弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

労災取消訴訟-審査請求段階と訴訟段階、異なった疾病を主張できるか

1.審査請求前置

 労災の業務起因性の判断は、

① 対象となる疾病、障害等が何なのか、

② 対象として特定された疾病、障害等に業務起因性が認められるか、

という二重構造のもとで行われます。

 こうした構造のもとでなされた労働基準監督署長の処分に不服のある方は、労働者災害補償審査官に対して審査請求をすることができます。この審査請求を経なければ、原則として訴訟で労災の不支給処分の効力を争うことはできません(労働者災害補償保険法38条1項、40条参照)。

 審査請求前置というシステムが採用されている趣旨は、

「労災保険給付に関する決定が大量に行われる処分であり、行政の統一性を確保する必要があること、処分の内容も専門的知識を要するものが多いことから、できる限り行政機関内部において迅速かつ簡易に違法又は不当な処分を是正することが望ましいこと、行政不服審査は簡易迅速な処理をその本旨とすることから、訴訟の前に審査請求を経由させても、審査請求人の裁判を受ける権利を損なうことにはならないこと」

などにあると理解されています’(平成28年3月 労働基準局 労災保険審査請求事務取扱手引 参照)。

https://joshrc.net/wp-content/uploads/2020/04/joshrc201610.pdf

 それでは、労災の不支給処分に納得のいかない労働者が、審査請求段階で主張していなかった疾患、障害等を、訴訟の段階で新たに主張することは、許容されるのでしょうか? 

 もう少し分かりやすく言うと、審査請求においてA疾患に業務起因性が認められるかというテーマで争われていた問題について、訴訟提起後に

「真に検討にされるべきはB疾患に業務起因性が認められるか否かである」

といった争点設定をすることが、果たして審査請求前置等との関係で許容されるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。福井地判令2.4.15労働判例ジャーナル103-96 国・福井労基署長事件です。

2.国・福井労基署長事件

 本件は労災の不支給処分に対する取消訴訟です。

 原告になったのは、死亡した労働者P4の妻です。P4が死亡したのは業務に起因する疾病によるとして、遺族補償給付と葬祭料の請求をしたところ、労働基準監督署長は、いずれも不支給とする処分(本件各処分)を行いました。

 その後、審査請求、再審査請求のいずれもが棄却されたことを受け、本訴が提起されたという経過が辿られています。

 審査請求、再審査請求で問題にされていたのは、急性膵臓壊死の業務起因性でした。しかし、原告は、訴訟段階になって、

P4の死因は急性膵臓壊死ではなく虚血性心疾患であり、業務起因性の有無が検討されるべきは虚血性心疾患である

という趣旨の主張を展開しました。

 本件では、こうした主張が、審査請求前置との関係で許容されないのではないかが問題になりました。より具体的に言うと、被告国側は、

「審査請求において主張されなかった主張が取消訴訟の段階において主張される場合に、同主張が訴訟物の同一性の範囲を超えていた場合は、同主張に係る請求は審査請求手続を経ていないことになり、審査請求前置主義に反するため、取消訴訟で主張することはできない。」

「そして、取消訴訟の訴訟物の同一性は、処分の同一性により画されるところ、労災保険給付の不支給決定の取消訴訟においては、給付の種類が同一で、『傷病』及び『災害原因』が同じであれば、処分に同一性があるが、『傷病』又は『災害原因』のいずれかが異なれば、各給付の支給要件の判断も異なるため、処分の同一性が失われ訴訟物が異なる。」

「原告は、亡P4の傷病を急性膵臓壊死であるとして本件各給付請求をし、本件不服申立てにおいても、同様の主張をしていたが、本件訴訟では、亡P4の傷病を心臓疾患であると主張している。」

「しかし、急性膵臓壊死と心臓疾患では、傷病が異なり、処分の同一性が認められず、本件訴訟は審査請求前置の要件を満たさず訴訟要件を欠くため、却下されるべきである。」

と主張し、訴えの不適法却下を求めました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、訴訟提起の適法性を認めました(ただし、結論において原告の請求は棄却しています)。

(裁判所の判断)

「被告は、原告が本件不服申立てにおいて急性膵臓壊死を死因と主張していたにもかかわらず、本件訴訟において虚血性心疾患を死因と主張していることから、審査請求が前置されていない旨主張する。」

「しかし、審査請求と取消訴訟の対象の同一性は、それぞれの対象たる処分の同一性があれば足り、それ以上に審査請求における理由と取消訴訟において主張する違法事由が同一であることまでは要しないと解すべきである。

「そして、証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、原告は、本件各給付請求に際して、過労による死亡を原因として遺族補償給付及び葬祭料の支払を求め、処分行政庁が本件各処分をしたことに対し、本件各処分の取消しを求めて本件不服申立てをした上で、法定期間内に本件各処分の取消しを求めて本件訴訟を提起したことが認められ、本件不服申立て及び本件訴訟の対象となる処分はいずれも本件各処分であることからすれば、本件訴訟が審査請求前置の要件を満たすものと認められる。

よって、被告の主張は採用できない。

3.疾患の差し替えは大丈夫

 なぜ、死因となった疾患の差し替えといった現象が起きるのかというと、疾患には労災認定との間の相性があるからです。

 例えば、本件では、急性膵炎について、

「急性膵炎の原因としては、飲酒(約30%)、胆石(約25%)、原因不明(約15%)等が主なものである。」

との医学的知見が認定されています。つまり、長時間労働過労→急性膵炎→急性膵臓壊死→死亡の因果経路は認定しにくいのです。

 これに対し、虚血性心疾患の場合、厚生労働省が、

基発第1063号 平成13年12月12日 改正 基発第0507第3号 平成22年5月7日 改正 基発第0821第3号 令和2年8月21日「脳血管疾患及び虚血性心疾患等(負傷に起因するものを除く。)の認定基準について」

という文書を出しており、長時間労働→虚血性心疾患→死亡という因果経路を認定しやすいのです。

脳・心臓疾患の労災認定 −「過労死」と労災保険−|厚生労働省

https://www.mhlw.go.jp/new-info/kobetu/roudou/gyousei/rousai/dl/040325-11a.pdf

 そのため、手続をとっている最中に、より業務起因性の認められやすい疾患が死因となっているらしいことが判明したような場面では、疾患に関する主張を構成し直したくなるという現象が生じるのです。

 本件は結論こそ原告の請求棄却になっているものの、こうした死因の取り換えに係る主張が許されると判示した点に特徴があり、同種事案の処理を考えるうえで参考になります。

 

停職処分の枠内において処分に質的な相違は存在するか?

1.地方公務員の懲戒の種類と質的な違い

 地方公務員法は、戒告、減給、停職、免職の四つの懲戒処分を規定しています(地方公務員法29条1項)。

 それぞれの懲戒処分には、質的な違いがあります。この質的な違いは、懲戒処分が過度に重いものになっていないのかを判断するにあたり、重要な意味を持ちます。

 しかし、減給処分の枠内での量定の違い、停職処分の枠内での量定の違いについて、それを常に単純な量的相違の問題として割り切ることができるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり、参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京高判令2.3.25労働判例ジャーナル103-96東京都・都教委(不起立)事件です。

2.東京都・都教委(不起立)事件

 本件は、いわゆる「日の丸・君が代訴訟」の一つです。

 卒業式において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱するようにとの職務命令(本件職務命令)に従わず、着席したまま起立しなかった教職員ら(控訴人P1、控訴人P2)に対し、処分行政庁(東京都教育委員会)は停職6か月の懲戒処分をしました。

 控訴人らは各処分の取消を求めて出訴しました。原審東京地裁は、P2に関する停職6か月は重すぎるとして処分を取り消しましたが、P1に対する停職6か月は過去の違反歴等も考慮すれば違法とはいえないとして処分の取消を認めませんでした。

 これに対し、P1が控訴して、改めて懲戒処分の取消の可否が争われたのが本件です。

 裁判所は、次のとおり述べて、停職6か月の処分の取消を認めました。

(裁判所の判断)

「これら(過去の違反歴 括弧内筆者)を踏まえたとき、本件職務命令に違反した本件P1不起立に対する懲戒処分につき、同処分の種類として停職処分を選択すること自体については、前記相当性を基礎付ける具体的な事情があるということができる。」

「そして、停職期間について検討すると、控訴人P1は、1回目の平成16年度卒業式における不起立行為につき平成17年3月31日給与6月の10分の1を減ずる懲戒処分を受け、2回目の平成17年度入学式における不起立行為につき同年5月27日停職1月の懲戒処分を受け、3回目の同年度卒業式における不起立行為につき平成18年3月31日停職3月の懲戒処分を受けているところ、2回目の不起立行為につき停職1月の懲戒処分を受けた後、再発防止研修でのゼッケン着用を巡る抗議等を行ったことによって給与1月の10分の1を減ずる懲戒処分を受けている。これらを考慮すると、3回目の不起立行為に対する処分の停職期間を2回目の不起立行為に対する停職処分の期間(1月)を加重した3月とすることは、その期間の選択が重すぎて相当ではないとはいえない。そして、4回目の平成18年度卒業式における不起立行為については、停職期間を6月とした平成19年3月の懲戒処分が取り消されているが、それまで不起立行為が繰り返されているほか、不起立行為に関連した非違行為が行われていること及びこれらに対する懲戒処分の内容を踏まえれば、少なくとも停職期間を3月とする限度で停職処分とすることはその期間の選択が重すぎて相当ではないとはいえず、また、5回目の平成19年度卒業式における不起立行為については、同非違行為のほかに、同年度の勤務時間中に上記語句が印刷された本件トレーナーを着用し、このことについて、再三にわたり、校長及び副校長から注意指導を受け、さらに本件トレーナー着用行為をしないようにとの職務命令を受けたにもかかわらず、その後も同行為を続けたことにより、これらが地公法32条、33条及び35条に違反するとして、これと併せて停職期間を6月とする懲戒処分がされたのであり(乙イ205~207)、同処分についても、その期間の選択が重すぎて相当ではないとはいえない。そして、6回目の本件P1不起立は、その翌年、再び不起立行為が繰り返されたものであり、これに対する懲戒処分を平成17年度卒業式及び平成18年度卒業式における各不起立行為に対するものとして重すぎて相当ではないとはいえない停職3月の懲戒処分よりさらに重くすることはやむを得ないものというべきである。」

「しかし、前記・・・の説示のとおり、停職処分は、それ自体によって被処分者に対して一定の期間、職務の停止及び給与の全額不支給という直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶ処分であり、将来の昇給等にも相応の影響が及ぶほか、職員の懲戒に関する条例によれば、停職期間の上限は6月とされていて、停職期間を6月とする停職処分を科すことは、さらに同種の不起立行為を繰り返し、より重い処分が科されるときには、その処分は免職のみであり、これにより地方公務員である教師としての身分を失うことになるとの警告を与えることとなり、その影響は、単に期間が倍になるという量的な問題にとどまらず、身分喪失の可能性という著しい質的な違いを被処分者に意識させることになり、これによる被処分者への心理的圧迫の程度は強い。特に、控訴人P1の場合には、前記説示のとおり、その不起立行為の動機、原因は、控訴人P1の歴史観ないし世界観等に由来する『君が代』や『日の丸』に対する否定的評価等のゆえに、本件職務命令により求められる行為と自らの歴史観ないし世界観等に由来する外部的行為とが相違するというものであることに照らすと、その後も施行される入学式、卒業式では、少なくとも、控訴人P1は、その内心においては、上記歴史観、世界観等に反して本件職務命令に従うか、教師としての身分を失うことになるかの選択を迫られる状況に置かれることになる。

以上の事情を踏まえれば、本件P1不起立について停職期間を6月とする停職処分を科すことは、十分な根拠をもって慎重に行わなければならないものというべきであるところ、控訴人P1について過去に懲戒処分や文書訓告の対象となったいくつかの行為は、平成17年度卒業式における不起立行為についての平成18年3月の懲戒処分において考慮され、その後、同種の非違行為が繰り返されて懲戒処分を受けたという事実は認められない上、本件P1不起立は、以前において行われた掲揚された国旗を引き降ろすなどの積極的な式典の妨害行為ではなく、控訴人P2と同様の国歌斉唱時に起立しなかったという消極的な行為であって、卒業式の会場において不快に感じた参列者がいたことは否定できないものの、その限度にとどまるものであり、また、停職6月の平成20年3月の懲戒処分がされた後は、本件P1懲戒処分時まで、控訴人P1が、勤務時間中に、平成19年度の本件トレーナー着用行為のような行為をしたことはなく、また、その他の非違行為がされたことについては、これを認めるに足りる的確な証拠はない。これらのことを踏まえれば、本件P1不起立については、職員の懲戒に関する条例により停職期間の上限とされている6月を停職期間とする停職処分を科すことは、控訴人P1の過去の処分歴や不起立行為が繰り返されてきたことを考慮しても、なお正当なものとみることはできないというべきである。

以上によれば、本件P1懲戒処分において停職期間を6月とした都教委の判断は、具体的に行われた非違行為の内容や影響の程度等に鑑み、社会通念上、行為と処分との均衡を著しく失していて妥当性を欠くものであり、懲戒権者としての都教委に与えられている裁量権の合理的範囲を逸脱してされたものといわざるを得ず、違法なものというべきである。

3.同じく停職でも上限(6か月)は別格

 裁判所は、同じく停職であっても、6か月の停職は、それよりも後ろに免職しかない点において、より短い期間の停職とは質的に異なると判示しました。

 これは、日の丸・君が代訴訟に限ったことではなく、他の非違行為を問題にする懲戒処分の取消訴訟や、民間での懲戒処分の効力を争う訴訟にも応用可能な論理であり、本件は労働事件を扱う弁護士にとって、重要な示唆を含む事案として位置付けられます。

 日の丸・君が代訴訟は、それまで考えられてこなかった論点を噴出させた訴訟類型です。学術的に興味深い判示を幾つも生み出していることから、今後とも目が離せません。

 

ハラスメントの被害者に配置転換を求める権利性を認めることができるか?

1.労働者は職場に配置転換を求めることができるのか?

 ハラスメントに関する相談を受けていると、勤務地や部署の変更を請求することができないかと尋ねられることがあります。

 しかし、配置転換を使用者に対して権利として請求することができるかというと、そこまでは難しいと考えるのが、一般的な理解になるのではないかと思います。

 ただ、実際に事件処理をしていると、加害者と直接顔を合わせる形での勤務の回避を申し入れたい場面は確かに存在します。使用者との交渉にあたり、活用できる裁判例がないかと思っていたところ、近時公刊された判例集に、使えそうな裁判例が掲載されているのを見つけました。岡山地判令2.6.10労働判例ジャーナル103-96 岡山市事件です。

2.岡山市事件

 本件は、保育園の総括主任として働いていた方が原告となって提起した国家賠償請求事件です。

 被告になったのは、岡山市です。原告が働いていた保育園(横井保育園)を開設していた地方公共団体です。

 原告は園長によるハラスメント等が原因となって抑うつ状態となり休職したことを前提に、被告が職場復帰にあたって横井保育園以外の保育園への職場復帰を調整しなかったのは違法だと主張し、逸失利益等を請求する訴えを起こしました。

 裁判所は、結論として原告の請求を棄却しましたが、以下のとおり述べて、使用者に職場環境調整義務・配置換えその他人事管理上の適切な措置を講じるべき義務があることを認めました。

(裁判所の判断)

「地方公共団体である被告は、その任用する職員が生命、身体等の安全を確保しつつ業務をすることができるよう、必要な配慮をする義務、すなわち安全配慮義務を負っているところ、殊に、安全配慮義務には、精神疾患により休業した職員に対し、その特性を十分理解した上で、適切に職場復帰の判断を行う義務のほか、職場環境調整を行い、良好な職場環境を保持する義務も含まれ得るものと解される。そして、地方公共団体である被告は、職場におけるハラスメント、すなわち、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景として、業務の適正な範囲を超えて、精神的、身体的苦痛を与える行為又は職場環境を悪化させる行為を防止する義務を負うことも踏まえれば、本件のように、仮に、原告の職場であった横井保育園において、原告からハラスメントの訴えがあったときには、被告は、その事実関係を調査し、調査の結果に基づき、横井保育園の職場環境調整のほか、ハラスメントをされたと主張する原告の配置換えその他の人事管理上の適切な措置を講じるべき義務を負うものとも解され得るところである。

3.公法上の義務とは異なる、私法上の注意義務

 事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針(令和2年厚生労働省告示第5号)は、

「職場におけるパワーハラスメントが生じた事実が確認できた場合においては、速やかに被害を受けた労働者(以下「被害者」という。)に対する配慮のための措置を適正に行うこと。」

を規定しています。

 そして、ここには、

「事案の内容や状況に応じ、被害者と行為者の間の関係改善に向けての援助、被害者と行為者を引き離すための配置転換、行為者の謝罪、被害者の労働条件上の不利益の回復、管理監督者又は事業場内産業保健スタッフ等による被害者のメンタルヘルス不調への相談対応等の措置を講ずること。」

などが措置を適正に講じている場合の具体例として掲げられています。

 しかし、こうした義務は、公法上の義務に留まるとして、私法的な措置を使用者に求めて行く根拠として十分に機能しないことが少なくありません。

 今回、岡山市事件が、私法上のものとして、配置換えを含めた人事上の適切な措置を講じるべき義務を正面から認めたことは、画期的なことだと思います。地方公共団体に対するものであり、直ちに民間企業にも同様の義務を導けるとは限りませんが、この裁判例は、ハラスメントの被害者が勤務先に対して配置転換を求めて行くにあたり、一定の法的根拠となる可能性を持ったものだと思います。

 

決められた総額を調整するための費目と固定残業代

1.固定残業代の有効性

 固定残業代が有効であるといえるためには、

「労働契約における賃金の定めにつき、通常の労働時間の賃金に当たる部分と同条の定める割増賃金に当たる部分とを判別することができることが必要である・・・。そして、使用者が、労働契約に基づく特定の手当を支払うことにより労働基準法37条の定める割増賃金を支払ったと主張している場合において、上記の判別をすることができるというためには、当該手当が時間外労働等に対する対価として支払われるものとされていることを要する」

と理解されています(最一小判令2.3.30労働判例1220-19 国際自動車事件)。

 それでは、決められた総額を調整するための費目として固定残業代が使われいてる場合、そうした費目は有効な固定残業代の定めと言うことができるのでしょうか?

 この問題について、近時公刊された判例集に、対照的な裁判例が掲載されていました。宇都宮地判令2.5.14労働判例ジャーナル103-82スタッフブレーン・テクノブレーン事件と、札幌地苫小牧支判令2.3.11労働判例1226-44ザニドム事件です。

2.二つの裁判例

(1)スタッフブレーン・テクノブレーン事件

 この事件では「職務手当」の固定残業代としての有効性が問題になりました。

 被告会社において職務手当は「職務の内容によって、一定時間の時間外手当に相当する額を支給する。」と定められていました。

 そして、「社員給与構成一覧表」というものに、

職務手当の計算式について「(基礎給+業績給+役職手当+技能手当+車輌手当+通信手当+赴任手当)÷160H×125%×30H」とすること、

100円単位を切り上げて計算すること、

みなし残業時間を一律30時間とすること

が記載されていました。

 こうした規定こそ整えられていたものの、職務手当の金額を変動させることにより、原告aの給与合計額が37万1000円で統一されていたという事案において、裁判所は、次のとおり判示し、職務手当の固定残業代としての効力を否定しました。

(裁判所の判断)

原告aの職務手当等が変動しているにもかかわらず、平成26年1月から同年4月を除き、その給与合計額は37万1000円に統一されていることからすれば、職務手当等もまた、原告aの給与合計額を調整するための費目としての意味を有するにすぎないものと考えることもできる。

「これに加えて、固定残業代として支払っているのであれば、時間外労働時間の見込みが変動することや基礎賃金の変動以外の理由でその金額が変動することは性質ありえないものであるが、被告らは、職務手当等の変動理由や変動後の金額を算出した根拠を説明できていないのであるから、被告らが原告らに支払った職務手当等には、固定残業代とは異なる趣旨が含まれるものと認めざるを得ない。

「よって、職務手当等が、時間外労働等に対する対価として支払われるものと合意されていたとは認められない。」

(2)ザニドム事件

 この事件では、1日総額9000円~1万円の枠内で設定されていた「割増分日給」の効力が問題になりました。

 具体的に言うと、原告労働者と被告会社との間では、平成28年3月以降、次のような合意が交わされていました。

平成28年3月1日   基本日給6112円 割増分日給2888円

平成28年5月3日   基本日給6112円 割増分日給3888円

平成28年9月30日  基本日給6288円 割増分日給3712円

平成29年1月28日  基本日給6288円 割増分日給3712円

平成29年10月29日 基本日給6100円 割増分日給3900円

 このような賃金の決め方について、原告は、

「雇用契約書や支給明細書の記載内容は、被告が一方的に操作して作成したものであり、被告は、原告の残業時間がどの程度超過しようとも、最低賃金がどのように変化しようとも、原告に支払う金額は1日1万円までという理解でいたことは明白であるが、原告は、被告からそのような説明を受けたことはないし、合意した事実もない。」

「原告は、被告から基本給部分と固定残業代部分との区別について何ら説明を受けていないから、雇用契約時において、両者の区別は明確にされていないし、前記イで前述したとおり、被告においては、固定残業代制度を適切に運用する意思も実態もないのであるから、実質的にみて、基本給部分と固定残業代部分が明確に区分されているとはいえない。」

と主張し、割増分日給の固定残業代としての効力を争いました。

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代としての効力を認めました。

(裁判所の判断)

「被告の人事係担当者やAマネージャーが、原告に対し、面接時において、原告の給与体系が日給制であり、日給の中には基本給と固定残業代部分が含まれることなどを説明したことや、原告が基本日給、割増分日給等が明記された『雇用契約書兼労働条件通知書』に複数回署名押印したことは前述したとおりであり、形式的にも実質的にも基本給部分と固定残業代部分が明確に区分されていないとはいえない。

「以上から、原告の主張はいずれも理由がなく、原告と被告との間の固定残業代に関する合意は有効である。」

3.ザニドム事件は対価性の観点から攻められなかったのだろうか?

 スタッフブレーン・テクノブレーン事件も、ザニドム事件も、一定の総額のもとで、固定残業代部分が調整費目として使われていたことは共通しています。

 しかし、スタッフブレーン・テクノブレーン事件では固定残業代としての効力が否定され、ザニドム事件では肯定されました。

 結論が異なる理由の分析は困難ではありますが、ザニドム事件では明確区分性だけを問題提起するに留まったところに原因があったのかも知れません。勤務実態が変わっていないにもかかわらず、割増分日給の額だけが一方的に変動していることを強調し、金額決定に時間外勤務の対価以外の要素が働いていることを主張すれば、対価性の部分が崩れて固定残業代の効力を否定する芽が出てきた可能性があります。

 今後、類似の事案で必要な主張を落とさないため、二つの事件は対比して記憶に留めておく必要があるように思われます。

 

営業秘密が記載された書証を提出する時に、労働者はマスキングを行う義務を負うのか?

1.秘密保持義務と裁判を受ける権利の相克

 一般論として、労働者は、会社に対し、営業秘密を漏洩しない義務を負っています。

 そのことは、大抵の会社の就業規則に書かれています。例えば、厚生労働省のモデル就業規則では、労働者の遵守事項として、

「在職中及び退職後においても、業務上知り得た会社、取引先等の機密を漏洩しな
いこと。」

を規定しています。

モデル就業規則について |厚生労働省

 これは就業規則で明示的に定められている場合に限ったことではありません。

 例えば、東京高判昭55.2.18労働関係民事裁判例集31巻1号49頁は、

「労働者は労働契約にもとづく附随的義務として、信義則上、使用者の利益をことさらに害するような行為を避けるべき責務を負うが、その一つとして使用者の業務上の秘密を洩らさないとの義務を負うものと解せられる。信義則の支配、従つてこの義務は労働者すべてに共通である。」

と判示し、秘密保持義務を労働契約の付随義務として位置付けています。

 それでは、労働者は、会社と裁判で争う時にも、この秘密保持義務に拘束されるのでしょうか? より具体的に言えば、裁判で会社内部の営業秘密が記載された書証を提出する時、マスキングをするなどの配慮をしなければ、秘密保持義務違反として不利益を受けることもありえるのでしょうか?

2.民事裁判の実情

 憲法82条1項は、

「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。」

と規定しています。俗にいう、裁判の公開原則です。

 また、民事訴訟法91条1項は、

「何人も、裁判所書記官に対し、訴訟記録の閲覧を請求することができる。」

と規定しています。

 そのため、概念的には、裁判所に提出される情報は、広く公開されることになっています。口頭弁論期日は公開法廷で行われますし、法廷の外には期日簿が張り出されていて、誰でも当事者の名前と事件名を見て傍聴席に入ることができます。

 しかし、実際の民事裁判は、かなり匿名性の高いものになっています。

 司法統計によると、令和元年度は東京地裁だけで3万8801件の通常訴訟事件を受理しています。これだけ多数の事件が係属していると、どこで誰のどのような事件が審理されているのかは、普通分かりません。

 また、民事裁判は技術的な要素が強く、書面審理が中心になるため、法廷でのやりとりを傍聴していても、どのようなやりとりが行われているのかを第三者が理解することは極めて困難です。人証調べも書面審理で争点を絞った後で行われるため、やはり何が行われているのかを第三者が理解できる形にはなりません。

 更に言えば、訴訟記録に営業秘密が記載されている場合、当事者は第三者による閲覧、謄写等を制限するように裁判所に申立をすることができます(民事訴訟法92条参照)。

 こうした実情、制度があるため、会社の内部文書をそのまま書証として提出したところで、それが企業利益の侵害に繋がることは考えられにくいのです。

 そのため、会社の内部文書を書証として提出する時の労働者側のマスキング義務は、これまであまり議論の対象になってこなかったように思われます。

 しかし、近時公刊された判例集に、この問題が議論の対象となった裁判例が掲載されていました。一昨日も紹介した、東京地判令2.4.3三菱UFJモルガン・スタンレー証券事件です。

3.三菱UFJモルガン・スタンレー事件

 本件は国内外に顧客を有する証券会社に雇われていた原告男性が、育児休業取得の妨害、育児休業取得を理由とする不利益取扱いをされたとして、勤務先に対し、不法行為による損害賠償などを請求した事件です。

 原告の方は、上記損害賠償請求のほか、育児休業後になされた休職命令(本件休職命令)の効力を争い、休職期間中の賃金も請求しました。

 事件の経過としては本訴提起よりも前に、本件休職命令が違法無効であるとした雇用契約上の地位保全等を求める仮処分(本件仮処分)の申立が先行しています。

 この仮処分において、原告は、被告の内部文書である海外顧客の収益一覧表(本件収益一覧表)を顧客名等について黒塗りすることなく証拠として提出しました。

 これに対し、被告は、機密情報の持ち出しが社内規則(戦略就業規程)違反になる可能性があることを指摘し、警告文書を発出しました。

 しかし、原告は、本訴提起に段階を進めた際にも、本件収益一覧表を顧客名等を黒塗りすることなく証拠として提出しました。

 被告は記者会見等でのマスコミに対する言動のほか、本件収益一覧表をマスキングをしないで提出し、第三者による閲覧及び謄写が可能な状態に置いたことも問題であるとして原告を普通解雇しました。

 より具体的に言うと、被告は原告の解雇事由として、次のような主張をしました。

原告は、本件訴訟に先立つ雇用契約上の地位保全等を求める仮処分(以下『本件仮処分』という。)手続において、被告の内部文書である海外顧客の収益一覧表・・・(以下『本件収益一覧表』という。)を顧客名等について黒塗りすることなく証拠として提出した。被告は、機密情報の持出しが戦略職就業規程に違反するおそれがあり、今後同様の行為を慎むよう警告した上、裁判所に対し閲覧等制限の申立てを行ったところ、同裁判所は、本件収益一覧表を被告の営業秘密として認め、閲覧等制限決定を行った。しかし、原告は本件訴訟においても、再び顧客名等を黒塗りすることなく、証拠として提出した。本件収益一覧表は、被告の内部文書であり、漏洩した場合に顧客又は被告の信用に重大な影響を及ぼす可能性があり、被告にとって極めて守秘性及び重要性が高く、かつ、顧客に対しても守秘義務を負う内容が記載されていることから、被告の内規においては、最重要の機密情報とされており、社外の持出しには厳格な制限がかけられている。原告は、特命部長という職責上率先して上記内規を守るべき立場にあるにもかかわらず、本件訴訟において本件収益一覧表を第三者による閲覧及び謄写が可能な状態に置いたものであり、このような原告の行為は、戦略職就業規程70条3号の懲戒事由に当たり、その違反の程度は重大である。

 これに対し、裁判所は、次のとおり判示し、マスキングをしなかったことは解雇事由にはならないと判示しました(ただし、結論において解雇は有効)。

(裁判所の判断)

「被告は、原告に対し警告をしたにもかかわらず、本件訴訟において、被告の内部文書である本件収益一覧表を顧客名等について黒塗りすることなく証拠として提出し、第三者による閲覧及び謄写が可能な状態に置いたことは『被告及び取引先の経営情報、営業上の秘密、その他公表していない情報を他に漏らした場合』(戦略職就業規程70条3号)に当たる旨主張する。」

「しかしながら、原告が訴訟代理人弁護士を通じて本件収益一覧表を提出した先は裁判所であり、被告は閲覧制限を申し立てる方法により閲覧の対象者は当事者に制限することができ、また実際にも申立てがされていて、第三者が閲覧及び謄写した事実はない(記録上明らかな事実)。そうすると、原告の行為は軽率のそしりは免れないとしても、本件収益一覧表を他に漏らした場合に当たるとまでは評価することができない。上記被告の主張は失当であり採用することができない。

4.軽率のそしりは免れない?

 元々、裁判は秘匿性の高い手続ですし、文句があるなら相手方で民事訴訟法92条所定の秘密保護のための閲覧等の制限をとれば良いと考えられるため、労働者側で会社の内部文書を書証として提出する時にマスキングが必要ではないかという問題意識は、あまり持たれていなかったように思われます。

 しかし、解雇事由として認められてはいないものの、裁判所はマスキングをしないで証拠提出したことについて「軽率のそしりは免れない」と消極的な評価を与えています。そのため、これがより軽い懲戒処分であったとしたら、どうなっていたのかは分かりません。閲覧等の制限の対象になるまでの間に、野次馬が実際に記録の謄写に及ばなかったことも結論に影響していると思われます。

 こうしたことを考えると、以降、労働者側から、あからさまに機密性の高い会社の内部文書を書証提出する際には、マスキング等、何らかの対応をした方が無難かも知れません。

 

指導票への署名・押印に残業代支払債務の承認としての効力が認められるか?

1.残業代の消滅時効期間

 労働基準法115条は、

この法律の規定による賃金の請求権はこれを行使することができる時から五年間、この法律の規定による災害補償その他の請求権(賃金の請求権を除く。)はこれを行使することができる時から二年間行わない場合においては、時効によつて消滅する。

と規定しています。これにより、残業代の消滅時効期間は5年と理解されることになります。

 ただ、この法律には経過措置があり、労働基準法143条3項が、

第百十五条の規定の適用については、当分の間、同条中『賃金の請求権はこれを行使することができる時から五年間』とあるのは、『退職手当の請求権はこれを行使することができる時から五年間、この法律の規定による賃金(退職手当を除く。)の請求権はこれを行使することができる時から三年間』とする。

と規定しています。

 そのため、法文上は5年になっていますが、現在の残業代の消滅時効期間は3年間になります。

 また、令和二年三月三一日法律第一三号の附則2条2項は、

新法第百十五条及び第百四十三条第三項の規定は、施行日以後に支払期日が到来する労働基準法の規定による賃金(退職手当を除く。以下この項において同じ。)の請求権の時効について適用し、施行日前に支払期日が到来した同法の規定による賃金の請求権の時効については、なお従前の例による。

と規定しています。

 時効期間が5年(当面3年)に伸ばされたのは法改正によるため、法施行日(令和2年4月1日 令和元年12月18日政令第190号 令和二年三月三一日法律第一三号の附則1条参照)以前の残業代は、従前どおり2年で消滅することになります。

 このように消滅時効期間が短いため、残業代を請求する場合、いち早く催告など消滅時効の完成を阻止するための措置をとって行くことが重要な意味を持ちます。

 この時効の完成が阻止される場合の一つに、「権利の承認」があります。

 「権利の承認」があった場合、時効は一旦リセットされ、その時点から改めて進行することになります(民法152条1項)。

 それでは、残業代の請求の場面で、使用者が労働基準監督署から交付される指導票にサインしたことは、残業代に関する権利の存在を承認したことになるのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。宇都宮地判令2.5.14労働判例ジャーナル103-82 スタッフブレーン・テクノブレーン事件です。

2.スタッフブレーン・テクノブレーン事件

 本件は、いわゆる残業代請求事件です。

 原告ら労働者は残業代の支払を催告し、法的措置に及びましたが、それ以前に被告会社には労働基準監督官の指導が入っていました。

 具体的には、

「平成27年10月7日、労基署の労働基準監督官(以下「監督官」という。)が被告スタッフブレーンを訪れ、監督官は、被告スタッフブレーンに対し、労働時間の適正な記録をすること及び原告らに対する未払賃金を支払うことを求め、その改善状況を同年11月7日までに報告することを求める指導票を交付し、被告スタッフブレーン代表取締役は、受領の署名押印をした・・・。」

という事実が認められています。

 原告らは、これが権利の承認(債務の承認)に該当するとして、この時点で消滅時効の進行がリセットされたと主張しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、指導票への受領の署名・押印に債務の承認としての効力を認めませんでした。

(裁判所の判断)

「原告らは、監督官が平成27年10月7日に被告らに交付した本件指導票に対し、被告らが署名・押印したことをもって、債務の承認に当たる旨を主張するが、・・・本件指導票は、労基署の調査の結果、被告らの労働時間管理が極めて不適正な状況にあることを指摘し、今後、労働時間を適正に記録することを求め、また、客観的な証拠や本人らの供述に基づいて算定したこれまでに原告らに生じた未払賃金を通告するとともに、これを参考に、被告らにおいて、原告らに生じた未払賃金額を算定することを求めることを内容としたものであって、被告らの署名・押印は、本件指導票を受領したことを意味するものにすぎないから、債務の承認があったと評価することはできない。

「また、原告らは、被告らの消滅時効の援用が権利濫用であると主張するが、被告らによる従業員の労働時間の管理が不適切であったとしても、そのことにより直ちに消滅時効を援用することが権利濫用になると評価することはできず、本件では、上記のとおり、原告らは労基署に申立てを行っており、被告らから権利行使を行うことを直接妨害されたことやこれに類する事実は認められない。」

「そのため、原告らの主張を踏まえても、未だ被告らの消滅時効の援用が権利濫用であると認めるには足りず、原告らの主張は採用できない。」

3.指導票ではダメっぽい

 指導票は労働基準監督官が交付する書面の一つで、

「労働基準監督署が調査を行い、法違反以外の事項について指導を行う必要がある場合に交付する書類」

であるとされています。

労働基準監督官が使用する必須アイテム | 宮城労働局

https://jsite.mhlw.go.jp/miyagi-roudoukyoku/library/miyagi-roudoukyoku/kantokukanshiken/sidouhyou.pdf

 指導票には、

「あなたの事業場の下記事項については改善措置をとられるようお願いします。なお、改善の状況については  月  日までに報告してください。」

と不動文字で書かれていて、末尾に受領者が受領日と署名・押印をする体裁になっています。

 末尾の署名・押印にどれだけの効力が認められるのかが注目されましたが、裁判所は書類を受領した以上の意味を有するものではないと判断しました。

 不動文字との関係で、まあ、そうだろうなとは思いましたが、珍しい論点であったため、備忘のため書き残しておくことにしました。

 

提訴記者会見に厳しい時代の到来か

1.提訴記者会見での言動が労働者の地位を脅かす

 昨年の11月、マタハラがテーマになった事案で、社会的な耳目を集めた判決が言い渡されました。東京高判令元.11.28労働判例1215-5 ジャパンビジネスラボ事件です。

 この判決には重要な判示事項が幾つもありますが、その中の一つに提訴記者会見ほかマスコミとの接触状況の評価があります。判決は、

「一審原告は、労働局に相談し、労働組合に加入して交渉し、労働委員会にあっせん申請をしても、自己の要求が容れられないことから、広く社会に報道されることを期待して、マスコミ関係者らに対し、一審被告の対応等について客観的事実とは異なる事実を伝え、録音したデータを提供することによって、社会に対して一審被告が育児休業明けの労働者の権利を侵害するマタハラ企業であるとの印象を与えようと企図したものと言わざるを得ない。」

と原告のマスコミとの関わり方を問題視し、これを雇止めの客観的合理性・社会通念上の相当性を基礎付ける理由の一つとして評価しました。

 また、

「報道機関に対する記者会見は、弁論主義が適用される民事訴訟手続における主張、立証とは異なり、一方的に報道機関に情報を提供するものであり、相手方の反論の機会も保障されているわけではないから、記者会見における発言によって摘示した事実が、訴訟の相手方の社会的評価を低下させるものであった場合には、名誉毀損、信用毀損の不法行為が成立する余地がある。」

との一般論を示したうえ、一審原告の方の記者会見における発言に違法性を認め、会社側から労働者側に対する損害賠償請求(名誉・信用の毀損)を認めました。

 この判決が公表された時、労働者側の提訴記者会見での言動に対し、厳しい判断がなされたと話題になりました。

 ジャパンビジネスラボ事件控訴審判決以降も提訴記者会見に対する裁判所の消極的な見方が続くのかと注視していたところ、近時公刊された判例集に、提訴記者会見での言動を解雇事由の一つとして位置付けた裁判例が掲載されていました。

 東京地判令2.4.3労働判例ジャーナル103-84三菱UFJモルガン・スタンレー証券事件です。

2.三菱UFJモルガンスタンレー証券事件

 本件は国内外に顧客を有する証券会社に雇われていた原告男性が、育児休業取得の妨害、育児休業取得を理由とする不利益取扱いをされたとして、勤務先に対し、不法行為による損害賠償などを請求した事件です。

 原告の方は、上記損害賠償請求のほか、育児休業後になされた休職命令(本件休職命令)の効力を争い、休職期間中の賃金も請求しました。

 事件の経過としては本訴提起よりも前に、本件休職命令が違法無効であるとした雇用契約上の地位保全等を求める仮処分(本件仮処分)の申立が先行しています。

 本件仮処分の申立以降、原告の方は、記者会見を行うとともに、複数のメディアからの取材を受けました。こうしたマスコミとのやりとりの中での言動が一因となって、原告の方は普通解雇されてしまいます。本訴では解雇の無効を理由とした地位確認も併合して請求されました。

 この事案で原告が行った記者会見等に対し、裁判所は次のとおり述べて、解雇の有効性を基礎付ける理由の一つとして評価しました。結論としても、解雇の有効性を認めています。

(裁判所の判断)

「原告は、平成29年11月2日、同月17日、別紙3の『場所・掲載元』欄の場所、媒体において、被告の会社名を摘示した上、母子手帳が提出できないから育児休業申請が却下された、子が早く産まれて医師から今すぐ来なければならないと伝えられた旨を被告のマネジメント及び人事に伝えると『行くな』と言われ、子が死にかけているさなか無意味なスプレッドシートの作業を2日間続けた後耐えられない旨を再度伝え休暇の許可のないまま子に会いに行った、子が産まれてから数か月後に育児休業が与えられたがそれ以前は単に被告を欠勤したことになっている、育児休業から戻ると上司から呼び出されて『これがお前の新しい仕事だ』と言われそれはただ隅に座って小銭を数えているような仕事であった、子ができたので休みをとりたいとマネジメントに伝えると被告の多くは原告に見向きもしなくなり原告を脇に追いやり、隔離して差別を受けたなどといった事実を適示した。特に、平成29年11月17日配信の対談動画についてはインターネット上にアップロードされたもので繰り返し世界中の人が視聴できるものであった。」

「また、平成29年11月2日以降、別紙3の『場所・掲載元』欄の場所にて原告のインタビュー記事が掲載されたところ、記事では、被告の会社名が摘示され、被告は原告が母子手帳を有していないという理由により育児休業を拒否した、原告が育児休業から復帰したとき被告は原告の職務を低賃金の単純作業に変えた、原告は子が産まれてすぐにネパールに出国しようと上司にかけあったがそれも叶わず許可なしで行きますと宣言した、育児休業から復帰すると育児休業前に従事していた仕事から外されハラスメントが激しくなった、上司から『お前はもう子供がいるから基本的には仕事ができないだろう。』と言われた、育児休業復帰後利益を生まないしこれからもそうならないであろう顧客を担当するつまらない仕事に配置換えされた、原告による育児休業申請を被告は何度も拒否した、被告は育児休業復帰後に原告を会議、採用面接及び海外出張から外した、被告では子を持つことは会社に裏切り行為とみられていた、原告が育児休業から復帰すると海外出張が完全になしになるなど窓際族にさせられた、被告で働く女性は結婚や妊娠をしたらハラスメントを受けるのは当然であったなどといった事実が摘示されていた。」

「そして、上記で認定、説示したとおり、原告は、母子手帳がないことを理由に育児休業申請を拒否されたことはなく、育児休業前に担当していた顧客を育児休業後も引き続き担当していたにすぎないし、また、育児休業後に業務を取り上げられるなど育児休業の取得を理由とした不利益な取扱いを受けたとは認められない。加えて、前記認定事実・・・のとおり、原告が子の出生を理由に出国したい旨P3に述べたときも、P3は即座に原告が休暇に入れるよう対応している。確かに、P3は原告にスプレッドシートの情報にアップデートがあればそれを反映しておくよう指示しているが・・・、スプレッドシートは原告の休暇ないし休業中、原告の担当顧客を機関投資家営業部の他の部員がフォローするに当たり最低限必要なものであり、原告もP3からの指示を受け、平成27年10月28日早朝には作成を終了している・・・。さらに、原告以外の被告で働く女性が結婚や妊娠をしたらハラスメントを受けていたとする点については真実であると認めるに足りる証拠はない。そうすると、原告が摘示した事実及び記事に摘示された事実はいずれも真実であるとは認められない。」

「そして、前記認定事実・・・のとおり、原告は、被告から、原告の発言が被告の信用及び名誉を傷つけ被告の利益を害する行為として戦略職就業規程に反する可能性があり、今後厳に慎むようにとの警告を受けていたにもかかわらず、これを無視し、国内外の記者から多数回取材を受け、ユーチューブに対談動画を配信し、さらには記事のリンク先を被告の親会社の広報アカウントの投稿のコメント欄に繰り返し貼り付けたり、記事及び対談動画のリンク先を自らのツィッターを利用して拡散したりするなどの方法で、被告の育児休業を巡る対応について客観的事実とは異なる事実を広く不特定多数人に伝え、被告は労働者に子ができるとハラスメントをする企業であるとの客観的事実とは異なる印象を与えようとしたものといえる・・・。

これらは、被告の信用を傷つけ又は被告の利益を損なうような行為があった場合(戦略職就業規程70条2号)に当たり、その違反の程度も軽いものではないといわざるを得ない。

「以上に対し、原告は、記事に引用された発言は原告の発言そのものではないから、記者の書いた記事をもって解雇理由とすることはできない旨主張するが、原告がインタビューに応じた趣旨が、被告は労働者に子ができるとハラスメントをする企業であることを広く社会に喧伝しようとしたものであることは前記のとおりであり、自己のその趣旨の発言が記事として掲載されることを認識し期待していたことはもとより、自己の発言がそのような趣旨で掲載されることを容易に予見することができたといえる。そして、原告は記事に掲載されている内容が原告の発言と異なる内容である旨の主張はしておらず、記事に掲載されている内容が原告の発言と異なる内容であると認めるに足りる証拠もない。

「したがって、上記原告の主張は失当であって採用することができない。」

原告は、本件のような労使紛争において社内的な解決を図ることができない場合に、裁判所を通じた法的措置をとり、その際に世論の喚起及び支援を求めて記者会見をし、取材を通して自らが訴訟において主張する事実関係を述べることは一般的に行われており、このような行為は表現の自由として憲法上保障されているから原告の前記各発言を原告の不利益に考慮することは許されない旨主張する。

原告が記者会見をして自らが訴訟において主張する事実関係を述べること自体は表現の自由によって保障されるものであることはもとよりであるが、表現の自由も他人の名誉権や信用など法律上保護すべき権利・利益との間で調整的な文脈での内在的制約に服さざるをえないというべきであって、記者会見における表現行為であるとの一事をもって、その内容がどのようなものであっても対第三者との間において許容されるべきことにはならないというべきである。かような観点からすれば、訴訟追行に必然的なものではない記者会見を通して広く不特定多数の人に向けて情報発信をした事実が客観的真実に反する事実により占められ、被告の名誉や信用等を侵害する場合、これを解雇理由として考慮することが許されないと解することはできない。

「したがって、上記原告の主張は失当であり採用することができない。」

3.提訴会見等には細心の注意が求められる

 裁判所は、記者会見による情報発信が、客観的真実に反していて、会社の名誉・信用等を毀損する場合に、これを解雇理由として考慮することを認めました。

 また、記事は記者の判断で書かれたものなのだから、それを理由に原告を解雇することはできないはずだとの理屈も受け入れませんでした。

 提訴記者会見は社会的な意義があることは確かですが、訴訟戦略的には慎重に考える必要があるのだと思います。事件の初期段階では何が真実なのかが鮮明に分からないことが多いうえ、記者による報道内容をコントロールすることは困難だからです。

 提訴記者会見に対する消極的な評価が固まったとまではいえないと思われますが、ジャパンビジネスラボ控訴審事件以降、裁判所の提訴記者会見に対する視線が決して暖かなものではないことを、労働者側は留意しておく必要があるように思われます。