弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

賃金仮払い仮処分-保全の必要性の理解が厳しすぎではないだろうか

1.賃金仮払いの仮処分

 解雇にしても賃金減額にしても、判決が言い渡されるまでの間には、かなりの時間を要するのが通例です。

 このタイムラグによって労働者が致命的な損害を受けることを避けるための仕組みに「賃金仮払いの仮処分」という手続があります。これは使用者に対して賃金を仮に支払うよう、裁判所に命令を出してもらうための手続です。迅速に判断が得られる労働審判の普及に伴って、従前ほど活発に利用されることはなくなりましたが、緊急性の高い事件や、労働審判に不向きの事件では、現在でもしばしば用いられてます。

 しかし、「賃金仮払いの仮処分」は、労働者側にとって、それほど使い勝手の良い制度ではありません。それは「保全の必要性」の要件が、あまりにも厳格だからです。

 保全処分が認められるためには、

被保全権利の存在と、

保全の必要性

が認められる必要があります。

 賃金仮払いの仮処分で保全の必要性が認められるためには、

「争いがある権利関係について債権者に生ずる著しい損害又は急迫の危険を避けるためこれを必要とするとき」(民事保全法23条2項)

である必要があります。

 物々しい枕詞がついていることから想像がつくように、「著しい損害」や「急迫の危険」は容易には認められません。配偶者等の収入まで開示したうえ、生活費の不足額が幾らなのかの特定まで求められるのが通例です。

 近時公刊された判例集にも、そうした裁判所の厳しい姿勢が表れた裁判例が掲載されていました。大阪地決令3.10.14労働判例ジャーナル120-60 南海興行事件です。

2.南海興行事件

 本件は賃金支払の仮処分事件です。

 債務者になったのは、産業廃棄物の収集・運搬・中間処理等を目的とする株式会社です。

 債権者になったのは、債務者との間で労働契約を締結している労働者の方です。令和2年5月以降、それまで月額合計28万円であった賃金を月額合計23万円にまで一方的に引き下げられました。こうした措置を受け、賃金の仮払を求める仮処分の申立をしたのが本件です。

 本件では保全の必要性が認められるのか否かが争点となり、債権者は次のとおり主張しました。

(債権者の主張)

「債権者は、妻C(以下『C』という。)及び義父D(以下「D」といい、債権者、C及びDを併せて債権者世帯」という。)とともに、清澄寺所有の土地上にある平家建建物に居住しているところ、債権者世帯の収入は、債権者の債務者からの賃金収入及びDの年金収入であり、そのうちDの年金収入は2か月で約35万円である。一方、債権者の賃金収入に係る1か月の手取り額は、本件減額前まで21万3485円であったが、本件減額後16万7355円に減少している。」 

「一方、Cは、睡眠障害、うつ病等を発症しており、病弱で足に障害があり、通院が欠かせず、要支援2の認定を受け、日常生活に支援が必要な状態であって、稼働できない状態にある。また、Dも、要介護4の認定を受け、介護老人保健施設に入所しており、稼働は困難である。したがって、債権者世帯の収入の増加は見込めない。」

「債権者世帯の支出の状況は、令和3年2月及び同年3月が別紙1、同年6月及び同年7月が別紙2の各家計収支表のとおりである。」

「C及びDは定期的に通院し、薬の処方も受けており、債権者世帯の令和2年の医療費支出は20万1780円に上っていた。そのほか、債権者世帯は、年1回清澄寺に地代を支払っている。債権者は、生活費が不足した場合には、三井住友銀行のカードローンで賄っている。。」

「しかも、Dは、かねてからアルツハイマー型認知症及び高血圧症を発症していたところ、令和3年4月15日に急性心不全等で救急搬送されてそのまま入院した。Dは、寝たきりとなって、自宅に戻ることができる状態ではなくなったため、同年5月20日に退院した後、特別養護老人ホームに入所し、要介護4の認定を受け、同年6月10日以降、介護老人保健施設に入所している。この間、債権者は、Dの入通院治療費として25万8780円、特別養護老人ホームの利用料金として7万8231円を要したほか、介護老人保健施設の利用料及び日用品や肌着のリース料として、同年6月10日から同月30日までの21日間で合計9万6432円を要した。今後もDが同施設に入所し、同様の割合で利用料等を支払うとすると、1か月当たり13万7760円を要することになり、同人の年金を含めた債権者世帯の1か月当たりの収入額36万4795円からこれを差し引くと、残額は22万7035円となり、債務者指摘の勤労者世帯の消費支出額を大きく下回る。」

「なお、保全の必要性の判断に当たっては、標準生計費の額を基準とすべきではない。債権者世帯は、Dが要介護4で施設入所を余儀なくされ、Cも要支援2の状態にあり、債権者だけが稼働可能であり、Dの入所施設からの連絡等に対応できるのも債権者だけであり、自宅でも家事やCの日常生活の支援をしているところ、標準生計費はそのような世帯を前提としていない。」

「債権者世帯には、預貯金を含めてめぼしい資産はなく、本件減額により、債権者世帯は生活に窮しており、カードローンによる借入金で本件減額による差額分を調達し、生活を賄っている状況にあって、令和3年3月2日の時点でのカードローンによる借入金の残高は164万6116円であり、令和2年5月2日時点での100万7965円から増加している。Dの入院費用等を支払うために借り入れた後の令和3年7月26日の時点では、192万4839円と借入金の残高がさらに増加している。」

「以上によれば、現在の状態が続くと、債権者世帯は生活に窮し、回復し難い損害を被ることになる。よって、本件申立てにつき保全の必要性があるというべきである。」

 しかし、裁判所は、次のとおり述べて、保全の必要性を認めず、債権者の申立てを却下しました。

(裁判所の判断)

「債権者は妻C及び義父Dと同居していたところ、本件減額後の債権者世帯の1か月当たりの収入は、令和3年2月及び同年3月が36万4795円、同年6月及び同年7月が36万9307円であるのに対し、3人世帯の令和2年4月の標準生計費は1か月当たり17万6230円とされていて、債権者世帯の収入はこれを大きく上回っている。

「また、本件減額前と本件減額後の賃金の手取り額の差額は、令和2年9月分から令和3年3月分までが1万9827円、同年6月分及び同年7月分が1万6144円といずれも2万円に満たず、差が大きかった令和2年5月分から同年8月分までについても4万4730円ないし4万6130円であり、その余の収入が令和3年2月及び同年3月と同じであると仮定すると、1か月当たりの債権者世帯の収入減少率は、最大でも11%程度(=4万6130円÷(4万6130円+36万4795円))にとどまるのであって、債権者主張の医療費等を考慮しても、月5万円の仮払を命じなければ、債権者の生活の維持が困難となり、著しい損害が生じるおそれがあるとは言い難い。」

「もっとも、前記・・・の認定事実によれば、Dは、令和3年6月10日以降介護老人福祉施設であるFに入所し、これにより1か月当たり14万円程度の利用料等の支出が生じているほか、令和3年8月にも入院治療を受け、10万円程度の医療費を支出していることが認められる。」

「この点、介護老人保健施設は、要介護者であって、主としてその心身の機能の維持回復を図り、居宅における生活を営むことができるようにするための支援が必要である者に対し、施設サービス計画に基づいて、看護、医学的管理の下における介護及び機能訓練その他必要な医療並びに日常生活上の世話を行うことを目的とする施設であり(介護保険法8条28項)、Fの事業目的及び運営方針においても、居宅における生活への復帰を目指すことが挙げられており、入所期間は原則3か月単位とされていること・・・からすると、現在の支出の状況が今後も続くものとは直ちには認め難い。」

「仮に、これが継続するものとして債権者世帯の収支の状況についてみても、前記・・・の認定事実によれば、債権者世帯の令和3年6月分及び同年7月分の1か月当たりの収入は36万9307円であるのに対し、Dの同年7月分のFへの入所費用等は合計14万1259円であるから、これを控除すると、その残額は22万8048円となり、令和2年4月の2人世帯の標準生計費15万3040円(乙5)を7万円以上上回ることになる。なお、債権者は、標準生計費との比較で保全の必要性を判断すべきではないと主張するが、標準生計費は、標準的な生活モデルを設定し、その生活に要する費用を算定したものである・・・から、仮払を命じる必要があるかどうかを判断するに当たって参考にすべきものといえる。債権者の主張は採用できない。」

「そのほか、債権者は、〔1〕令和3年4月にDが救急搬送されたことによる合計25万5480円の医療費やその後の特別養護老人ホームへの入所費用7万8231円を負担したこと、〔2〕Cが定期的に通院しており、その医療費の負担が見込まれること、〔3〕本件減額によりカードローンの残高が増加し、その返済を要すること、〔4〕債権者は、Dの入所施設からの連絡に対応し、Cを自宅で支援し、家事をこなす必要もあること、〔5〕カードローンの融資枠が近いうちになくなることなどを指摘する。
 しかしながら、〔1〕については、令和3年4月の救急搬送に加え、同年8月にも入院し、治療費として10万円程度の支出を要してはいるものの、基本的には一時的な支出にとどまるといえる上、高額医療費制度の適用により、負担が相当程度軽減されるものと見込まれる。また、〔2〕については、標準生計費の算定に当たっては、一定の医療費支出が考慮されている・・・上、前記(1)の認定事実によれば、債権者世帯の医療費は、Dが同居していた令和2年分で20万1780円、1か月当たり1万6815円にとどまり、令和3年2月分も1万2770円、同年3月分も9010円にとどまっている。Dが入院し又は施設で入所するようになった後についても、同年6月分が2万2357円、同年8月分がC分で1万0900円にとどまり、同年7月分は27万9820円であるものの、これにはDの入通院に伴う医療費25万5480円が含まれているものと推認され、これを除くと2万4340円となるから、医療費の支出状況に変化はないものと認められるのであって、これらの負担内容に照らすと、Dを除く債権者世帯の医療費は、その収入で十分賄うことができるものといえる。〔3〕については、カードローンの返済についても、そもそも、前記(1)の認定事実によれば、令和2年5月2日時点で既に100万円以上の借入残高があり、本件減額の以前に借入れたものが相当含まれていると考えられ、また、その残高が増加している原因には、残高の増加に伴う利払額の増加も考えられるのであって、本件減額のみがその原因とは認められない。実際の返済額をみても、1か月の返済額は3万2000円にとどまっており(なお、令和3年7月26日時点での返済予定額は2万5000円となっている(甲29〔4〕))、今後、生活を見直すことにより、借入金やその返済額を減らすことも可能と考えられる。〔4〕については、Dの施設からの連絡については、どの程度の頻度でこれがあるのかは本件疎明によっても不明であり、Cの自宅での支援や家事への従事等を含め、これがどの程度の収入の減少又は支出の増加をもたらすのかもやはり不明といわざるを得ない。」

「だとすれば、DのFへの入所が今後継続するとしても、本件減額に係る差額分の未払の状況が続くことにより、債権者の生活の維持が困難となり、著しい損害が生じるおそれがあるということはできない。」

3.世帯収入を見られる/標準生活費のような画一的指標が影響力を持つ

 保全の必要性を判断するにあたっては、この裁判例にみられるように、しばしば世帯単位での収入を明らかにするように求められます。家族の収入を詳細に明らかにすることに関しては、当該家族のプライバシーとの関係から不適切ではないかという疑問があります。しかし、裁判所は、基本的に、世帯の他の構成員の収入まで全部明らかにすることを求めています。

 また、標準生計費とは、標準的な生活モデルを設定し、その生活に要する費用を算定したものをいいます。人事院が国家公務員の給与勧告を行う際に活用されている資料です。

統計局ホームページ/統計FAQ 16C-Q05 平均的な生活費(標準生計費)

 その家族が生計を維持するために必要な金銭は、個別の事情が大きく作用するはずです。しかし、保全の必要性を判断するにあたっては、個別の事情を捨象した画一的な指標が影響力を持っています。

 余程高給であったり多額の資産が蓄積されてでもいない限り、一方的に賃金を減額されれば家計を直撃することは明らかであり、それをもって保全の必要性が認められても良さそうに思われますが、裁判実務がそうした発想で動いていないことは注意する必要があります。