1.予見可能性
不法行為構成であれ、安全配慮義務違反の構成であれ、損害賠償を請求するにあたっては、
加害行為が故意や過失に基づいていること、
加害行為と損害との間に相当因果関係があること、
が必要とされています。
この「過失」や「相当因果関係」の要素に「予見可能性」という概念があります。
過失は予見可能な結果を回避すべき注意義務違反と定義されているため、予見可能性のない行為は過失に基づいているとはいえません。
また、その行為からその結果を予見することができないときは、その行為からその結果が生じることが社会通念上相当とはいえないため、相当因果関係が否定されます。
それでは、予見可能性を認定するにあたっては、どの程度の予見可能性があればよいのでしょうか? 結果を具体的に予見することまで必要なのでしょうか? それとも、抽象的な危惧感さえあれば足りるのでしょうか?
この問題を考えるにあたり、参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。福井地判令3.5.11労働判例ジャーナル113-28 三星化学工業事件です。
2.三星化学工業事件
本件は、被告の従業員として勤務していた原告らが、稼働していた工場で使用されていた薬剤に暴露し、その結果、膀胱癌を発症したと主張して、安全配慮義務違反に基づく損害賠償を請求した事件です。
本件では、安全配慮義務違反の有無と関係して、予見可能性が認められるといえるのかどうかが争点になりました。
原告は、
「生命、健康という被害法益の重大性に鑑みると、被告の予見義務の程度としては、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危惧で足り、健康障害の性質や程度、発症頻度まで具体的に認識することを要しないというべきである。」
「なお、被告は、本件で問題とされるべき予見の対象は、本件薬品の皮膚吸収による発がんの可能性であると主張するが、本件薬品には経皮的曝露による健康障害発生の可能性があり、被告がこれを知っていた以上予見可能性がなかったとはいえない。」
と主張しました。
これに対し、被告は、
「原告らの主張する高度の注意義務は、化学工場の排水が地域住民の生命・健康に危害を及ぼした公害の事案の裁判例において判示されたものであり、労働衛生上の安全配慮義務が問題となる本件において、公害における加害企業と同様の高度の結果予見義務が課されるものとはいえない。」
「また、本件で問題とされるべき予見の対象は、本件薬品の皮膚吸収による発がんの可能性である。」
と反論しました。
こうした双方の主張を踏まえ、裁判所は、予見可能性の程度について、次のとおり述べて、抽象的な危惧感で足りると判示しました。結論としても、裁判所は、原告の請求を一部認容しました。
(裁判所の判断)
「安全配慮義務は、ある法律関係に基づいて特別な社会的接触の関係に入った当事者間において、当該法律関係の付随的義務として当事者の一方又は双方が相手方に対して信義則上負う義務として一般的に認められるべきものである(最高裁判所昭和50年2月25日第三小法廷判決・民集29巻2号143頁参照)。」
「被告は、安全配慮義務の前提となる予見可能性について、具体的な疾患及び同疾患発症の具体的因果関係に対する認識が必要であるとして、本件において予見可能性があったというためには本件薬品の皮膚吸収による発がんの可能性の認識が必要であったのであり、被告にはこれがなかった旨主張しているが、生命・健康という被害法益の重大性に鑑み、化学物質による健康被害が発症し得る環境下において従業員を稼働させる使用者の予見可能性としては、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危惧であれば足り、必ずしも生命・健康に対する障害の性質、程度や発症頻度まで具体的に認識する必要はないと解される。被告の同主張は採用できない。」
3.危惧感で足りるとされた、じん肺等以外の類型
予見可能性の程度に関する議論は、紛争類型や被侵害利益の内容に応じて、混迷を極めています。例えば、生命や身体を被侵害利益としていても、いじめ裁判においては、
「予見可能性は具体的特定の損害の発生について存在する必要はなく、抽象的に何らかの損害が発生するかもしれないというおそれを認識できれば足りるとする説(危惧感説)。何らかの損害が予見可能であれば、そのような危険な行為をしたことに非難可能性があるという発想に基づく。」
「しかし、今日の社会活動はほとんどすべて何らかの損害を生じさせ得るといえるから、予見可能性の要件は形骸化し、無過失責任とさして変わらない。抽象的に何らかの損害が予見可能だというだけでは、行為者が損害回避のためにいかなる措置をとるべきかもわからず、損害を回避できなかったことにつき責任を負わせることができない。予見可能な損害ないし危険に応じて行為者には一定の具体的な回避義務が課せられているとした上で、そのような回避義務を怠った者に損害賠償責任を負担させるのが公平の見地に照らして相当である。その意味で、予見可能性は行為者に対してどのような内容の回避義務を課するのか、その前提として問題になっているのであり、回避義務との関係でどの程度具体的に危険の予見を要するかが決まってくる。」
と危惧感だけでは足りないとする見解が有力です(蛭田振一郎ほか『いじめをめぐる裁判例と問題点』判例タイムズ1324-68参照)。
しかし、予見可能性は常に具体的なものが必要になるかというと、そういうわけではありません。
例えば、近時公刊された判例集にも、石綿ばく露の事案においても、
「安全配慮義務の前提として使用者が認識すべき予見義務の内容は、生命、健康という被害法益の重大性に鑑みると、安全性に疑念を抱かせる程度の抽象的な危惧であれば足り、必ずしも生命・健康に対する障害の性質、程度や発症頻度まで具体的に認識する必要はないというべきである」
と判示した裁判例が掲載されています(神戸地判平30.2.14労働判例1219-34住友ゴム工業(旧オーツタイヤ・石綿ばく露)事件参照)。
過失や相当因果関係の認定にあたり必要な予見可能性の程度は、上述のとおり、紛争類型や被侵害利益の内容に応じてモザイク的な様相を呈していて、極めて分かりにくくなっています。
比較的近時の裁判例において、危惧感説は、じん肺・石綿関連疾患をめぐる裁判例で採用されることが目立っていました。
本件は、じん肺・石綿関連とは別の疾患でありながら、予見可能性の程度として危惧感説を採用した裁判例として注目に値します。危惧感説の適用範囲が拡張すれば、被害者の救済により資するからです。本件は、危惧感説が、じん肺・石綿関連疾患に特有のものではないことを論証するうえで参考になります。