弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

残業規制はここまでなら働かせても問題ないという基準ではない(医師の残業時間規制)

1.医師の残業時間規制

  ネット上に

「医師の働き方 識者に聞く 岡留健一郎さん 中原のり子さん」

という記事が掲載されていました。

 厚生労働省の検討会で、一部勤務医等の残業時間の上限が1860時間とされたことについて、医師や夫を過労自殺で亡くした方の受け止め方が記載されています。

https://www.nishinippon.co.jp/nnp/medical_news/article/507998/

2.厚生労働省「医師の働き方改革に関する検討会 報告書」

 記事が言うところの「検討会」というのは、厚生労働省の「医師の働き方改革に関する検討会」だと思われます。

 この検討会が今年の3月29日付けで報告書を作成・公表しています。この報告書の中では、地域医療確保暫定水準として、「臨時的な必要がある場合」の1年あたりの延

長することができる時間数の上限を1860時間とすることが記載されています。

https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_04273.html

https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000496522.pdf

https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000496523.pdf

3.医師の残業に関する法規制「臨時的な必要がある場合」とは?

 医師の残業に関する法規制は、少し複雑になっています。

(1)一般的な残業時間規制

 労働基準法36条1項は、

「使用者は、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定をし、厚生労働省令で定めるところによりこれを行政官庁に届け出た場合においては、・・・その協定で定めるところによつて労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる。」

と規定しています。

 通称サブロク協定と呼ばれる協定で、これを結べば使用者は労働者に対して時間外労働や休日労働を命じることができるようになります。

 この協定には、

「対象期間における一日、一箇月及び一年のそれぞれの期間について労働時間を延長して労働させることができる時間又は労働させることができる休日の日数」

を定めることとされています(労働基準法36条2項4号)。

 この「労働時間を延長して労働させることができる時間」は「限度時間」を超えない時間に限るとされています(労働基準法36条3項)

 そして「限度時間」は労働基準法36条4項によって、

「一箇月について四十五時間及び一年について三百六十時間」

とされています。

 これが一般労働者に対して適用される標準的な残業時間規制の在り方になっています。

(2)医師の場合の特則

 医師の場合、これに変更が加えられています。

 労働基準法141条という条文があり、協定で定めるのは、

対象期間における労働時間を延長して労働させることができる時間又は労働させることができる休日の日数」

とされ、超過してはならないのは、

「限度時間並びに労働者の健康及び福祉を勘案して厚生労働省令で定める時間

とされています(労働基準法141条1項)。

 労働基準法141条1項の「労働者の健康及び福祉を勘案して厚生労働省令で定める時間」(医師限度時間)は一般労働者と同じ働き方を目指すという視点に立って、労働基準法36条4項と同じくつき45時間・年360時間とされています(報告書10頁)。

 ただ、医師に関しては、通常予見することのできない業務量の大幅な増加等に伴い臨時的に医師限度時間を超えて労働させる必要がある場合(臨時的な必要がある場合)に備え、医師限度時間を超えた時間数を協定することができるとされています(労働基準法141条2項)。

 この「臨時的な必要がある場合」について、標準的な水準とされているのが、月原則100時間未満、年960時間になります(報告書10頁)。

 しかし、地域によっては、この水準を達成することが困難ではないかということで、報告書の中では「臨時的な必要がある場合」に特例を設ける必要性が説かれています。

 この特例となる水準が地域医療暫定特例水準であり、月原則100時間未満、年1860時間とすることが書かれています(報告書12頁)。

 報道されているのは、この「臨時的な必要がある場合」の延長限度時間に関するものです。

(3)医師の場合の特則の適用時期

 もっとも、上述の残業規制は、平成36年(2024年)3月31日から開始されるルールです。

 これは、労働基準法141条4項が、医師について、2024年3月31日まで、労働基準法36条3項・4項の限度時間に関するルールなどの適用を除外しているからです。

 したがって、現時点での医師は年1860時間云々のルールにさえ守られていない状態にあります。

4.1860時間働かせても何の問題もない?

 では、2024年から新ルールが始まったとして、臨時的な必要がある場合、使用者である病院は何の縛りもなく年間1860時間の残業を命じることができるのでしょうか。

 私は、そのようなことはないと考えています。

 以下にその根拠を示します。

(1)報告書も1か月あたりの時間外労働を原則100時間未満としていること

 報告書も1か月あたりの時間外労働を原則100時間未満としています(報告書12頁)。1860時間を12で割って1月あたり155時間まで問題ない、といった単純な規制をするわけではありません。

 新聞記事のネット版では、過労死遺族の方から、

「年1860時間は月換算すると155時間。脳や心臓疾患による労災認定基準となる『過労死ライン』(2~6カ月平均80時間)の2倍近い。過労死を前提とした働き方改革は、改革ではなく、野放しとしか言いようがない」

との懸念が示されています。

 しかし、年1860時間という時間数になったとしても、月原則100時間未満という縛りがあることから、法の枠内で1860時間も働かせるということは、現実には難しくなってくるのではないかと推測しています。

(2)労災の認定基準や安全配慮義務の水準を動かすものではないと考えられること

 報告書は、

「過労死等の労災認定においては、事案ごとに脳・心臓疾患の労災認定基準及び精神
障害の労災認定基準に沿って、個別に判断される。過労死等の労災請求がなされた
場合には、労働基準監督署が独自に調査を行い、実際に働いた時間等を把握し、適
正に労災認定を行うこととしており、この取扱いは適用される時間外労働の上限時
間数の違いによって変わるものではない。

と明言しています(報告書12頁)。

 安全配慮義務違反が認められるか否かを判断するにあたり、労災の認定基準は大きな考慮要素とされています。

 労災の認定基準が動かないということは、安全配慮義務の水準が緩和されることもないと考えてよいだろうと思います。

 現状、月155時間、年1860時間も働いていなくても、安全配慮義務違反が問われた裁判例は一定数存在します。

 例えば、大阪高裁平20.3.27労働判例972-63大阪府立病院(医師・急性心不全死)事件は、急性心不全で死亡した麻酔科医の相続人が提起した損害賠償請求事件において、

死亡前1か月間の時間外労働時間は107時間15分

死亡前3か月間の平均の時間外労働時間は1か月あたり103時間15分

死亡前6か月間の平均の時間外労働時間は1か月あたり116時間7分30秒

という水準で、業務と死亡との間の因果関係も、安全配慮義務違反も認めています。

 また、大阪地裁平19.5.28労働判例942-25積善会(十全総合病院)事件は、鬱病を発症して自殺した医師の相続人が提起した損害賠償請求事件において、

死亡1か月前の時間外労働時間は105時間32分

死亡2か月前の時間外労働時間は121時間45分

死亡3か月前の時間外労働時間は123時間04分

死亡4か月前の時間外労働時間は104時間45分

死亡5か月前の時間外労働位j間は37時間55分

死亡6か月前の時間外労働時間は84時間06分

(ただし、上記の労働時間よりも実働時間が短かった可能性がある旨の注記あり)

という水準でも、業務と自殺との因果関係、安全配慮義務違反を認めています。

 業務と自殺との間の因果関係は、労働時間の長短だけで決まるほど単純ではなく、いずれの裁判例においても、時間外労働時間以外の観点を含む多角的な検討によって結論が導き出されています。

 しかし、労働時間が重要な要素であることに変わりはなく、安全配慮義務違反が問題になる可能性のある労働時間は、報告書に書かれている年間上限(1860時間)や、その単純な月割り(155時間)よりも低いです。

 まともな病院、法務が一定の機能を果たしている病院であれば、安全配慮義務違反を問われかねないような働き方にならないよう注意しているはずです。残業時間規制は裁判所の判断を厳しくする方向に作用することはあっても、安全配慮義務が認められにくくなる方向に作用することはないだろうと思われます。そのような使い方をすることは、残業を抑制しようという法の趣旨に反するからです。

 安全配慮義務は残業を制限する法理として機能してきましたし、今後も機能して行くはずです。

5.1860時間以内だからダメだと諦めないこと

 医師の方はかなり過重な労働を強いられていることが珍しくありません。

 今回、1860時間という数字が先行して報道されているように見受けられますが、厚生労働省にしても裁判所にしても「1860時間まではOK」と言っているわけではありません。

 無茶な働き方で体や心が壊れそうになった時、守ってくれる法律は必ずあります。

 1860時間以内だから病気になっても自己責任なんだと諦めないことが大切です。