弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職の意思表示の撤回は、撤回の効力を主張するだけでは足りない

1.退職の意思表示の撤回

 退職の意思表示をしてしまったけれど、撤回したい-このような相談を受けることは、実務上少なくありません。このような相談を受けた場合、兎にも角にも早く退職の意思表示を撤回する通知を出すように助言するのが通常です。

 退職の意思表示は、法的に二通りの理解の仕方が可能です。

 一つは、一方的な意思表示としての辞職です。辞職は形成権の行使であると理解されていて、使用者に意思表示が到達した時点以降の撤回はできないと理解されています(水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、初版、令元〕961頁参照)。

 もう一つは、合意解約の申込みです。継続的な契約関係である労働契約を終了させようとする場面において民法523条(承諾の期間を定めてした申込みは、撤回することができない。・・・)の適用はなく、合意解約の申し入れの意思表示は、使用者が承諾の意思表示をするまでは、これを撤回することができると理解されています(前掲『詳解 労働法』962頁参照)。

 退職の意思表示の撤回するように助言するのは、

合意解約の申込み⇒未承諾のうちに撤回、

という事実経過を作り出すこを意識しての措置です。

 しかし、目的はそれだけではありません。退職の意思表示の事実自体を攻撃する布石としての意味も持っています。退職を許容するような挙動をとってしまっていたとしても、裁判所は退職の意思表示を慎重かつ厳格に認定しています。そのため、退職を認めるかのような言動をとってしまっていたとしても、その直後から退職の効力を争った形跡を残していれば、確定的に雇用契約終了の法律効果を生じさせる意思が表示されたということはできないなどとして、退職の意思表示の事実の存在を否定できることがあるからです。

退職勧奨を受けての「分かりました」という発言・転職活動があっても合意退職が否定された例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

労働者側で「退職合意がなされたにもかかわらず・・・」という文書を発出しても、合意退職を否定できた例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

合意退職の争い方-退職の意思表示の慎重な認定 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 このように、退職の意思表示を撤回した事実は、

① 退職の意思表示が有効に撤回されたこと、

② そもそも退職の意思表示の存在自体が認められるべきではないこと、

という二つの観点から活用して行くことが必要です。

 しかし、代理人弁護士を選任しない本人訴訟で争われるケースでは、往々にして②の観点が抜け落ちがちです。近時公刊された判例集に掲載されていた、東京地判令3.9.16労働判例ジャーナル120-56東京税務協会事件も、そうした事件の一つです。

2.東京税務協会事件

 本件で被告・被控訴人になったのは、地方公共団体における税財政の制度及び実務の研究等を目的とする公益財団法人です。

 原告・控訴人になったのは、被控訴人の臨時職員として働いていた方です。平成31年4月12日(金)の被控訴人のG人事課長代理、H総務課長、J企画広報部長らとの面談の際、退職願に署名して被告訴人に提出しました(本件退職意思表示)。その後、4月15日(月)になって、控訴人は、G課長代理に対し、電話で退職の意思がない旨を申し入れました(本件撤回通知)。しかし、被控訴人はこれを聞き入れず、控訴人を退職したものとして扱いました。これに対し、退職扱いの効力を争い、臨時職員としての残雇用期間分の賃金等の支払いを求めて提訴しました。原審簡裁が控訴人の請求を棄却したため、これを不服として控訴人が控訴したのが本件です。

 この事件で、控訴人は、退職の意思表示の撤回を主張しましたが、裁判所は、次のとおり述べて撤回を否定しました。結論としても、控訴人の控訴を棄却する判断をしています。

(裁判所の判断)

「労働者による退職の意思表示は、これに対し使用者が承諾の意思表示をした後は、もはや撤回することができないものと解される。」

「これを本件についてみると、証拠・・・によれば、被控訴人においては、幹部職員及び専門職員以外の職員(臨時職員として採用された控訴人・・・もこれに当たるものと認められる。)の退職については事務局長が決定権限を有するところ(処務規程4条、別表「件名」欄六)、本件退職意思表示について、被控訴人の事務局長が、4月12日、これを受理して控訴人の退職を承認する旨の決定をしたものと認められる。そうすると、同日の時点で、被控訴人は、本件退職意思表示に対し承諾の意思表示をしたものというべきであるから(改正前民法526条1項参照)、その後になされた本件撤回通知により本件退職意思表示を撤回することはできない。」

「したがって、本件撤回通知により本件退職意思表示を撤回したとする控訴人の主張は採用することができない。」

3.意思表示の存在自体も争点化できたのではないか?

 控訴人は退職意思表示の撤回以外にも、脅迫、詐欺、錯誤無効などを主張していました。しかし、いずれの主張も比較的あっさりと排斥されています。

 実務上、脅迫、詐欺、錯誤無効などの主張は、余程明確な証拠でもない限り、容易には通りません。こうした主張を展開するよりも、確定的に雇用契約終了の法律効果を生じさせる意思が表示されたということはできないなどとして、退職の意思表示の事実自体認定できないと争った方が芽があったように思われます。

 本件は代理人をつけずに本人訴訟の形で行われています。退職の意思表示をしているのに、退職の意思表示の事実自体認定できないはずだというのは一見すると矛盾を孕むため、法専門家以外の方には思いつきにくい理屈だったのかも知れません。

 確かに、代理人を選任すると費用が発生する面は否めません。しかし、労働事件には直観的に思いつきにくい理屈が使われている場面が多々あります。やはり、裁判をする際には、法専門家である代理人を選任することが推奨されます。