弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

違法に賃金から控除された金額は、5年前(旧法下10年)まで遡って返せと言える可能性がある

1.賃金の全額払いの原則

 労働基準法24条1項は、

賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。」

と規定しています。

 この規定があるため、使用者が賃金から一定の費目を勝手に控除することは、原則として認められていません。但書からも分かるとおり、一定の例外はありますが、それは飽くまでも厳格な要件のもとで例外的に許容されているにすぎません。

 それでは、適法要件を満たさないにも関わらず、一方的に控除された賃金は、何年分まで遡って支払いを請求できるのでしょうか?

 こうした問題意識が出てくるのは、賃金債権と不当利得返還請求権とで消滅時効期間が違うからです。

 労働基準法上115条は、

「この法律の規定による賃金の請求権はこれを行使することができる時から五年間、・・・行わない場合においては、時効によつて消滅する。」

と規定しています。

 これが労働基準法附則143条3項で、

第百十五条の規定の適用については、当分の間、同条中『賃金の請求権はこれを行使することができる時から五年間』とあるのは、『退職手当の請求権はこれを行使することができる時から五年間、この法律の規定による賃金(退職手当を除く。)の請求権はこれを行使することができる時から三年間』とする。

と規定されているため、賃金の消滅時効期間は3年と理解されることになります。

 他方、民法は、

「債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。」

債権は時効消滅すると規定しています(民法166条1項1号)。

 法律上の原因なく利得を得た者に対し、それによって損失を受けた人が、その利得を返せと請求する権利を不当利得返還請求権といいます(民法703条)。不当利得返還請求権は民法の一般原則に従うため、消滅時効期間は5年となります。

 違法に控除された賃金を返せという権利が、賃料債権であれば、3年までしか遡って請求することはできません。

 しかし、控除されたお金を返せという権利が、不当利得返還請求権であれば、5年まで遡って請求することができます(改正民法施行(令和2年4月1日)前の不当利得返還請求権の場合、消滅時効期間が10年まで遡れます)。

 この違法に控除された賃金を返せという権利について、どこまで遡れるのかという問題を考えるにあたり、参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。一昨日、昨日と紹介させて頂いている横浜地判令2.6.25労働経済判例速報2428-3 アートコーポレーション事件です。

2.アートコーポレーション事件

 本件は、引越作業やドライバー業務についていた複数の労働者が原告となって、被告会社(引越会社)に対し、時間外勤務手当等を請求した事件です。複数の請求権が訴訟物(訴訟の対処)として定められていて、その中の一つに「違法に控除された賃金を返せ」という請求がありました。

 被告会社には「引越事故責任賠償制度」という、1事故あたり3万円を上限として、引越作業のリーダーに賠償金を負担させる仕組みがありました。しかし、被告会社は引越事故の有無に関わらず、出勤日数1日につき500円の割合で計算された金額を、「引越事故責任賠償金」の名目で賃金から控除していました。議論になったのは、こうした形で一定額を賃金から控除し続けたことが許されるのかです。

 原告らが不当利得返還請求の形で控除額の返還を求めたのに対し、被告は単なる未払賃金請求権にすぎないのだと主張しました。

 この論点について、裁判所は、次のとおり判示し、不当利得返還請求権の成立を認めました。

(裁判所の判断)

「被告会社における引越事故責任賠償制度については、『引越事故責任賠償制度』と題する規程(・・・以下「本件賠償規程」という。)が存在し、同規程によれば、同制度は、リーダーに対して適用されるものであり(同規程2条)、被告会社が顧客に対して引越事故の損害を賠償したとき、当該引越作業のリーダーに責任のある場合に、1件の事故について1人3万円(リーダーがアルバイトである場合には、一か月の出勤日数に応じて1万円から3万円の範囲内で)を上限として、リーダーに負担させるものである(同規程3条、6条)。そして、同制度によってリーダーに賠償金を負担させる前提として、リーダーが賠償金の支払いに同意するときは、『事故報告書』に、自己の責任を認めて賠償金を支払う旨記載し、署名、捺印の上、会社に提出することが予定されていた(同規程8条)。また、その賠償金については、原則としてその都度現金で支払うものとし、例外的に、正社員については、同人が『引越事故責任賠償金・天引き依頼書』を作成し、これを被告会社に提出した場合には、給料からの天引きにより精算することもできると定められていた(同規程10条)。」

「他方、原告らが、本件賠償規程が定める事故報告書に自己の責任を認めて賠償金を支払う旨記載して、署名、捺印した事実はなく、また、原告X2及び原告X1が、『引越事故責任賠償金・天引き依頼書』を作成して、被告会社に提出した事実もない。それにもかかわらず、原告X1及び原告X2は、1日500円という金額が設定され、引越事故の有無にかかわらず、出勤日数に応じて算出された金額が、引越事故責任賠償金の名目で賃金から控除されていた。また、原告X3は、1日の勤務当たり500円で算出した金額を給与支払日の数日後に支店長に手渡していた。その他、原告X1は、A元支店長に手渡しで、引越事故責任賠償金として7万円を支払ったこともあった・・・。」

「上記認定事実によれば、原告らが引越事故責任賠償金名目で支払った金員については、本件賠償規程が定める手続を全く履践しておらず、金額についても、同規程が予定しているものとは全く別であるというのであるから、上記金員の支払が、同規程に基づく引越事故責任賠償金であるとは到底認められない。また、被告会社からは、他に、上記金員の控除ないし受領を正当化するに足りる事実の主張も立証もない。したがって、原告らが賃金からの控除又は現金交付の方法により被告会社に引越事故責任賠償金名目で金員を支払ったことには法律上の原因がないと認められるから、被告会社は、原告らに対し、その全額を不当利得として返還すべきである。

「その金額は、原告X1につき24万9500円、原告X2につき37万1500円となり・・・、原告X3については、平成27年3月から平成29年3月までの出勤日529日・・・に1日当たり500円を乗じた26万4500円となる。」

被告会社は、この点に関する原告らの請求について、不当利得の問題ではなく雇用契約に基づく未払賃金の支払請求の問題である旨主張するが、原告らは、被告会社に引越事故責任賠償金名目で支払った金員の返還を求めているところ、原告X1及び原告X2のその金員の支払方法が賃金からの控除であったというものにすぎないから、一方で、その控除された金員と同額の賃金債権がいまだ残存するとしても、他方、その賃金債権とは別個の請求権として不当利得返還請求権の成立を認めることができ、両者はいわゆる請求権競合の関係に立つことになる。したがって、被告会社の上記主張を採用することはできない。

3.水商売(ホスト、ホステスなど)の方に大きな影響があるかも知れない

 上述のとおり、裁判所は、この問題について、請求権競合(複数の請求権が同時に発生していて、互いに影響を与えない。権利者はいずれかを自由に選択して行使することができる)の関係に立つと理解し、不当利得返還請求権の成立を認めました。

 これにより、賃金から違法に控除されたお金を返せと言う権利は、5年(改正前民法下で発生した権利は10年)まで遡って返せと言える可能性が開けました。

 この裁判例が大きな影響を与える業種の一つに水商売があると思います。ホスト、ホステスなどの水商売の方は、遅刻などの不手際に対する罰金や、客の不払いの穴埋めなどの名目で、多額のお金が賃金から差し引かれていることがあります。こうした適法性の疑わしい控除金額については、かなり昔にまで遡って返せと言える可能性があります。

 お心あたりのある方は、一度、弁護士に相談してみると良いかも知れません。もちろん、私でご相談をお受けさせて頂くことも可能です。