弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

「区切りのよいところで身を引くことを考えます」等の発言がありながら合意退職が否定された例

1.退職を承諾したかのような言動

 以前、退職勧奨を受けた時に、本当は退職したくないのに、その場の雰囲気にのまれて「分かりました。」などと回答してしまう方がいることを、お話しました。

退職勧奨を受けての「分かりました」という発言・転職活動があっても合意退職が否定された例 - 弁護士 師子角允彬のブログ

 退職の合意は、一旦成立したと認定されてしまうと、錯誤・詐欺・強迫などの事情がある場合を除き、容易には効力を否定できません。そのため、合意退職の効力を争う事件では、しばしば「合意の成立自体を否定することができないか?」という観点からの事案の検討が意味を持ってきます。

 こうした検討作業を行うにあたり、近時公刊された判例集に、参考になる裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、東京地判令2.12.4労働判例ジャーナル110-48 東京都就労支援事業者機構事件です。注目に値するのは「区切りのようところで身を引くことを考えます。」等の言動をとったことが認定されながら、退職合意の成立が否定されている点です。

2.東京都就労支援事業者機構事件

 本件はセクシュアルハラスメント等を理由とする事務局長から事務局職員への降格の可否や、合意退職の成否等が争点になった事件です。

 被告になったのは、事業者の立場から犯罪者等の就労を支援し、再犯防止に寄与していくことを目的としていくことを目的として設立された特定非営利活動法人です。

 原告になったのは、法務省を定年退官した後、被告との間で有期雇用契約を締結した方です。当初、事務局長として勤務を開始しましたが、被告の女性職員C氏に対してセクシュアルハラスメントに及んだことなどを理由に事務局員に降格されたうえ、退職勧奨に応じたことなどを理由に、雇用契約を更新しない扱いを受けました。これに対し、降格の無効を主張したうえ、被告に対して、事務局長としての地位確認等を求める訴えを提起したのが本件です。

 被告が合意退職の成立を主張したのは、原告が退職勧奨に応じるかのような言動をとっていたからです。

 被告理事B会長は、原告に対し、二度に渡り退職勧奨の面談を行いました。

 一度目の面談で、C氏が労働局に訴えると考えているようだと伝えられた際、原告は、自らが辞めなければB会長に迷惑が掛かるのではないかと思い、

「区切りのよいところで身を引くことを考えます。」

「後任者については,会計課の後輩でMという男がいます。本人には未だ話していませんが、適任者だと思います。」

などと述べました。

 また、B会長に対し、

「私の退職のことで私の希望を申し上げますと、当職を含め全職員の任期は平成31年3月31日となっております(更新は可なのですが、F所長は退職を強く希望し承認、N支援員は定年で退職)。責任を顧みずと思われるかもしれませんが、私を含め3人が退職となると機構全体の業務に支障が出るのではと危惧しております。無責任に辞したと揶揄されるのは心外であることから、後任の体制を整えるのは常務理事の責任であると自覚しており、平成31年3月までに体制を整えるよう努力したいのでその時点での退職ができればと考えておりますことを申し述べます。大変失礼とは思いましたが、私の本心を述べさせていただきました。」

などと書かれた書面を送付しました。

 その後、B会長は、再び原告と面談し、後任の事務局長が内定したことを伝えるとともに、改めて平成30年10月末日に退職することを求めました。

 これに対し、原告は、

「分かりました。」

などと回答しました。

 また、原告は、B会長に対し、更に、

「『昨日会長から「自己都合退職(一身上)」にするか「解雇」にするしかないと言われ、自己都合退職にしますと申し上げ』ましたが、『会長は一方的な方向からしか見ていないのではないだろうか、これまでの私の実績を全く評価していないのではないか、当職の置かれた立場を考えていただいていないように思うようになりました。』、『弁護士の先生に相談したり、初めて昨晩今回のことを妻にも話しましたが、会長の立場をおもんばかって、自己都合退職とすることは止めた方がよいとのことです。その理由として、自己都合退職を希望する場合は、30日前までに退職願いを提出し承認を受けなければならないと就業規程第8条にあります。』、『今回の当職の退職は、年度当初の辞令どおり平成31年3月31日とすべきであると思われますが、会長の意向を汲んだとしても平成30年12月31日で退職させていただければと考えております。』、『ご了解いただけるのであれば、すぐに自己都合退職の願いを送付させていただきます』」

などと記載した書面を送付しました。

 こうした事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、退職合意の成立を否定しました。

(裁判所の判断)

「上記認定事実・・・によれば、第1回面談において、原告が、B会長に対し、『区切りのよいところで身を引くことを考えます。』などと発言したことや、後任として適任であると考えている者がいると発言したことは認められる。しかしながら、被告の職員が退職を希望する場合、就業規程8条4号によれば、退職願を提出することが求められているところ・・・、原告が被告に対し退職願を提出したとの事実を認めることはできない以上、原告による退職の意思表示がなされたかどうかについては、慎重に検討する必要がある。そして、原告は、面談の理由を告げられることなく第1回面談に臨んでおり、自らの退職が話題になるとは想定していなかったと考えられること、そのような状況の下、30分程度の面談において、原告が退職の意思を固めたとは通常は考え難いこと、第1回面談における原告の発言内容を見ても、退職時期が明確に示されたとまでは言い難いことからすると、第1回面談においては、原告と被告との間で、後任の事務局長について適任者が見つかった段階で、原告は退職を検討するといった方向性の確認がなされた程度であり、原告が、被告に対し、後任の事務局長が決まり次第、事務局長を退任して退職する旨の意思表示をしたとまでは認めることができない。」

「また、上記認定事実・・・によれば、第2回面談において、B会長が、平成30年10月末日での退職を求めたのに対し、原告は『分かりました』などと答えたことは認められる。しかしながら、上記認定事実・・・によれば、原告は、第2回面談前に、B会長に対し、任期どおり平成31年3月31日の時点で退職したい旨を文書により伝えていること、第2回面談において、原告は、退職について直ちに了承しておらず、B会長とのやり取りを重ねた後に、B会長に対し、『分かりました』などと答えただけであり、原告自身が、平成30年10月末日をもって事務局長を退任し、被告を退職すると明確に発言したとは認めることができないこと、第2回面談の翌日には、B会長に対し、自己都合退職することはやめる旨を記載した文書を送付したことが認められる。これらの事情に加え、前記のとおり、原告が被告に退職願を提出していないことを併せ考えると、第2回面談における原告の発言をもって、原告が被告に対し、平成30年10月末日に事務局長を退任し、被告を退職する旨の意思表示をしたと評価することはできない。」

「さらに、上記認定事実・・・によれば、第3回面談やその前後における原告とB会長との文書のやり取りにおいて、事務局長の退任や退職について、原告とB会長の意向は食い違っており、原告と被告との間で、原告の事務局長退任や退職に関する合意が成立したと認めることはできない。」

「以上によれば、原告と被告との間で、原告が平成30年11月10日に事務局長を退任し、平成31年3月31日をもって本件雇用契約を終了する旨の合意が成立したと認めることはできない。」

「これに対し、被告は、原告がB会長との各面談の前後に送付した文書の内容が、事務局長の退任や退職を前提とするものであり、原告が退任や退職を容認していたことは明らかである旨主張する。しかしながら、原告の作成した文書は、いずれも原告が事務局長の地位のままで退職することを前提として作成されたものであり、本件雇用契約の契約期間中に事務局長を退任し、契約期間終了時には事務局職員として退職することを容認する内容であるとは認めることができない。また、原告が、退社連絡票の原案を作成したこと・・・、D氏に対する引継作業を行ったこと・・・、本件降格後に長期にわたり有給休暇や病気休暇を取得したこと・・・、誓約書(退職時用)に署名押印して被告に提出したこと・・・は認められるが、これらの事実をもって、原告自身が事務局長からの退任や退職を容認していたとまでは認めることができない。したがって、この点に関する被告の主張は採用することができない。」

3.手続規定が手掛かりになる

 上述のとおり、裁判所は、手続規定に準拠した形で退職意思が表示されていないことを根拠に、退職合意の認定に慎重な姿勢をとりました。

 従業員の離職を防ぐためか、退職にあたっては、就業規則等で、一定の重みを伴った手続の履践が求められていることが少なくありません。使用者側からの不意打ち的な退職勧奨に応じてしまったとしても、所定の手続が踏まれていない段階であれば、まだリカバーを図れる可能性があります。

 矛盾する挙動をとっておくことが合意の成立を否定する根拠になることも考えると、不本意な退職合意を交わしてしまった方は、一早く対応を弁護士に相談することが推奨されます。