弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

退職の意思表示の認定-「慎重に検討する必要がある」とされた例

1.退職の意思表示には「自由な意思に基づいていない」との理屈が通用しにくい?

 労働法の領域では、

「自由な意思に基づいていない。」

との理屈で、合意の効力を否定できる場合があります。

 しかし、合意退職、退職の意思表示の場面で、こうした理屈を適用できるかには争いがあり、適用を否定した裁判例があることは、以前、このブログでも言及させて頂いたとおりです。

https://sskdlawyer.hatenablog.com/entry/2019/09/10/000625

 上記の記事で紹介した東京地判平31.1.22労働判例ジャーナル89-56 ゼグゥ事件は、

「退職届の提出という局面においては、労働者は使用者の指揮命令下から離脱することになるうえ、退職に伴う不利益の内容は、使用者による情報提供等を受けるまでもなく、労働者において明確に認識している場合が通常」

であることを理由に、退職の意思表示の効力を「自由な意思に基づいていない。」との理屈で争うことを、否定しました。

 それでは、退職の意思表示の効力は、民事上の他の意思表示と全く同じような感覚で認定されてしまうのでしょうか? 重大な効果をもたらすという観点から、認定に何等かの制約が及ぼされることはないのでしょうか?

 この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令2.3.4労働判例1225-5 社会福祉法人緑友会事件です。

2.社会福祉法人緑友会事件

 本件は、原告労働者が、被告使用者に対し、地位確認等を請求した事件です。

 本件で被告とされたのは、認可保育所等を経営する社会福祉法人です。

 原告になったのは、被告が経営する保育園(本件保育園)で保育士として働いていた方です。育児休業中に復職意思を伝えたところ、退職勧奨を受けました。その流れで被告理事長からの説明に「はい。」と発言したことや、退職者一覧に自分の名前を記載するように求めたことが、退職を承諾する意思表示を認定する根拠になるのかが問題になりました。

 この問題について、裁判所は、次のとおり述べて、合意退職の成立を否定しました。

(裁判所の判断)

「被告は、平成30年3月23日の原告と被告理事長との面談において、退職合意が成立した旨主張するので、検討する。」

「この点、労働者が退職に合意する旨の意思表示は、労働者にとって生活の原資となる賃金の源である職を失うという重大な効果をもたらす重要な意思表示であるから、退職の意思を確定的に表明する意思表示があったと認められるか否かについては、慎重に検討する必要がある。

「本件についてみると、前記・・・によれば、原告は、平成30年3月23日、被告理事長との面談において、被告理事長から、□□園長が無理だといっていることから復職をさせることはできない旨を伝えられ、退職を条件に3か月の特別休暇の提案を受けたのに対し、これを断り、解雇理由証明書の発行を求めていたことが認められるところ、このような原告の言動は、原告が退職に納得していないことを示すものと解される。そして、証拠・・・によれば、原告が、被告理事長の説明に対し、『はい。』などと述べていることは認められるものの、会話の流れを全体としてみれば、単に相槌を打っているに過ぎないと解され、被告理事長からの復職は認められない旨の発言に対し、このような原告の発言をもって、承諾をしたと評価することはできない。

「そうすると、原告が被告理事長から復職させることはできない旨を伝えられたのに対し、それを承諾する旨の意思表示をしたと認めることはできない。」

「一方、被告理事長は、実際には解雇である旨述べた上、園長が無理だという以上戻すことはできないとして、復職はできないことを明言していること、当該面談の後に、原告の求めに応じて解雇理由証明書を発行していること・・・からすれば、被告理事長の原告に対する当該面談における復職させることはできない旨の通告は、実質的には、原告に対する解雇の意思表示であったと認めるのが相当である。」

被告は、原告が平成30年3月末の本件保育園の退職者の一覧に自分の氏名を加筆させたことは、原告が退職に同意していたことを示す事情である旨主張するが、解雇に不満があったとしても、保護者や園児に対して復職できないことを伝えるために退職者一覧に自己の氏名を載せるように求めることは不自然とはいえないから、原告の当該行為によって承諾の意思表示があったと推認することはできず、当該事情は前記認定を左右するものとはいえない。

「また、証拠・・・によれば、被告が解雇理由証明書の内容について、原告の希望どおりに記載しようとしていたことは認められるものの、このような被告側の行為をもって、原告が解雇を受け入れていたと評価することはできない。」

「したがって、平成30年3月23日の面談において、原告と被告との間に退職合意が成立した旨の被告の主張は理由がない。」

3.「慎重に検討する必要がある」との法理

 原告が退職の合意自体の存在を争い、合意の事実そのものが認定できないとされたため、本件では合意の外形的事実を前提とする「自由な意思に基づいていない。」との理屈の採否が問題になることはありませんでした。

 そのため、本件の裁判体が、合意退職の場面での「自由な意思に基づいていない。」との理屈の当否について、どのような考え方をしているのかは分かりません。

 しかし、効力を論じる以前の問題、生の事実としての退職合意の認定の在り方について、

「退職の意思を確定的に表明する意思表示があったと認められるか否かについては、慎重に検討する必要がある。」

と明言した部分は、汎用性が高く、重要な判示だと思います。「慎重」な「検討」の意味内容によっては、「自由な意思に基づいていない。」との法理を適用するのと似たような結論を導ける可能性があるのではないかと思います。実際、裁判所は「退職者の一覧に自分の氏名を加筆させ」るといった退職意思を推認させる事実について、復職できないことを伝える手段として「不自然とはいえない」と危うげな理屈を構築してまで、原告の救済を図っています。

 本件のような裁判例の存在を踏まえると、合意退職が争点となる事件を受任するにあたっては、「慎重に検討する必要がある」の法理と「自由な意思に基づいていにない」の法理との、二つの観点から検討を進めて行く必要があると言えそうです。