弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

精神障害の「発病」か「悪化」か

1.精神障害の労災補償-元々発病していた人の取り扱い

 精神障害の労災補償の可否を考えるにあたっては、新たにに精神障害を発病したのか、元々精神障害を発病していたのかが重要な意味を持ちます。

 それは、元々精神障害を発病していた場合、基本的に労災補償の対象外に置かれるからです。そのことは、精神障害の労災認定の基準を記した、平成23年12月26日 基発1226号第1号『心理的負荷による精神障害の認定基準について』(最終改正:令和2年8月21日 基発0821第4号)に、

「業務以外の原因や業務による弱い(『強』と評価できない)心理的負荷により発病して治療が必要な状態にある精神障害が悪化した場合、悪化の前に強い心理的負荷となる業務による出来事が認められることをもって直ちにそれが当該悪化の原因であるとまで判断することはできず、原則としてその悪化について業務起因性は認められない。」

と書かれているとおりです。

https://www.mhlw.go.jp/content/000661301.pdf

2.既往歴がない・曖昧で発病時期を評価しにくい場合

 精神障害を新たに「発病」した事案なのか、精神障害が「悪化」した事案なのかは、既往歴がある場合には、比較的容易に仕分けることができます。典型的なのは、精神障害で働けなるよりも大分以前に対象疾患の診断を受けていた場合です。こうした場合、事件は「悪化」事案に割り振られます。原則として業務起因性はないものと扱われ、例外的に業務起因性を認めるべき事情がないかを検討して行くことになります。

 しかし、既往歴がない場合や、既往歴があっても対象疾患を発病した時期を医療記録から明確に読み取れない場合、働き始めてから「発病」したのか、それとも、元々有していた疾患が働き始めた後に「悪化」したのかの区別に難渋することがあります。特に、被災者が死亡している場合、資料が限定されることもあり、発病時期の認定には相当な困難が伴います。

 そのため、自殺に係る事案では、主治医の意見に加え、地方労災医員協議会精神障害等専門部会の合議を経て慎重に認定要件の具備が判断されます。しかし、この専門部会が出した認定要件を満たしていないとの判断に対し、疑義を覚える方は少なくありません。そうした方が、労災の不支給処分を争っていくためには、専門部会の判断を覆せるだけの材料を集め、不服申立をしていくことになります。

 それでは、精神障害の発病時期をめぐる専門部会の判断を覆そうと思った場合、どのようなところが切り口になってくるのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。福岡地判令3.3.12労働判例ジャーナル111-16 国・福岡中央労基署長事件です。

3.国・福岡中央労基署長事件

 本件は、自殺者の遺族が提起した労災の不支給処分に対する取消訴訟です。

 本件で自殺したのは、亡P4です。 

 亡P4は平成21年4月1日に新日本グラウト工業株式会社(本件会社)に就職しましたが、平成23年3月22日、自動車内で練炭自殺を図り、一酸化炭素中毒により死亡しました。

 親である原告は、亡P4の自殺が、長時間労働及び上司からの度重なる叱責や暴言等の業務上の心理的負荷によるものであると主張して、平成26年9月17日に処分行政庁に遺族補償年金の支給を求めました。しかし、処分行政庁は、平成27年3月27日付けで、亡P4に発病(悪化)した精神障害については、業務起因性が認められないとして、遺族補償年金を不支給とする処分(本件処分)をしました。

 その後、原告は、審査請求、再審査請求に及びましたが、いずれも棄却されたため、本件処分の取消訴訟を提起したという経過が辿られました。

 本件では、亡P4の精神障害(うつ病エピソード)の発症時期が争点の一つになりました。原告は、P13医師の医学的意見書に基づいて、亡P4の自殺直前の平成23年3月20日であると主張しました。これに対し、被告は、専門部会の判断、P14医師の医学意見書、P15医師の医学意見書に基づいて、本件会社に入社する以前である医療法人ゆう心と体のクリニック(ゆうクリニック)の初診時点・平成21年2月16日であると主張しました。

 このように複数の医学的知見の対立がある中、裁判所は、

平成21年2月16日から平成22年4月29日頃まで

平成22年4月30日から平成23年2月頃まで

平成23年3月3日時点

平成23年3月19日以降、

の各時期毎に、うつ病エピソードの主要症状が認められるか否かを検討してゆきました。そして、前三者の時点でのうつ病エピソードの発症を否定したうえ、発症時期を平成23年3月19日ないし20日ころであると認定し、本件を悪化事案ではなく発病(発症)事案であると位置付けました。

(裁判所の判断)

「亡P4は、平成23年3月19日には、落ち込んでいる様子で、普段と異なり自室で夕食を食べていること、同月20日には、友人であるP12からの遊びの誘いを体調不良を理由に断っていること、その前数日間は口数が少なくなっていたことからすると、同月20日の時点では、うつ病エピソードの基本症状である『〔1〕抑うつ気分』、『〔2〕興味と喜びの喪失』、及び『〔3〕活動性の減退による易疲労感の増大や活動性の減少』の全ての症状を認めることができる。また基本3症状以外の他の症状としても、同月21日に亡P4は、P7や元交際相手に自分がそんなに腹黒いか、笑顔が嘘くさいかなどと尋ねており、『b自己評価と自信の低下』が認められ、P7へのメールの中には『どんな顔して外歩いたらいいのかなってよくわかんなくなりました』という記載もあることからすると、『d将来に対する希望のない悲観的な見方』も認められる。加えて、元交際相手宛のメールには、『27にもなってこんなことで悩むこと自体、情けないですか?極論どうでもいいですよね。いつも迷惑かけてすいません。』といった内容の記載があることから、『c罪責感と無価値感』を認めることができ、同月22日に自殺していることからすると、『e自傷あるいは自殺の観念や行為』も認めることができる。そうすると、平成23年3月19日又は20日頃には、うつ病エピソードの基本3症状の全て、基本症状以外の他の症状の少なくとも4つを認め得ることから、少なくとも『中等症うつ病エピソード』の診断基準を満たしている。そして、P7や元交際相手へのメールをみると、亡P4の落ち込みの程度は大きく、『〔1〕抑うつ気分』は重症であったことがうかがえるし、結果的に自殺に至っていることからすると、『e自傷あるいは自殺の観念や行為』も重症であったといえるから『重症うつ病エピソード』の診断基準も満たすというべきである。」

「なお、亡P4は同月19日時点まで長時間労働に従事していたこと、P6も同日時点では普段と変わらない様子であったと感じたと証言していること、同月5日や同月19日に亡P4がゆうクリニックに通院した際にそれまでと異なる訴えをしていたという事情も見当たらないことなどからすると、診断基準における2週間の持続要件を満たすとはいえないものの、亡P4は、同月19日夜になって前記各症状が突発的に出現し、急激に重症うつ病エピソードを発症したとみられることからすると、持続要件を満たす必要はないというべきである・・・。」

「以上によれば、亡P4は、平成23年3月19日ないし同月20日頃には、重症うつ病エピソードを発症したことが認められる。このことは、P14医師が、亡P4は平成23年3月19日頃にうつ病が悪化して、精神病性うつ病になったと指摘していることとも整合する。」

この点、被告は、亡P4のうつ病ないし気分変調症は平成21年2月16日にゆうクリニックを受診した時点で発症していたのであって、平成23年3月19日頃にこれを悪化させたものであるとし、これに沿う専門部会の意見・・・、P14医師の意見書・・・及びP16(おそらくP15の誤記 以下同じ 括弧内筆者)医師の意見書・・・がある。

「しかし、専門部会の意見は、『全体の経過から判断すれば』と記載するのみであり、なぜ平成21年2月16日時点でうつ病を発症していたと判断したのか判然とせず、ICD-10の診断基準を満たすか否かについても何ら言及がなされていないから、採用することができない。

「また、P14医師の意見書は、平成21年2月16日時点で、抑うつ気分はあったものの、不安が前景に出ていたために、それが覆い隠されていたものであるから、同日時点でICD-10のうつ病の診断基準は満たし得るとしているところ、確かにP10医師は平成22年4月30日段階では抑うつ状態であったと診断しているものの、それ以前から抑うつ気分があったことを具体的にうかがわせる事情は証拠上見当たらない。この点、P14医師は、亡P4の学生時代からの不眠に関連し、筑紫丘高校の退学や小田急建設の退職については理解し難い行動であるが、うつ病の病態の中の行動と考えると理解しやすい旨の意見を述べるものの、自身の考えと合わないとして高校を退学することや転職をすること自体は一般的にあり得るものであって、必ずしもうつ病の病態でなければ説明が付かない行動といえるほど理解し難いものとは認められないし、筑紫丘高校退学後は自ら編入する高校を受験して入学し、小田急建設退職後もアルバイトに従事するなどしており、活動性が減少していたことや抑うつ気分をうかがわせる事情は見当たらない。したがって、P14医師の意見は採用できない。

さらに、P16医師の意見書は、亡P4は平成21年2月16日時点で気分変調症を発症していたとする。しかし、同意見書によれば気分変調症は長期にわたる抑うつ気分をその特徴とするところ、前記のとおり同日時点で亡P4が抑うつ気分を呈していたことをうかがわせる証拠は見当たらない。したがって、P16医師の意見も採用することができない。

「以上からすると、被告が依拠する各医師の意見は採用することができず、被告の主張は採用できない。」

4.「全体の経過から判断」というマジックワード・根拠となる事実の欠缺

 専門部会の判断は「全体の経過から判断」という検証可能のないマジックワードが使われていたことから、その信用性を否定されました。

 P14医師の医学的意見書、P15医師(P16医師)の医学的意見書は、診断の根拠となるべき出来事・エピソードの欠缺・不足が根拠となって、その信用性が否定されました。

 労災の取消訴訟に限った話ではなく、医師の意見書の信用性を否定しなければならない場面には、実務上しばしば直面します。しかし、弁護士は法専門家であり、医学的な専門性を有しているわけではありません。そのため、医師の意見書の信用性を否定することは、弁護士にとっても決して容易ではありません。

 本件の裁判例は、専門部会の意見、P14医師の医学的意見書、P15医師の医学的意見書という三つの専門的知見を排斥している点に特徴があります。それぞれの専門的知見の排斥のされ方は、医学的知見の当否を争わなければならない事件に取り組むにあたり、記憶しておく価値があるように思われます。