弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

事業所(診療所)が閉鎖されると誤信した合意退職が無効とされた例

1.事業廃止に伴う解雇

 法人の解散など事業廃止に伴う解雇は、比較的緩やかに効力が認められます。東京地裁労働部に勤務歴のある裁判官の手による佐々木宗啓ほか編著『類型別 労働関係訴訟の実務Ⅱ』〔青林書院、改訂版、令3〕399頁にも、

「会社が解散した場合、会社を清算する必要があり、もはやその従業員の雇用を継続する基盤が存在しなくなるから、その従業員を解雇する必要性が認められ、会社解散に伴う解雇は、客観的に合理的な理由を有するものとして原則として有効である」

と書かれています。

 また、事業廃止の必要性や手続的妥当性が欠如していることを理由に、解雇が無効であるとの結論を勝ち取ったとしても、事業活動が停止され、人もいなくなっている以上、将来的な展望が描けるわけではありません。

 このような理論的、現実的な問題があることから、事業廃止を理由に退職勧奨を受けた労働者は比較的簡単に合意退職に応じてしまいがちです。

 それでは、こうした実情を逆手にとられ、廃業するからと言われて合意退職に応じてしまったものの、実際には勤務先が廃業しなかった場合、合意退職に応じてしまった労働者は、どのようなことが言えるのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令3.11.15労働判例ジャーナル121-42医療法人一栄会事件です。

2.医療法人一栄会事件

 本件で被告になったのは、住吉診療所(本件診療所)と難波診療所という二つの診療所を運営する医療法人です。

 原告になったのは、被告との間で有期労働契約(自動更新の約定あり)を締結し、本件診療所で外来診療を担当していた歯科医師の方です。被告から「住吉診療所の人材不足及び業績不振のための閉鎖」を理由とする雇用契約満了通知を受け取り、退職合意書に押印してしまいました。しかし、実際には住吉診療所が閉鎖されることがなかったため、錯誤・詐欺に基づくものであることを理由に退職への同意を取消し、雇用契約上の地位の確認などを求める訴えを提起しました。

 このような事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、合意退職の効力を否定しました。なお、結論としても、地位確認請求を認容しています。

(裁判所の判断)

「被告の原告に対する説明は、本件診療所全体の閉鎖というものであったと認めるのが相当である。」

「さらに進んで検討すると、被告は、外来診療の業績不振のほか、その原因として、本件診療所に勤める原告以外の従業員から、原告による歯科衛生士に対するパワハラ・セクハラ、体臭、原告の勤務態度、患者に対する問題行動等の苦情が相次いでおり、原告に対する注意・指導を行っても原告が対応を改めなかったため苦情が止まらなかったことを踏まえて、本件診療所の継続が困難であると判断するに至った旨主張しているところ、被告が従業員から聴取したとする原告の問題行動は、〔1〕就業時間中に副業の準備をしていた、〔2〕本件診療所のパソコンでアダルトサイトを閲覧しており、注意しても『18禁』じゃないからとの理由で閲覧をやめなかった、〔3〕保険会社の担当者からの電話に対し、『殺したろか』などと暴言を吐いた、〔4〕就業時間中にコンビニやATM等に行くため外出をする、〔5〕居眠りをする、〔6〕患者に対する説明が乏しく、患者が不信感を抱く、〔7〕体臭がきついので入浴するよう注意しても従わない、〔8〕私物が散乱しており、指導をしても片付けない、〔9〕原告が同じミスを繰り返すため従業員が注意すると、大声で威嚇し、右手手首をつかむ、〔10〕患者に対し、不謹慎な発言を行う、〔11〕原告に対する態度が気に入らないとの理由で、ある非常勤歯科医師を辞めさせ、代わりの医師を募集してほしいと要望するなどである。
 これらについて検討すると、原告は、本人尋問において、〔1〕について、就業時間中に本件診療所のパソコンを使用して副業の講師アルバイトの講義プリント及び試験問題を作成したこと、〔2〕本件診療所のパソコンを使用して『18禁』ではないサイト(歯科衛生士からアダルトサイトであるとの指摘を受けたサイト)を閲覧していたこと、〔3〕自転車運転中に自動車と交通事故を起こしたことに関して保険会社の担当者の対応が誠実さを欠いていたとして、『殺したろか』という発言をしたこと、〔4〕就業時間中の患者が不在の時間帯にコンビニや銀行に行くとの理由で外出していたこと、〔5〕就業時間中に居眠りをしたこと、〔7〕入浴の頻度が3日に1回程度であり、臭いという指摘を受けたことがあること、〔10〕訪問診療の際に、『P5』という苗字の患者に対し、『P5さん、握手しましょう、大統領と北朝鮮の書記長も固く握手しましたね』という発言をしたこと、〔11〕原告に対する態度が気に入らないとの理由で、ある非常勤歯科医師を辞めさせ、代わりの医師を募集してほしいと要望したことがあることについて、認める旨の供述をしている・・・。そうすると、少なくとも、原告も自認する上記の言動が認められることになるところ、これらの言動が、医師として、職員との関係においても、患者との関係においても不適切であることはいうまでもなく、原告の言動には問題があったというほかない。そして、本件診療所における原告と従業員との関係は悪化していたものであるが(なお、原告も従業員との関係が悪化していたことは認める旨の供述をしている・・・、これは、上記のような原告の言動に起因するものであることが明らかである。」

「以上からすると、被告は、上記のような原告と従業員との関係の悪化という状況を受けて、円滑に手続を進めるため、便宜上、原告に対して本件診療所の閉鎖という説明を行い、合意退職とすることで、円満な関係解消を図ろうとしたものであることがうかがわれる。

以上を総合考慮すると、被告は、本件診療所全体を閉鎖する意図は有していなかったが、原告に対して本件診療所全体を閉鎖する旨の説明を行い、原告は、その説明を信じて、合意退職することとしたことになる。そうすると、原告が合意退職の前提としていた本件診療所全体の閉鎖という主要な部分が事実と異なっていたことになるから、本件合意退職には、意思表示の瑕疵(錯誤あるいは詐欺)があったといわざるを得ない。

3.労働者への悪口が虚偽説明の動機として使われている

 本件で興味深いのは、使用者側が展開した労働者の悪口が、虚偽の説明をした動機の認定に使われている点です。

 詐欺など敢えて嘘を言われたと主張する場合、相手方に嘘を言うだけの強い動機があることを主張、立証する必要があります。意思表示の受け手にとって、そうした主張、立証を行うことは、必ずしも容易ではありません。このことは、実務上、詐欺取消が認められにくい一つの要因を構成しています。

 どのような意図か分かりませんが、本件の場合、使用者側から労働者の問題点が多数列挙されていたようです。しかし、解雇事件でも雇止め事件でもないのだから、このような主張には何の意味もありません。それどころか、敢えて虚偽の説明をする動機があることを自白しているに等しい行為といえます。

 このような使用者側の主張の逆用パターンがあることは、同種事件を処理するにあたっての参考例として、覚えておいても良さそうに思われます。