弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

労使慣行の成立要件の緩和?-就業規則の規定に反する黙示の合意の認定

1.労使慣行の法的効力をどうみるか

 労使慣行に法的効力が認められる要件について、裁判例は、

①長期間にわたって反復継続して行われ、

②労使双方がこれを明示的に排除しておらず、

③当該慣行が労使双方(特に使用者側は当該労働条件について決定権または裁量権を有する者)の規範意識によって支えられている場合には、

黙示の合意または事実たる慣習(民法92条)として法的効力が認められるとの立場をとっています。

 このような裁判例の立場に対しては、

「契約当事者の意思を補充するにすぎない『事実たる慣習』の判断において規範意識(規範性)の有無(③)を問う必要があるかは疑問であり、また、一企業内の取扱いにすぎないものに『事実たる慣習』の成立を認めることには解釈上無理がある。労使慣行については、

①一定の事項について当事者がこれによるという意思をもって行動し、

②この点について両当事者の意思が合致している(意思表示の合致)といえる場合に、

黙示の合意が成立しているとして法的効力を承認するという構成をとるべきであろう」

という有力な批判がなされています(以上、冒頭も含め、水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、初版、令元〕237頁参照)。

 裁判例が採用する労使慣行に法的効力が認められる基準は厳格にすぎるのではないかと思っていたところ、近時公刊された判例集に、黙示の合意構成に親和的な裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介させて頂いた、東京地判令4.2.9労働判例ジャーナル125-52 キレイラボカンパニー事件です。

2.キレイラボカンパニー事件

 本件で被告になったのは、クリニック、病院及びエステティックサロンの企画等を目的とする株式会社です。

 原告になったのは、被告の経営する美容皮膚科クリニック(本件クリニック)で勤務していた方です。退職した後、未払賃金(基本給+交通費)等の支払いを求めて被告を提訴しました。

 このうち交通費の請求に関し、被告は、

被告の賃金規程(乙6)16条は、通勤手当につき、『最も経済的・合理的な方法による経路の定期券代(バス利用については利用距離が1.5km未満の場合は不支給)を月額5万円を上限として支給する』ものと定めているから、被告が原告に対して支払うべき交通費は定期代に限られる。」

「確かに、原告が就労していた間、被告は実費で交通費を支給していたが、これは被告のミスによるものであって、実費での交通費を支給するとの合意が成立していたものではない。」

と述べ、支払義務を負うのは定期券代の範囲内に留まると主張しました。

 これに対し、原告は、

「原告と被告の間においては、原告が本件クリニックに出勤する際の交通費について、実費(1日当たりの往復運賃に当月の出勤日数を乗じた金額)を支払うとの合意が成立していた。上記合意が成立していたことは、原告が被告で就労していた間、実際に実費で交通費が支給されていたことから明らかである。」

「被告は、被告が支払うべき交通費は定期代のみである旨主張するが、被告からそのような説明がなされたことはなく、被告の主張する賃金規程を見せられたこともない。」

と述べ、交通費は実費支給だと主張しました。

 こうした当事者双方の主張を受け、裁判所は、次のとおり述べて、原告の請求を認めました。

(裁判所の判断)

「証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、被告は、令和元年9月分から同年11月分までの本件クリニックへの通勤に要する交通費として、1日当たりの往復運賃(実費)である412円に各月の出勤日数を乗じた金額を支給していたことが認められる。

「かかる支給方法が採られていたことからすると、被告は、上記期間における交通費について、それが実費であって定期代ではないことを当然に認識し、被告が支払うべき交通費として承認した上で支払っていたものと推認できる。そして、上記支給方法は原告と被告との間で雇用契約が締結された当初から採られていたもので、原告が本件クリニックで就労していた令和2年1月10日までの間に、同支給方法に変更を生ぜしめるような事情があったとも認められない(証拠上、原告の就労状況に変化があったとか、原告と被告との間において交通費の金額をめぐって問題が生じていた等の事情は見当たらない。)から、原告と被告の間においては、未払である令和元年12月分及び令和2年1月分の交通費を含め、実費、すなわち1日当たりの往復運賃(412円)に各月の出勤日数を乗じた金額をもって交通費として被告が支給する旨の合意が成立していたと認めるのが相当である。

「被告は、本来支給すべきは賃金規程で定める定期代に限られ、実費を支給していたのはミスによるものであると主張する。」

「しかしながら、仮に上記賃金規程の定めが有効であるとしても、当該賃金規程を設けた被告においては、かかる定めがあることを当然に認識していたはずである。そうであるにもかかわらず、いかなる事情によって交通費の実費を支給することとなったのか、被告において具体的な主張はなく、また証拠上も明らかでない(C作成の陳述書(乙8)においても、ミスによって支払ったという記載があるにとどまる。)。上記定めの内容は、通勤手当として定期代を支給するというものであり、その趣旨は明確であって解釈を誤るようなものではないことをも踏まえると、誤って実費を支給したという被告の主張を採用することはできない。」

「また、被告は、原告以外の従業員2名についても過払いが生じていたところ、返還を求めた旨の証拠・・・を提出する。しかしながら、これらの書面は、本件本訴が提起され、原告と被告との間で交通費の金額が争われるに至ってから作成されたものであり(作成日はいずれも令和2年7月31日である。)、これをもって、原告の就労中、交通費として実費を支給することを被告が承認していなかったことの裏付けとはならないというべきである。むしろ、これらの証拠によれば、被告においては、原告以外の従業員2名についても原告と同様に出勤日数に応じて実費を支給していたことが認められ(乙9の1及び9の2には、上記2名に対して支給された同年2月分及び同年3月分の交通費の金額が記載されているところ、いずれの従業員についても月ごとに金額が異なることから、出勤日数に応じて実費を支払っていたものと推認される。)、この点からしても、被告においては交通費として定期代のみを支払うことになっていたとの被告の主張は疑わしい。」

「したがって、交通費の額に係る被告の主張は採用できない。」

3.労使慣行の成立要件を緩和したようには読めないだろうか

 本件では就業規則に通勤手当は定期券代だと明記されていました。

 これを覆す明確な合意がない場合、労使慣行の成立を主張することが考えられますが、当事者はこれを主張せず、実費支給の法的根拠は「合意」だと主張しました。

 原告の主張を受け、裁判所は、合意の存在を認定しましたが、その際に重視されたのが、実費支給の支給実績(当事者が実費支給によるという意思をもって行動していた事実)と、実費支給によるという両当事者の意思の合致です。

 これは従来、労使慣行の成立要件に対して批判的な見解と軌を一にする判断であるように思われます。

 就業規則の明文の規定を破るための法律構成は労使慣行の主張に限られない、よりハードルの低い法律構成として黙示の合意を主張することが考えられる、このことは実務上十分に意識しておく必要があるように思われます。