1.労働時間立証に用いる資料の持ち出しへの攻撃
使用者には、労働時間を適正に把握するなど、労働時間を適切に管理する責務があります(厚生労働省「労働時間の適正な把握のために使用者が講ずべき措置 に関するガイドライン」参照)。また、労働安全衛生の見地から、労働者の労働時間をタイムカード等の客観的方法によって把握する義務もあります(労働安全衛生法66条の8の3、労働安全衛生規則52条の7の3参照)。しかし、こうした責務・義務が適切に履行されていないケースは、少なくありません。
タイムカード等による労働時間管理が行われていない場合、時間外勤務手当等(いわゆる残業代)を請求しようとする労働者としては、代替となる社内資料に基づいて労働時間立証を試みざるを得ないことがあります。
ところが、労働時間立証のために社内資料を持ち出すと、
不正競争防止法で禁止されている営業秘密の不正取得に該当する、
企業秘密・企業機密を漏洩しないとする労働契約上の義務に違反している、
などと使用者側から反駁され、場合によっては、反訴として損害賠償まで請求されることがあります。
不正競争防止法上の「営業秘密」には厳格な定義があり(不正競争防止法2条6項)、これに該当する情報は限られているため、不正競争防止法違反は容易には成立しません。
しかし、合意・誓約など、契約によって創設されている企業秘密・企業機密を保持する義務との関係では、企業秘密・企業機密の定義が明確ではない場合、社内資料の持ち出しが、これに違反してしまうのではないかが問題になります。
それでは、不正競争防止法上の「営業秘密」と、契約によって保持すべきとされている企業秘密・企業機密とは、どのような関係に立つのでしょうか? 不正競争防止法上問題ないとされている資料の持ち出しについて、契約上の義務違反に該当するとして問題視されることはあるのでしょうか?
この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令3.6.28労働判例ジャーナル115-28 ジグス事件です。
2.ジグス事件
本件は退職した労働者が提起した残業代請求訴訟です。
被告になったのは、コンピューターに関するソフトウェアの企画・設計・開発・販売・保守等を業とする株式会社です。
原告になったのは、被告の元従業員の方です。被告を退職した後、社内に保管されていた「作業実績管理表」を証拠として、時間外勤務手当等(残業代)を請求する訴訟を提起しました。
これに対し、被告は、作業実績管理表を持ち出したことが、
不正競争防止法に定める営業秘密の無断持ち出しに該当する、
在職時に交わしていた機密保持の誓約に違反する、
などと主張し、損害賠償等を求める反訴を提起しました。
本件では反訴請求がどのように処理されるのかが注目されましたが、裁判所は、次のとおり述べて、反訴請求を棄却しました。
(裁判所の判断)
「(1)不正競争防止法違反との主張について」
「営業秘密とは、『秘密として管理されている生産方法、販売方法その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報であって、公然と知られていないもの』(不正競争防止法2条6項)であるところ、『秘密として管理されている』(秘密管理性)といえるためには、当該情報にアクセスした者において当該情報がその保有者の秘密情報であると認識し得るようにされていること及び当該情報にアクセスできる者が制限されていることが必要であり、『事業活動に有用な技術上又は営業上の情報』とは、財やービスの生産・販売、研究開発、費用の節約、経営効率の改善等に役立つなど事業活動にとって有用な情報をいい、『公然と知られていない』とは、保有者の管理下以外では一般的に入手することができない状態にあることをいうと解される。」
「以下、検討する。」
「作業実績管理表に記載されているのは、会社名、労働者の氏名、就業場所、連絡先、プロジェクト名、請求時間(労働者が勤務した時間)、作業内容等又は出社時刻、退社時刻、休憩時間、実働時間、業務内容、会社名、労働者の氏名プロジェクトの名称等である。」
「被告は、作業実績管理表をみれば、〔1〕作業工数が判明し、作業工数から開発費用がおよそ推定できる、〔2〕商流及び取引関係情報が把握でき、上位の会社に直接営業をすることができる、〔3〕どのような書式で作業を管理しているか把握できる、〔4〕下請業者の作業内容や人手が足りているかを把握でき、下請業者に営業をかけることができるなどとして、有用な情報である旨主張する。」
「しかし、〔1〕については、作業実績管理表をみても、プロジェクトの名称や業務内容は抽象的な記載にとどまって、どのような業務を行っているのかが明らかになるとはいい難く、また、原告がどのような技術・能力を有しているのかも明らかになるとはいい難い。さらに、作業実績管理表をみても、原告以外に何名の者が当該プロジェクトに従事しているのかも明らかになるとはいい難い。以上からすれば、作業実績管理表を見たとしても、作業工数が判明するとはいい難く、ひいては、およそであれ開発費用を推定することも不可能ないし著しく困難であるというほかない。」
「〔2〕及び〔4〕については、作業実績管理表をみれば、確かに、契約関係にある会社名は明らかとなるとはいえるが、プロジェクトの内容や労働者の数等が明らかとならないことは上記説示のとおりである。そうすると、作業実績管理表をもって、上位の会社あるいは下請業者との営業における有意な情報が含まれているということはできない。」
「〔3〕については、作業実績管理表の書式は一般的な書式であって、特殊な管理方法が用いられているということはできない。」
「以上からすれば、結局のところ、作業実績管理表から明らかとなるのは、プロジェクトの名称等の抽象的な情報や、一人の労働者である原告が何時間労働したと申告しているかなどにとどまるというべきであり、財やサービスの生産・販売、研究開発、費用の節約、経営効率の改善等に役立つなど事業活動にとって有用な情報ということはできないから、その余の点について検討するまでもなく、作業実績管理表が営業秘密に該当するということはできない。」
「(2)誓約違反との主張について」
「原告と被告との間の誓約(合意)の内容は、前提事実・・・のとおりであるところ、その文言等に照らせば、そこで機密保持の対象とされている情報は、機密情報として保護に値する情報をいうものと解される。そして、作業実績管理表から明らかとなるのは、プロジェクトの名称等の抽象的な情報や一人の労働者である原告が、何時間労働したと申告しているかなどにとどまることは前記(1)説示のとおりである。そうすると、作業実績管理表が、原告と被告との間の誓約(合意)において秘密保持の対象となる情報に該当するということはできない。」
「また、その点をさておくとしても、誓約書等の文言に照らせば、作業実績管理表が対象文書に含まれるということはできず、ほかに、作業実績管理表が対象に含まれることを認めるに足りる証拠もない。」
「したがって、原告が作業実績管理表を持ち出したことが誓約に反するということはできない。」
3.誓約書等の文言により左右される可能性はあるが・・・
裁判所は、不正競争防止法上の「営業秘密」と、合意による保持の対象となる「機密」情報との概念の異同について明示的に判断しているわけではありません。また、合意による保持の対象となる「機密」の範囲が、契約書上の規定ぶり・文言によって左右される可能性があることは確かだと思います。
それでも、裁判所が合意による機密保持の対象となる情報について
「機密情報として保護に値する情報をいうものと解される」
と限定解釈を行った点は重要な判示であるように思われます。
契約によって保持すべきとされる企業秘密・企業機密・機密情報などの範囲に関しては、明確な定義がない場合、不正競争防止法上の「営業秘密」に類似した実質的な秘密を指すものと理解できる可能性があります。
社内資料を労働時間立証の証拠として時間外勤務手当等を請求するにあたっては、安全を期そうと思った場合、証拠保全(民事訴訟法234条)をしたうえ、閲覧制限の申立(民事訴訟法92条)と同時に証拠申出をすることになるのだと思います。
しかし、実際の事件は、こうした重厚な手続をとることが可能かつ相当な事案ばかりではありません。必ずしも証拠収集段階から弁護士が関与できているわけでもありません。本件は、使用者側からの反訴請求に対抗するための道具として、活用できる可能性のある裁判例だと思われます。