弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

労災に被災したら、自宅療養せず速やかに病院へ

1.精神障害と労災

 業務に起因して精神障害に罹患した場合、被災者は労働者災害補償保険法に基づいて療養補償給付、休業補償給付などの各種保険給付を受給することができます。

 近時公刊された判例集に、この保険給付との関係で、実務的に注意しておかなければならない裁判例が掲載されていました。東京地判令5.3.15労働経済判例速報2533-30 渋谷労基署長事件です。この裁判例で注目されるのは、医療サービスを利用せず自宅休養していた期間について、休業補償給付の対象とすることが否定されている点です。

2.渋谷労基署長事件

 本件で原告になったのは、株式会社A(本件会社)の型枠解体工としてマンションの新築工事(本件工事)に従事していた方です。元請会社の現場所長から人格を否定する嫌がらせやいじめを受け、適応障害を発症し、休業を余儀なくされたとして、渋谷労働基準監督署長(処分行政庁)に対して、労働者災害補償保険法に基づく休業補償給付を請求しました。

 処分行政庁は休業補償給付を支給すること自体は認めましたが、休業を開始した平成30年11月30日からメンタルクリニック(本件病院)を受信した前日である平成31年1月21日までの間(本件期間)の休業補償給付は不支給とされました。

 これに対し、国を相手取って、本件期間に係る休業補償給付を不支給とした判断の取消を求める訴えを提起したのが本件です。

 裁判所は、次のとおり述べて、原告の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「労基法76条1項は、休業補償について、『労働者が前条の規定による療養のため、労働することができないために賃金を受けない場合』において、使用者に『労働者の療養中』の期間に対する一定額の休業補償を義務付けている。」

「そして、同項にいう『前条の規定による療養』は、同法75条を根拠とする療養を意味するところ、同条1項は、労働者が業務上負傷し、又は疾病にかかった場合において、使用者に対し、自己の費用で必要な『療養』を提供し、又は『療養』に必要な費用を労働者に支払うことを義務付けている。当該規定は、傷病による身体機能の喪失からの回復のために、医療サービス(治療行為等)を利用する必要があることを前提として、使用者に対して費用の負担を義務付けたものと解され、この点で、『療養』との文言は、医療サービスの利用を前提とするものと解するのが自然であり、同条2項による委任を受けた労基則36条・・・は、対象となる医療サービスの種類を列記したものと解される。」

「翻って、労基法76条1項は、『前条の規定による療養のため』と規定し、同法75条を直接引用しており、休業補償の要件として、業務上の傷病と就労不能との因果関係ではなく、『前条の規定による療養』、すなわち傷病に係る必要な『療養』と就労不能との因果関係を要求している。当該文言に照らせば、前者の因果関係が認められる場合であっても、『療養』が存在しない場合には、休業補償の要件を満たさないものと解されることとなる。

「以上の労基法75条及び76条の文言及び構造に照らせば、同条1項の『前条の規定による療養』は、同法75条で使用者に費用負担が義務付けられた『療養』と同義であり、いずれも医療サービスの利用を前提とするものと解するのが自然である。これを前提とすると、業務上の傷病の発症後に労働者が医療サービスを利用せず、自宅等で休養した期間については、当該休養は、労基法76条1項の『療養』に該当せず、当該期間は、同項の『療養中』には該当しないものと解される。

「以上のような解釈は、前記・・・のとおり、労基法上の災害補償責任が、危険責任の法理に基づく無過失責任であることに照らしても合理的である。すなわち、前記アで述べたところによれば、労基法75条の療養補償は、必要な医療サービスの提供により労働者の身体機能の回復を図るものであり、休業補償(労基法76条1項)の観点からは、その対象となる『療養中』の期間は、一般的に、医療サービスの提供により短縮される関係にある。一方で、医療サービスの利用の有無は、基本的に労働者(被災者)の判断に委ねられるものであり、その開始の遅れについて、使用従属関係の下で業務に従事させる過程において、当該業務に内在する危険が現実化したものとは評価し難いところである。」

「また、労基法上の災害補償責任は、療養補償(75条)を除き、いずれも補償額を定率化するものであるところ、休業補償の対象となる期間の始期については、医療サービスの提供を基準とすることにより一義的・客観的な特定・認定を可能となるものと考えられ、この点は上記の定率化と軌を一にするものというべきである。」

「以上の事情を考慮すれば、労働者にとって医療サービスを利用する機会自体が客観的に見て限定されており、その開始の遅れが労働者の判断によるものといえないなどの特段の事情がある場合を除き、業務上の傷病の発症後に労働者が医療サービスを利用せず、自宅等で休養した期間については、当該休養は労基法76条1項の『療養』に該当せず、当該期間は同項の『療養中』に該当しないものと解するのが相当である。

「そして、労災保険法13条2項各号は、療養補償給付(同条1項)の範囲について規定するところ、その内容は労基則36条と同一である。また、労災保険法14条1項は、休業補償給付の対象となる期間の始期に関して、『労働者が業務上の負傷又は疾病による療養のため労働することができないために賃金を受けない日の第4日目』と規定している。」

「同条は、労基法76条1項と異なり、労災保険法13条1項の規定を直接引用していないものの、前記・・・で述べたところに照らせば、労災保険法13条及び14条1項に規定する『療養』は、前記・・・で述べた労基法75条及び76条1項に規定する『療養』と同義であり、いずれも医療サービスの利用を前提とするものと解するのが相当である。」

したがって、被災者が医療サービスを利用することなく自宅等で休養した期間については、前記特段の事情がある場合を除き、休業補償給付の対象とならないものと解するのが相当である。

「本件について検討すると、本件各証拠をみても、本件疾病の発症(平成30年11月頃)から初診日の前日(平成31年1月21日)までの本件期間中に、原告が本件疾病につき医療サービスを利用したとは認められない。」

「また、本件病院を上記初診日に受診した経緯について、D医師の意見書・・・に『当初は抑うつから引きこもっていたが、周囲から励まされ、勧められて受診を決意した』と記載されていることに照らし、本件疾病の症状が重かったとしても、原告は自らの意思により受診していなかったものであり、治療の機会自体が客観的にみて限定されていたなどの特段の事情は認められない。」

「したがって、原告が本件期間において、労災保険法12条の8第2項、労基法76条1項の『療養』をしていたとは認められない。

(中略)

「以上によれば、本件期間において休業補償給付の支給事由があったとは認められない。」

「したがって、本件期間について休業補償給付を不支給とした本件処分に誤りはない。」

3.労災に被災したら、自宅療養せず速やかな病院へ

 以上のとおり、裁判所は、自宅療養中の期間は休業補償給付の対象にならないと判示しました。

 精神障害は、物理的な傷病とは異なり、目で見ただけでは分かりにくい疾病です。また、往々にして通院しようとする気力を奪い取ってしまいます。

 しかし、精神障害に罹患したかも知れないなと思ったと場合には、気力を振り絞ってでも速やかに医療機関を受診することが必要です。なぜなら、本裁判例が示しているとおり、休業開始から医療機関に行き始めるまでの間は、休業補償給付を受給できない可能性があるからです。