弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職の意思表示に必要な判断能力の程度

1.意思能力

 民法3条の2は、

「法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする。」

と規定しています。

 つまり、有効な意思表示をするためには、「意思能力」が具備されている必要があります。

 この「意思能力」は難解な法概念の一つです。なぜ難解なのかというと、意味内容が曖昧であるうえ、対象となる意思表示・法律行為毎に、必要とされる能力の水準が異なると理解されているからです。

 例えば、東京高判平60.5.31判例時報1160-91は、

養子縁組をなすについて求められる意思能力ないし精神機能の程度は、格別高度な内容である必要はなく、親子という親族関係を人為的に設定することの意義を極く常識的に理解しうる程度であれば足りる」

と判示し、養子縁組を行うにあたって必要な意思能力の程度を、相対的に低く位置づけています。

 それでは、退職の意思表示を有効に行うにあたって必要とされる意思能力は、どのように考えられているのでしょうか?

 この問題を考えるうえで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。長崎地判令3.3.9労働判例ジャーナル111-18 長崎市・長崎市選挙管理委員会事件です。

2.長崎市・長崎市選挙管理委員会事件

 本件で原告になったのは、長崎市に採用されていた方です。統合失調症に罹患した後、勤務先である長崎市の選挙管理委員会に退職願を提出しました。

 これを受け、長崎市選挙管理委員会は、原告に依願免職処分を発令しました。

 本件は、この依願免職処分の取消訴訟です。

 本件では、退職願を提出した当時、原告に意思能力が具備されていたのかが争点の一つになりました。

 この論点について、裁判所は、次のとおり述べて、依願免職処分の前提となった退職の意思表示の効力を否定しました。結論としても、依願免職処分の取消を認認めました。

(裁判所の判断)

意思能力の有無は、対象となる法律行為の難易等によって変わり得る。本件で問題となる退職の意思表示は、公務員としての身分を失うという重大な結果をもたらすという点で公務員である個人にとって極めて重要な判断であるから、それを行うのに必要な判断能力も相応に高度のものであると考えられる。

「そこで、上記・・・の認定事実を前提に、原告の当時の判断能力の程度を検討する。」

「原告は、平成4年10月17日に賀来クリニックにおける受診を開始しているが、受診後間もない頃の診療録には既に統合失調症を前提とした記載がある・・・。その後、平成27年12月26日まで、統合失調症の治療のため、賀来クリニックのほか、大村共立病院に通院していること・・・、P8医師は、平成29年11月28日、原告につき統合失調症と診断し、その発生年月日を平成4年としていること・・・からすれば、原告は、遅くとも平成4年10月には統合失調症を発症していたものと認めることができる。」

「次に、本件退職願提出時頃の原告の症状について検討すると、原告は、平成25年4月に選管事務局に異動して以降、職場において問題を起こすことなく仕事を行う一方、平成26年頃から、家族との会話や入浴・睡眠をせず、自室に大量の食品や衣類等を持ち込むなど、自宅における異常な行動が増えていた・・・。また、平成27年12月の職場離脱行動・・・を境に、職場においても、独り言などの奇異な行動をとるようになり・・・、本件退職願を提出する前日(平成28年3月23日)には、異動の内示につき大声で不満を述べるなどしていた・・・。」

「このように、原告は、平成27年12月には、自宅だけではなく、職場においても奇異な行動をしていたのであるが、これは、服薬を中断すると統合失調症の症状が悪化するにもかかわらず・・・、原告がこれをしなかったために生じたものといえる・・・。」

「そうすると、平成27年12月以降、原告の統合失調症は悪化し続けていたものといえるのであり、本件退職願を提出した平成28年3月24日時点では、原告の統合失調症は相当程度悪化していたといえる。」

「原告は、本件退職願提出直後である同月30日時点において、P5係長が原告母に引取りを依頼するほどの異常な言動がされ・・・、さらに、同日から大村共立病院の隔離病棟に医療保護入院し、入院後も、妄想や支離滅裂な言動をし・・・、P8医師から、入院当初について、成年被後見人相当であったと診断される状態であった・・・。」

「以上のとおり、原告は、遅くとも平成4年10月には統合失調症を発症し・・・、平成27年12月以降、悪化し続け、平成28年3月24日時点で相当程度悪化しており・・・、その直後に30日異常行動に及んで同日のうちに医療保護入院に至っているうえ、原告の入院当初の心身の状態は、精神科の医師によって成年被後見人相当と診断されるほどであった・・・。これらからすれば、本件退職願を提出した平成28年3月24日時点において、原告の判断能力は、統合失調症のため、自身の置かれた状況を正確に把握したり、自身の言動がどのような影響をもたらすか、特にどのような法的効果をもたらすかについて判断したりすることができない程度であったと認めるのが相当である。」

「なお、原告の30日異常行動や医療保護入院は、本件退職願の意思表示がなされた後の事情ではあるものの、30日異常行動及び入院時において原告に異動への不満による興奮が認められているところ・・・、異動の内示は、本件退職願の前日になされているのであるから、同意思表示がなされるよりも前の事実(異動の内示)と、同意思表示がなされた後の事実(30日異常行動及び医療保護入院)との間に関連性があるというべきであるし、30日異常行動と医療保護入院は、本件退職願が提出されてからわずか1週間足らず後のことであり、時間的近接性もあることからすれば、本件退職願を提出した当時の判断能力を検討するに当たって、その後の30日異常行動や医療保護入院の事実を考慮することも許されると考えられる。」

「上記判示を前提に、本件退職願による意思表示の有効性を検討すると、上記・・・のとおり、平成28年3月24日時点において、原告は自身の言動がどのような法的効果をもたらかすのかについて判断することができない状態にあったといわざるを得ない。そうすると、少なくとも、公務員としての身分を失うという重大な結果をもたらす退職の意思表示をするに足りる能力を有していなかったというべきである。」

「よって、本件退職願による意思表示は、原告のその余の主張を判断するまでもなく、意思能力を欠く状態でされたものであり、無効である。」

3.退職の意思表示を行うにあたり必要な意思能力の水準は高い

 上述のとおり、裁判所は、退職の意思表示を行うにあたり必要な意思能力の水準を相対的に高いところに位置付けました。

 メンタルを病んだ労働者からの退職届に対し、渡りに船といわんばかりに退職に向けた手続をとってしまう使用者は少なくありません。

 しかし、後になって翻意し、退職届を撤回したいと考える労働者は一定数います。そうした方が退職届の効力を否定して地位の確認等を求めるにあたり、本裁判例は重要な先例となる可能性を持っているように思われます。