弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

社会保険に加入してもらえなかったことを理由とする慰謝料請求

1.社会保険に加入してもらえない

 健康保険法48条は、

「適用事業所の事業主は、厚生労働省令で定めるところにより、被保険者の資格の取得及び喪失並びに報酬月額及び賞与額に関する事項を保険者等に届け出なければならない。」

と規定し、労働者を使用する事業主に、被保険者資格を取得したことを届け出る義務を負わせています。

 また、厚生年金保険法27条は、

「適用事業所の事業主又は第十条第二項の同意をした事業主・・・は、厚生労働省令で定めるところにより、被保険者・・・の資格の取得及び喪失・・・並びに報酬月額及び賞与額に関する事項を厚生労働大臣に届け出なければならない。」

と規定し、労働者を使用する事業主に、被保険者資格を取得したことを届け出る義務を負わせてます。

 しかし、労働事件を処理していると、使用者から社会保険に加入してもらえていなかったケースが散見されます。

 こうした場合、社会保険に加入していたとすれば得られたはずの金銭的利益について、損害賠償を請求することが考えられます。

 ただ、健康保険法にしても厚生年金保険法にしても、技術的性格が強く、加入していたとすれば得られたであろう金銭的利益が具体的に幾らなのかを特定することは、必ずしも容易ではありません。

 それでは、こうした損害額特定の技術的困難性を回避するため、精神的苦痛に対する慰謝料請求の形式をとって使用者に損害賠償を請求することはできないでしょうか?

 昨日ご紹介させて頂いた、大分地判令2.3.19労働判例1231-143 鑑定ソリュート大分ほか事件は、この問題についても有益な示唆を含んでいます。

2.鑑定ソリュート大分事件

 本件は取締役の労働者性が問題になったほか、使用者の社会保険への加入義務の不履行が問題となった事案です。

 本件で被告になったのは、不動産鑑定評価業務を主たる事業目的とする株式会社です。

 原告になったのは、不動産鑑定士の方です。平成28年6月1日、被告会社の本店で不動産鑑定評価に関する業務を月額報酬制で行う契約を交わし、同日付けで取締役に就任したことを内容とする登記がなされました。その後、平成30年1月17日に被告会社の代表取締役から、

「明日から出て来なくてよい。君の私物についてはこちらの方で私物かどうかを判断した上で後日郵送するから事務所に来ることはならない。」

などと言われ、翌日の臨時株主総会で取締役解任決議がなされました。

 これに対し、実質的には労働者であるところ、取締役解任の通知は解雇の意思表示であると主張して、被告に対し、地位確認等を求める訴訟を提起したのが本件です。

 本件では被告会社が社会保険への加入を怠っていたため、原告は地位確認に加え、社会保険への加入義務の不履行により精神的苦痛を被ったとして、慰謝料を請求しました。

 しかし、裁判所は、次のとおり判示し、慰謝料請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「健康保険法48条及び厚生年金保険法27条が、適用事業所の事業主は、労働契約を締結した被用者が健康保険及び厚生年金保険の被保険者の資格を得たことを保険者に届け出るべき旨規定する趣旨には、同事業所で使用される労働者に対して保険給付を受ける権利を具体的に保障することが含まれ、同労働者も、同事業主との間で労働契約を締結するに当たり、同事業主において同届出をすることを期待するのが通常であり、かつ、合理的なものであるから、同事業主は、労働契約上、同届出をすべき債務を負うと解されるところ、前記1のとおり、原告は被告会社の労働者であるから、被告会社は、健康保険法3条3項2号、厚生年金保険法6条1項2号により、適用事業所の事業主といえ、上記債務の不履行責任を負い得る立場にあるといえる。」

「しかしながら、被告会社が上記債務の不履行責任を負うとしても、同債務不履行による損害は、その算定の困難性はともかく、原則として経済的な不利益にとどまるから、労働者が事業主に対してしばしば上記各保険への加入手続を求めていたにもかかわらず、事業主が虚偽の説明をしたり、加入手続を求めるのであれば解雇や給与の減額をするなどの不利益処遇を示唆したことが主たる原因となって同各保険に加入できなくなったりしたなどの慰謝料を認めるべき特段の事情がない限り、上記債務の不履行により同労働者が精神的損害を被ったと認めることはできないところ、本件においては、そのような特段の事情を認めるに足りる証拠はないから、原告に精神的損害が発生したとは認められない。

3.慰謝料請求は認められにくいか?

 上述のとおり、裁判所は、発生する損害が経済的なものに留まることから、原則として慰謝料請求の対象にはならないと判示しました。

 社会保険への加入義務の不履行を理由とする慰謝料請求に関しては、これを認めた裁判例もなくはありません(奈良地判平18.9.5労働判例925-53豊国工業事件)。しかし、

「原告が被保険者資格を取得したにもかかわらず保険給付を得られなくなった(ママ)については、原告が被告に対してしばしば加入を求めていたにもかかわらず、被告担当者が事実に反する説明をしたり、解雇や給与の減額などの不利益処遇を口にしていたことが大きな原因であったというべきことなど、前記認定のような諸事情にかんがみると、20万円の慰謝料の支払を命ずるのが相当である。」

と判示されていることからも分かるとおり、豊国工業事件では、担当者により事実に反する説明や不利益処遇の示唆がなされていました。

 鑑定ソリュート大分ほか事件は、慰謝料請求を原則として否定しつつも、例外的に慰謝料請求が認められる場面についても判示しています。豊国工業事件は、まさに例外的に慰謝料請求が認められる場面に該当する事案であり、これがあるからといって一般的に慰謝料請求が認められるとは言いにくいように思われます。

 また、法人の役員は元々健康保険や厚生年金保険の被保険者資格を有しています(昭和24年7月28日保発第74号)。そのため、本件ではそれほど厳密には問題になりませんが、請負人や業務委託の形で働いていた人が労働者性を主張して社会保険への加入義務の不履行を主張する局面においては、被保険者と取り扱わなかったことに対する故意・過失の要件も問題になる可能性もあります。

 やはり、現行の裁判実務の傾向として、社会保険に加入してもらえなかったことを理由とする慰謝料請求は、それほど容易ではないのだろうと思われます。