1.労働者の退職と懲戒権の行使
懲戒権の理論的根拠については「就業規則などの労働契約」に求める見解(契約説)が有力です。判例が契約説に依拠しているのかには、なお議論がありますが、水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、初版、令元〕550頁以下には、
「判例は、就業規則などの労働契約上の根拠に基づいて懲戒を行うことができるとする契約説・・・的な立場に移行しているとの理解が学説上広がっている」
との現状認識が示されています。
懲戒権の理論的根拠を使用者の経営権(固有園)に求めるのか、契約に求めるのかという対立と必ずしも結びつくわけではありませんが、労使間の労働契約が終了してしまえば、当然、使用者が労働者に懲戒権を行使する根拠がなくなります。そのため、一般論として言うと、退職後の労働者に対して懲戒処分を科することはできないと理解されています。例えば、大阪地判昭58.6.14労働判例417-77 宝塚エンタープライズ事件は、
「右退職届を被告が受け取った時に、原告らが即時被告を退職する旨の合意が成立した、というのが相当であり、従って、その後に被告が原告らに対し懲戒解雇の意思表示をしたとしても、既に、本件雇用契約が右合意により消滅している以上、右懲戒解雇は効力を有しないというべきである」
と判示し、退職後の懲戒解雇の効力を否定しています。
それでは、使用者が、退職後の労働者に対し、在職中の非違行為をとらえ、「懲戒処分『相当』」なる概念を用い、給与の一部の自主返納を求めるなどして、事実減給処分を行ったのと同じような状態を実現しようとすることは許されるのでしょうか?
この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。名古屋地判令4.12.6労働判例ジャーナル132-60 公益財団法人神戸医療産業都市推進機構事件です。
2.公益財団法人神戸医療産業都市推進機構事件
本件で被告になったのは、神戸医療産業都市の推進に係る企画立案等の事業を行っている公益財団法人(被告財団)と、その理事兼職員の方(被告c)です。
原告になったのは、被告財団の理事であるとともに、被告財団が設置する「医療イノベーション推進センター」(TRI)のセンター長を務めていた方です。令和2年6月30日に理事を退任・センター長を辞職しました。
しかし、被告財団は、原告の在職中に非違行為があったとして、令和2年7月30日、理事会において懲戒処分相当と決定したことを通知するとともに、自主返納として減給相当額2万2943円を被告財団に支払うことを依頼する文書を送付しました。
ここで問題視された「処分相当理由」は、次の二点です。
「昨年度、外部の人物に対し、被告財団の内部情報や被告財団に対する誹謗中傷等を含むメールを複数回送信した。」(本件理由〔1〕)
「ハラスメントに関する経営企画部による調査に不当に干渉した。」(本件理由〔2〕)
本件では、退職により懲戒権を失っているにもかかわらず、「懲戒処分『相当』」なる名目で給与の自主返納を求める措置の適否が問題になりました。
裁判所は、次のとおり述べて、「本件懲戒処分相当」に違法性はないと判示しました。
(裁判所の判断)
「本件理由〔1〕及び〔2〕のいずれについても、事実に反するとは認められない。したがって、本件懲戒処分相当について、その理由は事実に反するものであり、原告の名誉感情を侵害するものであるとの原告の主張は、その前提を欠くものとして採用することができない。」
「また、原告が退職して懲戒処分を行うことができないことから、0.5日分の賃金を自主返納という形で支払を求めることは、社会的相当性を欠くものとはいえず、本件懲戒処分相当の決定をして原告に通知したことが不法行為に当たると認めることはできない。」
「したがって、本件懲戒処分相当が不法行為に当たるとして損害賠償を求める原告の請求は理由がない。」
3.本当にそれでいいのか?
裁判所は、以上のとおり、「本件懲戒処分」に違法性はないと判示しました。
労働契約が終了し、懲戒権を行使することができなくなっているのに、減給処分を行ったのと同様の金銭を支払うよう督促をかけることがなぜ問題にならないのかは良く分かりません。
また、「職員B」という表記にはなっていたものの、被告財団は本件に関するホームページ上に記者会見発表資料を掲載してもいたようです。
要するに、世間一般に非違行為を喧伝し、そのプレッシャーをもって、減給部分を支払わせようとしたものであり、このようなプレッシャーの掛け方、は事実上の強制ではないかと思います。
裁判所は、自主返納の要請に応じる義務がないことを理由として、債務不存在確認請求訴訟を提起することは認めました。結論としても、2万2943円(減給処分相当額)の債務が存在しないことを認めています。このように債務不存在確認請求との関係で訴えの利益等を認めていれば十分と考えたのかも知れませんが、債務不存在確認請求訴訟という重たい法的手続をとらない限り延々と世論を背景にした任意のお願いをされかねないのではないかという懸念があります。
判断の内容には強い違和感があります。
とはいえ、公刊物に掲載された以上、類似の手法がとられる可能性はあり、どのような争い方をするのかは、予め考えておく必要がありそうです。