弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

雇入れ時に見せてもらえなかった就業規則・賃金規程が労働条件になるのは、それほど自明なことなのだろうか?

1.雇入れ時に就業規則が交付されない問題

 労働者の採用過程は会社によって色々あります。

 丁寧な会社は、労働条件通知書(労働基準法15条1項所定の書面)を交付するとともに、就業規則の写しを渡し、どのような労働条件のもとで勤務することになるのかを通知しています。このような採用プロセスを経て働き始めた場合に、就業規則に記載されている事項が、労働契約の内容になるのは、比較的容易に理解できます。

 しかし、労働条件通知書に一通りの記載をしたうえ「詳細は就業規則による。」などとしながら、採用者に就業規則の内容を閲覧させたり説明したりしない会社もあります。更に簡略化が進むと「詳細は就業規則による。」などといった就業規則への言及すらなされずに、必要最小限の事項が記載された労働条件通知書だけが交付されているケースもあります。

 大抵の場合、就業規則は会社の内部に保管されているため、採用過程で就業規則を見せてもらえなかった労働者は、出勤して初めて就業規則を閲覧する機会を得ることになります。ここで予想外のことが書かれていて、トラブルになるケースが相当数あるように思います。個人的な経験の範囲では、固定残業代をめぐるトラブルが多いです。労働条件通知書に記載されていた特定の手当が、固定残業代であったことが入社後に判明したといった相談を受けることが割と良くあります。

 労働者からすると騙されたように感じますが、使用者側としては、おそらく、

就業規則を労働条件に組み込むために必要な就業規則の「周知」(労働契約法7条)とは、知ろうと思えば知りうる状態にしておくことを言う、

採用内定から実際に働き始める間であっても、請求があれば就業規則は見せていた、

本人から就業規則を見せろという請求がなかったから放っておいただけであり、雇われた後になって「就業規則を見ていない。」と言われたところで、そのようなことは関知するところではない、

という発想でいるのだと思います。

 しかし、一般に公開されていない文書である就業規則について、見せろと言われなかったから見せなかったとの理屈のもと、当然に労働条件に組み込むことは、それほど自明な論理なのでしょうか?

 この問題を考えるうえで、参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。大阪地判令2.5.28労働判例ジャーナル102-34 近畿中央ヤクルト販売事件です。

2.近畿中央ヤクルト事件

 本件は売上金の横領を理由に懲戒解雇された従業員が、懲戒解雇の無効を主張して地位確認や未払賃金を請求した事件です。その他にも幾つかの請求が付加されていて、その中の一つに割増賃金(残業代)の請求がありました。

 そして、残業代請求の可否・金額を議論するにあたっては、「営業手当」が固定残業代としての性質を有しているのかが問題になりました。

 会社の給与規程には「営業手当」が「時間外勤務手当相当額を含むものとする。」と定められていたものの、原告に交付された「雇用条件と題する書面」「労働条件通知書」「本件嘱託規程」には、そうした記載が欠けていたからです。

 被告会社は営業手当が固定残業代であることを説明したと主張しましたが、原告はそのような説明を受けたことを否認しました。

 こうした状況のもと、裁判所は、次のとおり述べて、営業手当を固定残業代とする合意の存在は認められないと判示しました。

(裁判所の判断)

「被告会社は、P7総務課長が原告P1に対し、平成27年11月頃、基本給15万5000円のうち営業手当2万円にはみなし残業代が含まれている旨説明し、原告P1の了解を得た旨主張し、これに沿うP5取締役の証言も存する。」

「しかしながら、原告P1に交付された『雇用条件』と題する書面・・・、原告P1に適用される本件嘱託規程には、営業手当にみなし残業代が含まれる旨の記載がない。また、本件嘱託規程には、営業手当等の各種手当は、職務内容等を勘案し、各人ごとに個別の雇用契約書で定める旨記載されているところ、原告P1の労働条件通知書(雇入通知書)・・・には、基本賃金月給15万5000円とあるのみで営業手当に関する定めがない。この点、被告会社の当時の給与規程において営業手当に関し、『ただし、営業手当には、時間外勤務手当相当額を含むものとする。』との定めがあったとしても(原告P1に関し、同給与規程の適用が問題とならないことについては当事者間に争いがない。)、原告P1との間においてはそれと異なる約定であった可能性を否定できない。原告P1の労働条件通知書・・・においては、他の箇所(休暇等)では詳細について就業規則を引用する定めがある一方、賃金については給与規程を引用しておらず、営業手当に関する定めがないことは給与規程とは別段の定めがある可能性を裏付けるものといえる。

そうすると、P5取締役の上記証言部分を裏付けるに足りる証拠がないから、同証言部分を採用できず、原告P1との関係では、被告会社が主張する上記固定残業代の合意があったとは認められない。

「被告会社は、P8執行役員が原告P1に対し、平成28年3月25日、職能営業手当1万円、業務営業手当1万円及び基本営業手当2万円の3種類の営業手当を支給すること、同営業手当が全額、定額の時間外(休日、深夜を含む。)割増賃金となることを説明し、その了解を得た旨主張し、これに沿うP5取締役の証言(陳述書の記載を含む。)も存する。」

「しかしながら、『雇用条件』と題する書面・・・、労働条件通知書(雇入通知書)・・・及び本件嘱託規程には、営業手当に関する定めがないことは上記・・・と同様である。したがって、給与規程に上記説明と同趣旨の定めがあったとしても、このことをもって原告P1との間においても同様の約定があったといえないことも上記・・・と同様である。この点、原告P1に『みなし残業時間のお知らせ』・・・が交付されていたかどうかは、原告P1が否定しており、必ずしも明らかでないが、仮に他の従業員と同様一律に交付されていたとしても、そのことから直ちにその内容の合意が成立しているとはいえないし、また、それに原告P1が異議を述べていないからといって直ちにその内容のとおりの合意が成立したということもできない。さらに、原告P1から被告会社に対し、給与体系の改定についての同意書(平成28年3月25日付けのもの)が提出された・・・としても、原告P1宛に、同月18日付けで、法律の改正等により、就業規則、嘱託規程、給与規程、賞与規程の変更を実施する旨、原告P1の給与明細について、以下のように変更するので、ご理解の上、同意のほどお願いする旨記載された書面・・・には、各営業手当の金額が記載されているものの、それが時間外割増賃金となるとは記載されていないから、上記同意書によって固定残業代の合意が成立していると認めることもできない。加えて、給与改定に伴う面談の際のP5取締役やP8執行役員の説明用の手控えとなる資料・・・に、必ず、営業手当がどれだけの時間相当額に見合うかを説明する旨記載されているとしても、原告P1の労働条件通知書等の上記記載内容からすると、そのことから直ちに原告P1に対しても上記資料のとおり説明されていると認めることができないし、給与規程の改定を回覧していたとしても・・・、原告P1の労働条件通知書等の上記記載内容からすると、原告P1との間でその内容のとおりの合意があったとすることもできない。

「そうすると、P5取締役の上記証言部分を裏付けるに足りる証拠がないから、同証言部分(陳述書の記載を含む。)を採用できず、原告P1との間で、上記固定残業代の合意があったとは認められない。」

「被告会社は、P5取締役が原告P1に対し、平成29年3月頃、『みなし残業時間のお知らせ』を交付するとともに、上記・・・と同様の説明をし、その了解を得た旨主張し、これに沿うP5取締役の証言(陳述書の記載を含む。)も存する。」

「しかしながら、『雇用条件』と題する書面・・・、労働条件通知書(雇入通知書)・・・及び本件嘱託規程には、営業手当に関する定めがないことは上記・・・と同様であるから、原告P1に対し、『みなし残業時間のお知らせ』・・・が交付されていたとしても、また、給与規程の記載によっても、上記・・・と同様、P5取締役の上記証言部分を裏付けるに足りるとはいえず、同証言部分(陳述書の記載を含む。)を採用できないから、原告P1との間で、上記固定残業代の合意があったとは認められない。」

3.労働条件通知書等の採用時の書面の重視、事後の済し崩し的な同意取得には慎重

 本件は、労働条件通知書に給与規程が引用されていないことなどを指摘したうえ、営業手当が固定残業代であることを否定しました。

 会社、は事後的に「みなし残業時間のお知らせ」を交付したり、給与体系の改定についての同意書を取得したりして、固定残業代の既成事実化を図ろうとしたようですが、成立していない固定残業代の合意が成立したことにはならないと判示されています。

 労働契約法7条の「周知」に関して緩やかな理解がされていることもあり、あまり問題提起されてこなかったように思いますが、労働条件通知書に就業規則や賃金規程の引用すらなされていないケースにおいては、それなりに労働契約締結当時の合意の内容を争っていける余地があるのかも知れません。特に、固定残業代の効力をめぐる紛争において、本件は一定の参照価値を持つ可能性のある事件だと思います。