弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

定期昇給に関する労使慣行の成立が認められた例

1.労使慣行の主張

 長年に渡って維持されてきた労働者にとって好ましい事実状態が使用者から変更されそうになったとき、労使慣行が成立しているという反論を提示することがあります。

 これは、

「法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。」

と規定する民法92条を根拠にする主張です。一定の場合、慣習にも法的な拘束力が認められるため、慣行の成立は使用者の権限を拘束する根拠になります。

 しかし、労使慣行の成立を裁判所に認めてもらうことは、決して容易ではありません。法的な効力を獲得するに至るための要件が厳しいからです。例えば、大阪高判平5.6.25労働判例679-32 商大八戸ノ里ドライビングスクール事件は、労使慣行の成立要件について、

「民法九二条により法的効力のある労使慣行が成立していると認められるためには、同種の行為又は事実が一定の範囲において長期間反復継続して行なわれていたこと労使双方が明示的にこれによることを排除・排斥していないことのほか、当該慣行が労使双方の規範意識によって支えられていることを要し、使用者側においては、当該労働条件についてその内容を決定しうる権限を有している者か、又はその取扱いについて一定の裁量権を有する者が規範意識を有していたことを要するものと解される。そして、その労使慣行が右の要件を充たし、事実たる慣習として法的効力が認められるか否かは、その慣行が形成されてきた経緯と見直しの経緯を踏まえ、当該労使慣行の性質・内容、合理性、労働協約や就業規則等との関係(当該慣行がこれらの規定に反するものか、それらを補充するものか)、当該慣行の反復継続性の程度(継続期間、時間的間隔、範囲、人数、回数・頻度)、定着の度合い、労使双方の労働協約や就業規則との関係についての意識、その間の対応等諸般の事情を総合的に考慮して決定すべきものであり、この理は、右の慣行か労使のどちらに有利であるか不利であるかを問わないものと解する。それゆえ、労働協約、就業規則等に矛盾抵触し、これによって定められた 項を改廃するのと同じ結果をもたらす労使慣行が事実たる慣習として成立するためには、その慣行が相当長期間、相当多数回にわたり広く反復継続し、かつ、右履行についての使用者の規範意識が明確であることが要求されるものといわなければならない。」

と判示しています。

 要するに、一定の事実状態が長期間続いているだけでは足りず、労使双方、特に、使用者側で規範意識を有していることが必要だと理解されています。

 しかし、規範意識のような主観的な事情の立証は、通常、困難を極めます。そのため、労使慣行の成立に関する主張は、排斥されることが少なくありません。

 こうした状況のもと、近時公刊された判例集に、労使慣行の成立が認められた裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令3.3.19労働判例ジャーナル113-60 学校法人明泉学園事件です。

2.学校法人明泉学園事件

 本件で被告になったのは、高等学校等を設置運営する学校法人です。

 原告になったのは、被告に採用され、国語科教員として勤務してきた方です。被告から雇止めにされたことを受け、その効力を争い、地位確認等を求める訴えを提起しました。

 本件では、雇止めの効力のほか、原告の賃金額をどう認定するのかも争点になりました。原告の主張は、大意、

平成10年度までには、特別の事情がない限り、全職員が毎年少なくとも1号俸ずつ提起昇給する労使慣行が成立していた、

ゆえに、被告が行った平成11年度以降の一方的な定期昇給の停止は無効である、

よって、定期昇給を前提とした賃金を支払え、

というものでした。

 被告は労使慣行の成立を争いましたが、裁判所は、次のとおり述べて、労使慣行の成立を認めました。

(裁判所の判断)

「鶴川高校では、昭和54年度から平成10年度までの間、参与に就任した者、退職後に再雇用された者、55歳又は58際に達した者及び病気や産休等により長期間欠勤し又は休職した者を除き、常勤講師を含む全職員が毎年度少なくとも1号俸ずつ定期昇給をしていた。また、前記・・・のとおり、被告は、平成3年度の就業規則46条1項で『教職員が、1年を下らない期間を良好な成績で勤務したときは、基本給を1号上位の号数に昇給させることができる。ただし、満58歳以上の教職員については、この規定を適用しない。』と規定した上で、就業規則に定める『職員が1年間良好な成績で勤務したとき』とは、昇給日現在において引き続く30日を超える欠勤中の状態でないこと、昇給日前1年間に減給以上の制裁を受けた者でないこと、昇給日前1年間の欠勤について勤勉度失点を計算した結果、失点の合計が60を超えないこと及び学長等により昇給不適の判定を受けた者でないことの各要件を全て満足する場合を指すものとして運用すると記載した本件運用基準を作成していた。そして、被告は、平成10年度までの間、本件運用基準記載の上記各要件を全て充足する限りは常勤講師を含む全職員の定期昇給を実施していたばかりでなく、被告理事長は、平成9年12月10日の団体交渉の際、本件組合に対し、平成10年度は定期昇給を認める旨回答した。

このような各事情を考慮すれば、鶴川高校においては、遅くとも平成10年度までに、常勤講師を含む全職員について、勤務形態の変更、就業規則所定の昇給停止年齢への到達、病気等による長期欠勤その他の特別の事情がない限り、毎年度少なくとも1号俸ずつ定期昇給させることが事実として慣行になっていたことが認められ、被告の代表者理事長を含む労使双方が、同慣行を規範として意識し、これに従ってきたとみることができる。そうすると、同慣行は、遅くとも同年度の時点で、法的拘束力を有する労使慣行になっていたものというべきである。

「以上に対し、被告は、基本給の定期昇給につき労使ともに規範として認識して従ってきたことはないし、また、基本給の定期昇給は法的拘束力のある労使慣行ではないと主張するが、上記認定・説示に照らし採用しない。」

3.使用者側の規範意識の立証-運用基準への自己拘束

 上述のとおり、労使慣行の成立を立証するうえで一番の難所になるのは、使用者側の規範意識の立証です。本件では、使用者側に規範意識があったことの根拠として、自ら定めた運用基準に基づいて定期昇給を実施していたことが指摘されました。

 本件は規範意識の立証方法の一例を示すものとして、他の事案の処理にも参考になるように思われます。