1.医療機関の責任
昨日、夫氏名欄の署名を偽造した同意書を不妊治療を行う医療機関に提出し、融解胚移植を受けて妊娠、出産した女性に対し、男性側への損害賠償金の支払いが命じられた裁判例を紹介しました。
望まない子をもうけさせられた男性の慰謝料 - 弁護士 師子角允彬のブログ
本件で男性から訴えられたのは、妊娠、出産した女性(被告A)だけではありません。融解胚移植を実施した医療機関(被告医療法人B)と、その理事長(被告C)も、女性と連帯して損害賠償するように訴えられました。その論旨は、要するに、筆跡の同一性を確認するなどして偽造に気付き、原告男性本人に直接意思確認をすべきであったのに、これを怠ったという点にあります。
こうした請求がなされたことから、大阪地判令2.3.12判例時報2459-3は、不妊治療を行う医療機関の注意義務を考えるにあたり、参考になる判示も残しています。
2.医療機関の注意義務
裁判所は、次のとおり判示し、男性側が先行して提出していた同意書に自署して以降、医療機関側に同意を撤回するとの意思表示をしていなかったことなどに着目し、不法行為の成立を否定しました。
(裁判所の判断)
「認定事実(1)カのとおり、原告が本件同意書1に自署しているところ、同書面には、手術前に取りやめたくなった場合には同意書を取り下げることができると明確に記載されていることを指摘できるところ、原告が、本件移植以前に、被告医療法人Bらに対して、同意を撤回するとの意思表示をしていないことに照らせば、被告医療法人Bらは、胚移植の同意を含む本件同意書1に顕れた原告の同意に基づき、本件移植を実施したと認められる。」
「そして、本件同意書2の原告の署名は、その体裁に照らして、原告の従前の署名と対比して異なることが容易に判明するものであるとはいえない上、学会の見解(会告)においても、本件各同意書の書式及び作成方法はこれに沿ったものであり、同意書への署名以外に、本人に直接電話をかけるなどしてその同意を確認することまでを推奨してはいないから(認定事実(1)カ)、このような取り扱いが不妊治療についての医療水準として不相当なものとはいえないことに照らすと、原告が主張するその他の事情を考慮しても、被告医療法人Bらが、本件移植に際して、原告に対し、直接の意思確認をすべきであったのにこれを怠ったとは認められない。」
「以上によれば、被告医療法人Bらが、原告に対し、不法行為責任を負うとの原告の主張は採用できない。」
3.直接の意思確認を行う義務までは否定されたが・・・
判決文で引用されている「認定事実(1)カ」とは、次の事実です。
「被告A及び原告は、平成26年4月10日、同日に実施する体外受精について、以下の内容を含む本件同意書1に各自、署名押印し、被告Aはこれを本件クリニックに提出した。」
「なお、本件同意書1は、下記①~③等が一体となった1枚紙であり、それぞれの同意文言の下に夫婦それぞれのイニシャルを記載する欄があり、書面末尾に、本件クリニック院長(被告C)宛てで、日付及び夫婦それぞれの氏名を署名押印する欄が設けられている。
①『体外受精・顕微授精に関する同意書』
a 体外受精・顕微授精における採卵手術を受ける事は、夫婦それぞれの自由な意思の下に一致した意見であり、強要されたものではありません。手術前に取りやめたくなった場合には、同意書を取り下げることができます。
b 体外受精・顕微授精にかかる費用等についてその内容を理解したうえで私達夫婦それぞれ自由な意思の下に夫婦一致で体外受精・顕微授精を行うことに同意いたします。
②『卵子、受精卵(胚)の凍結保存に関する同意書』
私達夫婦は体外受精・顕微授精で採取した卵子、受精卵(胚)の凍結保存に同意します。(中略)受精卵(胚)の凍結期間は1年であり、それ以降の継続に、毎年、継続意思確認書類の手続きと費用の支払いが必要であることを理解しています。
③『凍結保存受精卵(胚)を用いる胚移植に関する同意書』
私達夫婦は凍結保存してあった受精卵(胚)を用いての胚移植に同意します。」
「学会によれば、体外受精・顕微授精について文書にて同意することを求めており、書式は定めていないものの、5年ごとの会告の更新時に、各施設で作成された同意書について様式を確認の上、施設認定を行っているため、本件同意書1は、学会の見解(会告)に準拠したものである。」
「また、学会によれば、同意は署名のみで足り、押印は求めておらず、医師の面前で署名をすることも必要とされないし、直接電話等で意思確認を行うことを推奨してはいない。・・・」
学会(公益財団法人日本産婦人科学会)の見解に準拠していた医療機関にとっては、被告として訴えられること自体、晴天の霹靂であったかも知れません。
しかし、注意義務を措定するうえでの重要な参考資料にはなるものの、裁判実務では学会見解に従ってさえいれば自動的に過失なしとされるわけではありません。本件においても、筆跡が顕著に異なっていれば、別異の判断があり得たかもしれません。
昨日書いたとおり、不妊治療が契機となって破局する夫婦は少なくありません。身の回りでそれなりに見聞きしますし、私自身の実務経験に照らしても、そうした離婚事件は複数扱ったことがあります。
医療機関の側も、不妊治療中に夫婦関係が悪化することが珍しくないことを認識したうえ、先行して同意書がとられていた場合、筆跡の対照程度のことは実施し、それが顕著に異なる場合には夫側の来院を求めるなど直接的な意思確認をしておいた方が無難かも知れません。