弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職後に行った損害賠償額を予定する契約の合意の効力

1.賠償予定の禁止

 労働基準法16条は、

「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。」

と規定しています。

 この規定があるため、在職中に会社から「不手際があったら〇円払え。」といった契約の締結を迫られ、これに署名・押印してしまったとしても、労働者は契約の効力を否定することができます。

 それでは、在職中ではなく退職後に、「在職中の仕事の不手際で今後損害が発生したら〇円払え。」といった契約の締結を迫られ、これに署名・押印してしまった場合はどうでしょうか?

 一般に労働基準法16条の趣旨は

「労働者の退職の自由が制約されるのを防ぐこと」

にあるとされています。

(9)賠償予定の禁止~教育訓練・研修費用等の返還請求~|雇用関係紛争判例集|労働政策研究・研修機構(JILPT)

 既に退職してしまっていたとしたら、労働基準法16条の趣旨はあてはまらないとして、契約上の責任を免れる余地はなくなってしまうのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり、参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪高判令2.1.24労働判例1228-87 P興産元従業員事件です。

2.P興産元従業員事件

 本件で原告(被控訴人)となったのは、不動産の売買及び賃貸等を主たる目的とする株式会社です。

 被告(控訴人)となったのは、原告の元従業員の方です。

 平成19年12月20日ころに退職した後、同月22日に、原告会社との間で次のような内容の合意(本件合意)を含む覚書(本件覚書)を交わしました。

-本件合意の内容-

「愛知県一宮物件、南アルプス物件及び本件不動産については、控訴人が被控訴人を退職した後も責任を持ち、販売について努力する。平成20年4月末日を目途とする。」

「万が一被控訴人に損害が生じた場合は、控訴人は損金について弁済義務があり、責任をもって支払う。」

 この本件合意に基づいて、原告会社は、被告元従業員に対し、損害額239万9835円の支払を請求しました。

 一審が原告会社の請求を認容したため、被告元従業員が控訴しました。その控訴審事件が本件です。

 裁判所は、次のとおり述べて、原判決を取り消し、原告会社の請求を棄却しました。

(裁判所の判断)

「控訴人は労働契約に基づき被控訴人に対して業務提供をしていたから、控訴人と被控訴人との権利義務関係については、労働基準法の適用を受ける。そして、同法16条は、『使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない。』と規定しているところ、本件合意は、その成立時期が控訴人の退職直後であるものの、使用者が労働契約関係にあった労働者に退職後も上記労働契約に付随して努力する義務を負わせた上、将来被控訴人に損害が生じた場合には、事情の如何を問わずその全額の賠償を約束させるものにほかならず、実質的には、上記労働基準法の規定の趣旨に反するものである。

「控訴人が被控訴人に取引を勧めたのは、本件覚書記載の3物件のうち愛知県一宮物件のみであり、本件不動産及び南アルプス物件については、控訴人が入札の可否に関する判断をしたわけではなく、その他、被控訴人に生じた損金を補填しなければならないような合理的理由を何ら見出すことはできない。」

「本件合意は、上記3物件の転売による利益は被控訴人が取得することを前提としながら、損金が生じた場合はその全額を控訴人に負担させるというものであり、極めて不公平で一方的な内容のものというほかない。」

「被控訴人は、本件不動産を460万円で落札し、596万2853円で転売したものの、リフォーム工事代金やコンサルタント料等の出金を経費に算入すると、239万9835円の損金が発生したと主張している。しかし、上記3物件のうち愛知県一宮物件においては約420万円の利益が発生しており、被控訴人はCに約160万円を分配してもなお約260万円の利益を確保している(なお、控訴人は愛知県一宮物件の売却後に7万円程度を受け取っているが、このことをもって被控訴人から利益の分配を受けたものと評価することはできない)。このように、本件合意は、本件不動産の損金のみを切り離し、これをいわば別枠にしてその全額を控訴人に補填させる一方、利益が生じた場合に控訴人にこれを分配することを何ら予定していないから、控訴人に何らのメリットもなく、一方的に被控訴人に有利な内容のものというべきであり、社会的相当性を欠くものというほかない。」

「以上のとおり、本件覚書は、被控訴人に一方的に有利で、かつ、控訴人に一方的に不利益な内容であって、既に被控訴人を退職していた控訴人が本件覚書に係る本件合意をする合理的理由を何ら見出せないにもかかわらず、控訴人が本件覚書に署名押印したのは、これを拒否した場合に控訴人及び当時被控訴人に就労中の妻Hに加えられることが想定される被控訴人代表者及び関係者(I、E)からの報復を恐れたためであると解するのが自然であり、これに沿う控訴人の供述(原審・当審)は信用できる。したがって、本件合意は、控訴人の自由意思によるものとは到底いえないというべきである。」

「上記・・・の点を総合すれば、本件合意はその内容においても、控訴人の自由意思によるものとはいえない点においても、公序良俗に反し、無効というべきである。そうすると、その余の争点について判断するまでもなく、被控訴人の請求は理由がないことになる。」

3.退職直後の脱法的な押し付けもダメ

 本件では、

「Eは、D組系暴力団組員であったところ、被控訴人の事務所に毎日のように顔を出し、控訴人を含む被控訴人の従業員にD組の代紋のストラップを見せびらかし、被控訴人のトラブルに介入するなどしていたが、平成18年5月頃、営利目的誘拐と恐喝の被疑事実により逮捕・勾留され、その後起訴された・・・。」

といった事実が認定されています。

 このように暴力団関係者の関与が疑われる事案であったことや、合意内容が極端に労働者側に不利になっているなど、本件が特殊な事実関係を前提とする事件であることは否定できないと思います。

 それでも、退職後にも賠償予定の禁止の趣旨を拡張し、合意の効力を否定した点は、画期的な判断だと思います。本判決は、退職と同時に、強迫とまでは言いにくい態様で労働者を威迫し、賠償予定の合意を結んでしまうといった脱法的な合意の取り付け方を問題視していく場面で、有力な先例となる可能性を持っています。

 退職直後に多額の債務の負担を押し付けられた、そうしたお悩みをお抱えの方は、この裁判例の射程で救済できる可能性もあるので、一度、弁護士に相談してみても良いのではないかと思います。