弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

望まない子をもうけさせられた男性の慰謝料

1.不妊治療中の夫婦の破局

 不妊治療には強い負荷がかかります。

 精神的な負荷について言うと、平成 30 年 1 月 厚生労働省 政策統括官付政策評価官室 アフターサービス推進室「不妊のこと、1 人で悩まないで『不妊専門相談センター』の相談対応を中心とした取組に関する調査」には次のような記述があります。

治療の過程では、痛みを伴う採卵や複数回の注射による下腹部の腫れなどの身体的負担や服薬によるイライラ感、落ちこみなどの精神的変調など身体的・精神的な苦痛を伴うことが多い。治療の対象は主に女性のため、このような種々の苦痛や負担は女性に集中している。」

不妊をめぐる悩みは個人の人生に関わる問題であることから、治療内容や方向性について常に選択と決断に思い悩むことになる。不妊治療を続ける方の中には、身体面や精神面、経済面の負担感とともに、妊娠・出産に到らない辛さ、夫婦(パートナー)間の関係性の変化、生活と治療の調整、治療の休息や終結の決断など、様々な悩みが生じていくことがある。また、通院先の医療機関に対しては、結果が伴わない治療内容や医療者とのコミュニケーションに不安とストレスを感じ、医療機関の窓口へ悩みを相談することが困難な場合もある。治療の結果は常に期待と不安が伴い、心理的な切迫感はジェットコースターに例えられることもあるほど心身とも疲弊する。パートナーや家族への申し訳なさから生じる自責の念や、子どものいる友人と疎遠になるなど、身近な人びとへのネガティブな感情や環境の変化が起こることもある。」

https://www.mhlw.go.jp/iken/after-service-20180119/dl/after-service-20180119_houkoku.pdf

 また、不妊治療には多額の経済的な負荷も発生します。上記調査によると、体外受精や顕微授精などの生殖補助医療は保険適用外とされているため、1回 20 万円~70 万
円を要する場合もあるとされています。

 しかも、頻回に渡り医療機関から指示された日に通院することが必要になるため、仕事と不妊治療の両立状況に関しては、厚生労働省から、

両立できずに仕事を辞めた方が16%

両立できず雇用形態を変えた方が8%

もいるとのデータが示されています。

https://www.mhlw.go.jp/bunya/koyoukintou/pamphlet/dl/30k.pdf

 このように精神的にも経済的にも強い負荷がかかるうえ、職業生活上の影響も大きいことから、不妊治療がきっかけとなって関係が悪化し、離婚に至る夫婦は少なくありません。

 それでは、夫婦間の関係が悪化したことにより、夫が不妊治療を行う意思をなくしてしまった後、そのことを知りながら妻が融解胚移植を受けて妊娠・出産した場合、妻は夫に対して法的な責任を負うのでしょうか。負うとして、その慰謝料はどの程度になるのでしょうか。

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令2.3.12判例時報2459-3です。

2.大阪地判令2.3.12判例時報2459-3

 本件は妻(被告A)が夫(原告)の同意がないことを認識しながら、融解胚移植を受け、妊娠、出産に至った事件です。出産後、夫婦は離婚に至っています。こうした事実関係のもと、原告は、被告に対し、慰謝料等の損害賠償を求める訴訟を提起しました。

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、不法行為の成立を認め、被告Aに対し、慰謝料800万円の支払いを命じました。

(裁判所の判断)

「原告と被告Aとが取り組んだ別居に至るまでの体外受精の状況、別居後の体外受精の状況、別居後本件移植に至るまでの夫婦関係の状況に照らせば、原告は、別居直前まで、各同意書に自ら署名し、被告Aの求めに応じて精子を提供するなど体外受精に積極的に協力していたところ、被告Aに対し、別居開始時点において、離婚前提の別居であるとして不妊治療は中止してほしいと伝えておらず、別居後も、再度の同居の可能性を留保したやり取りをしていること、原告は、被告Aが別件手術後の不妊治療を前提として同手術を受けることを認識した上で、病院を訪問するなどしていることからすると、原告は、別居後少なくとも一定期間は、原告との子を懐胎することを前提とした被告Aの不妊治療の継続を認識しつつこれを中止するよう求めていなかったものであり、被告Aにおいても、原告が不妊治療の継続に反対していると認識していたとはいえない。」

しかしながら、本件移植を行うに際しては原告の同意を要するものであったことは事柄の性質上明らかであるところ、原告と被告Aとは、そもそも夫婦関係が良好ではなかったために別居するに至っており、その後、両者の関係が改善に向かっていたとはいえないこと、原告が、被告Aに対し、遅くとも平成26年12月20日の時点において、不妊治療について積極的ではない態度を示していたことに加えて、認定事実・・・のとおり、原告が、被告Aからの本件子の懐胎の連絡に対して拒否的な反応を示したこと、被告Aが、原告の母親に対する手紙において『何度もこんなまま移植すべきでない事も考えました』と記載しており、原告に対するLINEメッセージにおいても『同意書は遠方であっても原告に署名してもらうべきであったことは分かっていたが、一刻を争う移植に際してそこまではできなかった』旨記載していることを指摘できることからすると、原告は、被告Aが本件同意書2に原告名の署名をした平成27年4月20日時点において、本件移植に同意していなかったものと認められ、被告Aも、同時点において、原告が本件移植に同意していないことを認識していたか容易に認識し得たものであったと認められる。

したがって、被告Aは、原告に対し、被告Aとの間で本件子をもうけるかどうかという自己決定権を侵害するなどした不法行為責任を負うものである。

(中略)

原告は、被告Aとの間で本件子をもうけるかどうかという自己決定権を侵害されるなどしたものであって、これにより多大な精神的苦痛を被ったというべきところ、・・・本件に顕れた一切の事情に照らせば、慰謝料は800万円が相当である。

3.本件のような紛争はレアケースだろうか

 訴訟になる例は、それほど見聞きしたことはありませんでしたが、本件のような紛争はレアケースというわけではなさそうに思います。

 被告Aは出産後、原告に対して次のようなLINEを送ったと認定されています。

「同意書の事は遠方でも○○○(原告)にして貰うべきやったのは分かってる。LINEしても既読になるのに3日かかり返事もくれず連絡もつかずの状態で一刻のタイミングを争う移植に対してそんなことしてられなかった。それに対して罰せられるなら甘んじて受けます。(中略)目的分かってて別居決まっても協力してたし、手紙も送って私が移植に向けて進めてたこと知ってたのに放置して最後は全く同意してないと言えるの?」

「どうすればよかったの? 移植はやっぱり嫌になりましたと言われてそれまで必死で身体にメス入れて頑張ってきてるのに○○○(原告)がそう言うからと生涯子供を持つ事も諦め、したくない離婚も納得もできないまま受け入れろと?」

 不妊治療をきっかけに関係が悪化し、別れることを選ばざるを得なかった夫婦で、上述のような気持ちになる妻がいるであろうことは察するに難くありません。これは被告元妻の側が特殊な価値観を持っているというわけではないのだろうと思います。

 ただ、だからといって、男性側の子をもうけるかどうかの自己決定権を無視することが法的に許容されることはありません。事柄を重大に捉えたのか、裁判所は800万円という高額の慰謝料を認定しました。

 目を通していて胸の痛くなるような事件ではありましたが、潜在しているであろう同種事案の参考になると思われたため、備忘を兼ねて記録しておくことにしました。