弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

一定期間の労働時間から他の期間の労働時間が推計された事例

1.時間外勤務手当等の請求と推計方式

 時間外勤務手当等を請求しようと思っても、タイムカードなどの客観的方法で労働時間管理がされていないことがあります。こうした場合、メールの送信履歴など、タイムカード以外の証拠に基づいて労働時間を主張、立証して行くことになります。

 こうした主張、立証は、しばしば安定性を欠くものになりがちです。会社側は、メールは社外から私用のPCで発出したものであるだとか、終業後に暫く休んだ後に送信したものであるだとか、様々な主張を展開して労働時間を削り取ろうとしてきます。

 時間外勤務手当等の請求権の消滅時効期間は3年です(労働基準法115条、同法附則143条3項参照 なお、今年の3月31日までは2年でした)。

 特定の労働日の始業時刻、終業時刻、休憩開始時刻・休憩終了時刻が何時なのかを具体的に認定することは、かなり大変なことです。この大変な作業を730日分ないし1095日分やるとなると、途方もない作業量が想定されます。

 こうした場合に、作業量を合理的な限度に減らす方法として、サンプルを用いる手法があります。例えば、特定の1~2か月についてのみ徹底的な主張・立証活動を行い、そこから得られたデータをもとに、他の期間の労働時間を推計して行くという手法です。

 ただ、個人的な実務経験の範囲内で言うと、サンプル方式での時間外勤務の立証は、原告・被告双方の合意がある場合を除き、裁判所は慎重な姿勢をとることが多いように思われます。

 サンプル方式を用いざるを得ない場合、その原因の多くは、使用者側が労働時間管理を客観的方法で行っていなかったことにあります。原告側がサンプル方式を主張しているにもかかわらず、労働時間管理を懈怠していた被告側が各日についての具体的な主張・立証に拘り、泥沼化と訴訟遅延を図る現象に関しては、常々問題だと思っていました(合理的に考えれば、そのようなことをしても遅延利息が累積するだけで使用者側に何のメリットもないため、読者の方は不思議に思われるかも知れませんが、なぜか、そうした姿勢をとる代理人はいるのです)。

 裁判所を説得するため、原告・被告双方の合意がないことを前提に、サンプル方式で労働時間を推計した事案がないかと探していたところ、近時の判例集に参考になりそうな裁判例が掲載されていました。東京地判令元.12.25労働判例ジャーナル100-56 MURAX事件です。

2.MURAX事件

 本件は、a、b2名の原告が、時間外勤務手当等の支払を求めて、勤務先会社を提訴した事件です。

 原告aは、平成27年5月1日に雇用契約を締結し、平成27年11月30日に被告を退職しました。原告bは、平成27年10月頃に雇用契約を締結し、平成28年7月に被告を退職しました。

 原告側は、原告aの労働時間について、平成27年9月度から同年11月度までの始業時刻及び終業時刻を特定したうえ、その他の請求期間については、平成27年9月度と平成27年10月度の平均をとって推計すべきと主張しました。

  被告は、当初、代理人弁護士3名を訴訟代理人として訴訟追行し、原告の主張を争っていました。しかし、代理人弁護士は第10回弁論準備手続期日の1週間前に辞任し、その後、被告は事業所を閉鎖しました。被告代表者との音信も途絶えたため、以降の裁判は公示送達(裁判所の掲示板に文書を公示する方法で連絡を行うこと。裁判所の掲示板を見に来る方は現実には殆どおらず、連絡が通ることは先ず考えられない)を行いながら行われました。

 こうした審理経過のもと、裁判所は、原告a、原告bの労働時間を、次のとおり認定しました。

(裁判所の判断-終業時間の認定について)

「原告aに係る本件請求期間につき、平成27年9月1日から同年11月19日までの間、原告aが、上司に対し、業務に関するラインを送信していることが認められるもので、これによれば、同原告が、少なくとも上記各ラインの送信時刻まで被告の業務に従事していたと推認されるところ、他にこれに反する証拠も存しないことからすれば、上記期間中については、同ラインの最終送信時刻をもって原告aの終業時刻と認めるのが相当である。

「また、本件請求期間のうちその他の期間については、上記のようなラインの送信履歴を含めて、終業時刻を直接裏付ける証拠は存しないものの、平成27年9月1日から同年11月19日までの間の終業時刻が上記のとおりに認められ、これによれば大多数の日において終業時刻が午後8時30分以降となっていることや、証拠・・・によれば、原告aが被告在職中、ほぼ毎日不動産物件情報の入力に従事し、1日100件の情報入力がノルマとされていたことが認められるところ、原告aにおいて、同業務への従事が毎日夜間にまで及んでいた旨供述していること・・・に照らすと、上記期間については、原告aは少なくとも午後8時30分までは業務に従事していたと推認するのが相当であって、他にこれに反する証拠も存しないことからすれば、同時刻をもって終業時刻と認めるのが相当である。

(中略)

原告bに係る本件請求期間につき、平成27年11月10日から平成28年2月29日までの間、原告bが、上司に対し、業務に関するラインを送信していることが認められるもので、これによれば、同原告が、少なくとも、上記各ラインの送信時刻まで被告の業務に従事していたと推認されるところ、他にこれに反する証拠も存しないことからすれば、上記期間中については、同ラインの最終送信時刻をもって、原告aの終業時刻と認めるのが相当である。
「また、本件請求期間のうちその他の期間については、上記のようなラインの送信履歴を含めて、終業時刻を直接裏付ける証拠は存しないものの、平成27年11月10日から平成28年2月29日までの間の終業時刻が上記のとおりに認められ、これによれば大多数の日において終業時刻が午後8時30分以降となっていることや、証拠・・・によれば、原告bが被告在職中、ほぼ毎日不動産物件情報の入力に従事していたことが認められるところ、原告bにおいて、同業務への従事が毎日夜間にまで及んでいた旨供述していること・・・に照らすと、上記期間については、原告bは少なくとも午後8時30分までは業務に従事していたと推認するのが相当であって、他にこれに反する証拠も存しないことからすれば、同時刻をもって終業時刻と認めるのが相当である。

3.一定期間の労働時間に基づく他の期間の労働時間の推計

 本件はラインの送信履歴が残っていた一定期間の終業時刻をもとに、他の期間の終業時刻を推計するという手法を採用しました。

 判決文に推計を用いることに原告・被告双方の合意があったとの記載がないことや、本件の審理経過に鑑みると、おそらくこの推計手法は裁判所が公権的に採用したものではないかと思われます。

 被告が途中から訴訟追行を放棄したという特殊性はあるにしても、被告の了承が必ずしも推計方式を採用してもらう上での妨げにならないことを示す一例として参考になるのではないかと思われます。