弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

労災の保険給付の支給決定を事業主(使用者)が争うことは許されるのか?

1.労災保険制度とメリット制

 労働者災害補償保険法は、業務災害や通勤災害により被災した労働者に対し、手厚い保険給付を行うことを規定しています。

 この保険給付を行うための費用は、原則として事業主が負担する保険料によって賄われています。事業主が負担する保険料は「メリット制」という仕組みで計算されています。これは災害の多寡に応じて保険率や保険料を上げ下げする仕組みをいいます。

労災補償 |厚生労働省

労災保険のメリット制について(概要)

 メリット制のもとでは、労災事故が少なければ少ないほど保険料が安くなり、労災事故が多ければ多いほど保険料が高くなります。いわゆる「労災隠し」が行われる背景には、このメリット制があり、労災が認められるのか否かについて、労働者と事業主は利益が相反する関係にあります。

 それでは、労働者に対する労災の支給決定に対し、事業主の側で、

「労災が認められるのはおかしい。」

とクレームをつけることは許されるのでしょうか?

 少し前に公刊物に掲載されて話題になった東京地判平29.1.31労働判例1176-65 国・歳入徴収官神奈川局長(医療法人社団総生会)事件は、

「特定事業主(メリット制の適用を受ける事業の事業主のこと 括弧内筆者)は、自らの事業に係る業務災害支給処分がされた場合、同処分の法的効果により労働保険料の納付義務の範囲が増大して直接具体的な不利益を被るおそれのある者であるから、同処分の取消しを求めるにつき『法律上の利益を有する者』(行訴法9条1項)として、同処分の取消訴訟の原告適格を有するものと解するのが相当である」

とこれを肯定しました(東京高判平29.9.21労働判例1203-76 国・歳入徴収官神奈川労働局長(医療法人社団総生会)事件でも維持)。

 この裁判例が出現して以降、被災労働者に対する労災認定に対し、事業主側からクレームが述べられるという、労働者保護の理念と相反する事象が散見されるようになっていました。

 しかし、近時公刊された判例集に、労働者に対する労災保険給付の支給処分に対し、事業主側がその取消を求めて訴えることは許されないと判示した裁判例が掲載されていました。東京地判令4.4.15労働経済判例速報2485-3 一般財団法人あんしん財団事件です。

2.一般財団法人あんしん財団事件

 本件は、労働者災害補償法に基づいて労働者に対して行われた療養補償給付・休業補償給付の各支給処分について、当該労働者の使用者が、その取消を求め、処分行政庁を訴えた事件です。

 各支給処分の当否以前の問題として、本件では、そもそも労働者に対して行われた保険給付の支給処分に事業主側からクレームをつけることが許されるのか(原告適格の存否)が問題になりました。

 この問題について、国・歳入徴収官神奈川局長(医療法人社団総生会)事件は原告適格を肯定したわけですが、本件の裁判所は、次のとおり述べて、事業主の原告適格を否定しました。

(裁判所の判断)

「メリット制の目的は、労働保険料に関する事業者間の公平性と、特定事業主における災害防止努力の促進にあると解される。すなわち、基準保険料率は事業の種類ごとに定められるところ・・・、事業の種類が同一であっても、作業工程、機械設備、作業環境の良否、事業主の災害防止努力等の違いによって個々の事業主ごとの災害率には差が生じることから、事業主間の保険料負担の公平を確保するとともに、事業主の災害防止努力を促進させるため、一定規模以上の事業(特定事業)について、災害の多寡により労災保険料率を増減させるものである・・・。」

「このようなメリット制の構造は、全体として、特定事業主において、自らの事業に応じた災害発生の危険を管理し得ることを前提として、一般的な予防の観点から、災害防止努力を促進し、保険制度(他の事業主の保険料負担)へのフリーライドを抑止するための政策的な手段(インセンティブ)として、労災保険料の増減を採用したものと解される。これに対し、現実に被災労働者等が業務災害等の発生を主張し、保険給付を請求した局面においては、過大な給付を防止することにより災害防止努力が促進されるという関係は必ずしも成立しないものと考えられ、メリット制の目的に、個々の保険給付の適正化が含まれるものとは解し難い。」

「一方で、前記・・・で説示した労災保険法の目的との関係では、メリット制の適用の有無は、本来、労災保険給付の受給に係る被災労働者等の法的地位とは関連性のない事情というほかなく、メリット制の適用の有無により上記被災労働者等の法的地位が左右される根拠は見出し難い。」

「また、前記・・・で説示した徴収法が予定する労災保険事業の運営の在り方との関係では、メリット制におけるメリット収支率の計算は、労災保険料に関する事業主間の公平と特定事業主における災害防止努力の促進というメリット制の目的に対する手段として、特定事業主を単位として収支の均衡を指向するにとどまり、労災保険制度全体の収支との関係で、個別の保険給付の適正化を目的とするものとはいえない。すなわち、徴収法は、本来的に、要件の判断を誤った業務災害支給処分により過大な保険給付がなされた場合であっても、労災保険事業全体の長期的な収支においてその均衡を図ることを想定しているのであって、メリット制の適用の有無により、徴収法が予定する労災保険事業の運営の在り方が変容するような事態は想定し難い。」

「以上を考慮すれば、メリット制に係る特定事業主の利益は、あくまで、徴収法に基づく労働保険料の認定処分との関係で考慮されるべき法律上の利益となり得るにとどまるものと解するのが相当であり、事業主の不服申立により、個別の保険給付自体の是正を図ることが予定されているものとはいい難い。」

「原告が指摘する労働保険料の認定処分に対する事業主の不服申立権(旧徴収法の規定を含む。)は、労働保険料の認定処分との関係で考慮されるべき事業主の利益を保護することを意図した制度であると解するほかなく、徴収法が、個別の保険給付に係る特定事業主の利益を保護していると読み取ることはできない。」

「以上のとおり、労災保険法は、専ら、被災労働者等の法的利益の保護を図ることのみを目的とし、事業主の利益を考慮しないことを前提としていると解するのが相当であり、労災保険法及び徴収法並びにこれの下位法令を通覧しても、処分の根拠法令である労災保険法が、業務災害支給処分との関係で、特定事業主の労働保険料に係る法律上の利益を保護していると解する法律上の根拠は見出せない。そうすると、根拠法令が、特定事業主の労働保険料に係る法律上の利益を個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むものとは解されず、当該特定事業主の利益は、行訴法9条1項にいう法律上保護された利益にはあたらず、特定事業主は、業務災害支給処分の取消訴訟の原告適格を有しないと解するのが相当である。」

3.労働者保護に画期的な判決

 以上のとおり、本判決は、事業者側から労災の保険給付の支給処分にクレームをつけることを否定しました。

 国・歳入徴収官神奈川局長(医療法人社団総生会)事件以降、一部事業者の間で労働者保護と逆行する動きがありましたが、本件はこれを制肘する画期的かつ重要な裁判例として位置付けられます。