは認められない。さらに、原告は、毎月4万円の役付手当の支給を受けていたが、同手当は、再雇用された後も毎月支給されており、同手当等の支給により、厳格な労働時間等の規制をしなくてもその保護に欠けることはないといえる程度の待遇を受けていると評価することは困難である。

「したがって、原告は、労基法41条2号の管理監督者に該当するとは認められない。」

3.月4万円程度の手当では管理監督者性を基礎付けるに足りないとされた例

 管理監督者にふさわしい待遇か否かは、賃金・手当等の絶対的な金額量と、その業界・企業における一般的な賃金水準との比較という相対的な観点を組み合わせて判断しているように思われます。

 こうした状況のもと、裁判所は、僅か4万円にしか過ぎない手当では、管理監督者性を基礎付けるには十分ではないと判断しました。

 この程度の規模感の手当で管理監督者性を基礎付けようとする会社は、個人的な実務経験に照らしても複数回見たことがあります。今回、4万円を明確にダメだと言ったことは、比較的汎用性の高い判断になるのではないかとも思われます。