1.長時間労働と慰謝料
昨年、精神疾患の発症がなかったにもかかわらず、長時間労働を理由とする慰謝料請求が認められた事案が話題になりました。
以前、このブログでもご紹介したことのある、長崎地大村支判令元.9.26労働判例ジャーナル94-68 狩野ジャパン事件です。
精神疾患の発症がなくても長時間労働は労働者の人格的利益を侵害する - 弁護士 師子角允彬のブログ
これがなぜ話題になったのかと言うと、精神疾患の発症のない単なる長時間労働で慰謝料請求が認められた点が、極めて異例なことだったからです。
ただ、狩野ジャパン事件は、
① 月に100時間を超えるような長時間労働、
② 2年余りにも及ぶ長時間労働の継続性、
③ 36協定の不存在・不備、
④ 改善指導を行うなどの措置の不存在、
といったように使用者側の悪質性が顕著な事案で、異例な結論を導くだけの十分な材料が揃っていた事案でした。
そのため、精神疾患の発症を伴わない長時間労働のケースで慰謝料を請求することができるのかに関し、狩野ジャパン事件が、
孤立した特異な裁判例として終わってしまうのか、
長時間労働に対する新たな潮流を作り出していく契機になるのか、
が注目されていました。
このような状況のもと、東京地裁労働部で、精神疾患の発症を伴わない長時間労働で慰謝料請求を認容した裁判例が出されました。東京地判令2.6.10労働判例ジャーナル103-47 アクサ生命保険事件です。
2.アクサ生命保険事件
本件で被告になったのは、生命保険等を業とする株式会社です。
原告になったのは、被告の営業所の育成部長として、営業活動等に従事していた方です。
原告は被告に対して幾つかの請求を立てていますが、その中の一つに、安全配慮義務違反・職場環境配慮義務違反による債務不履行責任に基づく慰謝料請求がありました。
安全配慮義務違反・職場環境配慮義務違反を構成する事実として原告が主張したのは、上司(P9支社長)から受けたパワーハラスメントや、長時間労働について、被告が使用者として適切な対応を怠ったことでした。
パワーハラスメントの事実は認められませんでしたが、裁判所は、次のとおり述べて、長時間労働を理由とする慰謝料請求を認めました。
(裁判所の判断)
「P9支社長によるパワーハラスメントを認めるに足りる証拠はないものの・・・、本件期間における原告の毎月の時間外労働の時間数(1日8時間超過分と週40時間超過分の合計)は、別紙2のとおりである・・・。」
「そして、原告が平成27年1月に育成部長に昇任して以降、P9支社長は原告が所定労働時間を超えて就労していること、実際の退社時刻が午後7時ないし8時であったことを認識しており・・・、P8営業所長も、原告が短時間勤務の適用を事実上受けていたことについては当初から知っていたものの、原告の退社時刻はおおむね午後6時から8時頃であったとの認識を述べていること・・・、平成28年11月24日の時点で、被告の営業社員労働組合が、各地区の『営業管理職オルグ』において、多くの営業管理職から深刻な長時間労働の実態について苦情が出されている状況を踏まえ、営業管理職の勤務状況等に関するアンケートを実施していること・・・、原告は、P9支社長に対し、遅くとも平成29年3月頃には、長時間労働について相談し、その改善を求めたこと・・・、原告は、平成29年5月11日、P14統括部長に対し、P10に対する原告のパワーハラスメントに関する事情聴取を受けた際、帰宅時間が20時ないし22時になってしまうこともあったこと、育児を理由とする短時間勤務制度があるから入社したが同制度の利用を認めてもらえないこと、P9支社長及びP8営業所長から、営業管理職は休日活動の振替休日を取らなくてよいと指導されたこと、育成部長になってから当初の一年間は全く休暇を取れなかったこと等を伝えたこと・・・、平成29年10月30日、P4営業所が立川労働基準監督署から『営業社員に関して、週40時間を超え労働させているにもかかわらず、法定の率以上の割増賃金を支払っていないこと』『育成部長職の者に対して、法定の率以上の割増賃金を支払っていないこと』等を理由とする是正勧告を受けたこと・・・(なお、同監督署からの勧告は、長時間労働の是正を直接促すものではないが、週40時間を超えて労働させていることの指摘を含んでおり、安全配慮義務違反を根拠付ける一事情として評価するのが相当である。)、被告が組合との間で時間外労働及び休日労働に関する労使協定を締結したのは平成30年5月18日であること・・・等の事情が認められるのであり、これらを踏まえると、被告は、遅くとも平成29年3月から5月頃までには、三六協定を締結することもなく、原告を時間外労働に従事させていたことの認識可能性があったというべきである。しかしながら、被告が本件期間中、原告の労働状況について注意を払い、事実関係を調査し、改善指導を行う等の措置を講じたことを認めるに足りる主張立証はない(P9支社長が、平成27年12月8日に、営業所長に提出すべきリストの作成業務について、時間外には行わないようにとのメール・・・を原告に送信していること等の事情は上記認定を左右するものとはいえない。)。したがって、被告には、平成29年3月から5月頃以降、原告の長時間労働を放置したという安全配慮義務違反が認められる。」
「原告が長時間労働により心身の不調を来したことについては、疲労感の蓄積を訴える原告本人の陳述・・・に加え、抑うつ状態と診断された旨の平成29年4月1日付け診断書・・・があるものの、これを認めるに足りる医学的証拠は乏しい。しかし、原告が、結果的に具体的な疾患を発症するに至らなかったとしても、被告が、1年以上にわたって、ひと月当たり30時間ないし50時間以上(1日8時間超過分と週40時間超過分の合計)に及ぶ心身の不調を来す可能性があるような時間外労働に原告を従事させたことを踏まえると、原告には慰謝料相当額の損害賠償請求が認められるべきである。」
「そして、本件に顕れたすべての事情を考慮すれば、被告の安全配慮義務違反による債務不履行責任に基づく慰謝料の額としては、10万円をもって相当と認める。」
3.精神疾患の発症なし、月30~50時間の残業(1年程度)でも慰謝料請求が可能
アクサ生命保険事件は、狩野ジャパン事件と同じく疾患の発症に至っていないケースでしたが、長時間労働の実体が、
月30~50時間以上の残業が1年程度継続したにすぎない水準
でしかなかったにもかかわらず、慰謝料請求を認めました。
慰謝料額が10万円に留まるとはいえ、東京地裁の労働部が狩野ジャパン事件よりかなり少ない水準での長時間労働に対しても慰謝料請求を認容したことは、注目すべきことです。
本件も36協定の欠如という違法性の顕著な事案ではありましたが、疾患を発症しなくても長時間労働に対する慰謝料請求が認められるとする裁判例の潮流を生み出す可能性を持った裁判例だと思われます。