弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

賃金減額の合意における「自由な意思」の認定-最近の東京地裁の裁判例

1.「自由な意思」の法理

 使用者は労働者との間で合意を取り付けることにより、賃金を減額することができます。しかし、使用者と労働者は、必ずしも対等な立場にないため、賃金減額の合意が効力を持つためには、

(合意が)「労働者の自由な意思に基づいてなされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在する」

ことが必要とされています(最二小判平28.2.19労働判例1136-6 山梨県民信用組合事件)。

 この「自由な意思」の法理によって、賃金減額の合意の効力が否定された裁判例は相当数蓄積されています。近時の公刊物にも「自由な意思」を問題にして賃金減額の合意の効力を否定した裁判例が二件掲載されています。昨日ご紹介した東京地判令2.2.26労働判例ジャーナル101-40 ビジネクスト事件と、一昨日ご紹介した東京地判令2.2.4労働判例ジャーナル101-42 O・S・I事件です。

2.「自由な意思」を問題にした二件の東京地裁の裁判例

(1)ビジネクスト事件

 本件は降格による賃金減額の有効性等が問題となった事件です。

 原告は被告で人材開発部長として賃金月額36万円で雇われていましたが、営業成績の不振等を理由に部長の任を解かれ、賃金を月額28万円まで減らされました(本件降格処分1)。

 その後、更にパートナー会社からクレームを受けるなどしたことの非を問われ、今度は職務内容の変更を伴わないまま、賃金を28万円から22万9950円に減らされました(本件降格処分2)。

 本件降格処分2が無効だと判断されたことは昨日の記事で述べたとおりですが、被告は、

「仮に、本件降格処分2及びそれに伴う賃金減額が無効であるとしても、原告は明示または黙示に同意している。」

と主張しました。

 その論旨は、本件降格処分2にあたり、

「この注意書に対して、事実と相違する等、貴殿の言い分があるときは、この文書を受け取った時から1週間以内に当文書を印刷の上、下記に記載し、当職宛に提出してください」

と書かれた辞令書を交付していたことと、所定期間内に異議を述べなかったことに支えられています。

 しかし、裁判所は、次のとおり判示して、合意の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「本件では、原告が本件降格処分2やそれに伴う賃金減額に明示的に同意した事実はない。また、原告がこれらについて特段の異議を述べていないことは認められるものの・・・、本件降格処分2による賃金減額が5万0050円に上り、かつ、8万円の賃金減額が行われた本件降格処分1からわずか3か月で行われた新たな処分であることを考慮すると、原告の黙示の同意に関し、原告の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由を裏付ける客観的な事情はない(当時、原告に副業があったこと、原告に退職する意向があったこと等の被告が指摘する事情は、上記合理的な理由を裏付ける客観的な事情とはいえない。)。そうすると、本件降格処分2及びこれに伴う賃金減額について、原告の自由な意思に基づく同意があったと認めることはできず、被告の上記主張は採用できない。」

(2)O・S・I事件

 本件は、セクシュアルハラスメントをしたという疑いをかけられた従業員が、勤務先に出勤しなかったところ、自然退職扱いされた事件です。

 自然退職扱いされる前、被告代表者は原告従業員との間で、賃金を減額する趣旨で雇用契約書を取り交わしていました。本件では、この雇用契約書に基づく賃金減額の合意の効力が争点の一つになりました。

 減額前、原告は被告が経営するデイサービスセンターの機能訓練指導員として、基本給23万円、機能訓練指導員手当1万円の24万円の支給を受けていました。

 セクシュアルハラスメントの疑いが生じた後、被告代表者は原告との間で、従事する業務を介護職員とし、その賃金を基本給18万円のみとする内容の雇用契約書(本件契約書)を交わしていました。契約書が交付されたのが平成27年8月14日で、原告はこれに署名押印し、翌15日に被告代表者に提出しました。

 こうした事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、賃金減額の合意の効力を否定しました。

(裁判所の判断)

「本件契約書の内容は、原告を機能訓練指導員手当1か月1万円が支給される業務から外してその支給を停止するばかりでなく、その基本給を1か月23万円から18万円に減額し、賃金総額を25%も減じるものであって、これにより原告にもたらされる不利益の程度は大きいというべきである。他方、・・・被告代表者は原告に対し、本件合意に先立ち、原告が被告に無断でアルバイトをしたとの旨や本件施設の女性利用者から苦情が寄せられている旨を指摘したのみであるといい、被告代表者の陳述書・・・や本人尋問における供述によっても、被告代表者が原告に対して上記のような大幅な賃金減額をもたらす労働条件の変更を提示しなければならない根拠について、十分な事実関係の調査を行った事実や、客観的な証拠を示して原告に説明した事実は認められない。

「以上によれば、・・・原告が本件契約書を交付された後いったんこれを持ち帰り、翌日になってからこれに署名押印をしたものを被告代表者に提出したという本件合意に至った経緯を考慮しても、これが原告の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するものとは認められない。

「以上の次第で、本件契約書の作成によっても、そこに記載された本件合意の内容への原告の同意があったとは認められないから、本件雇用契約に基づく賃金を基本給18万円のみに減額するとの本件合意の成立は認められない。」

3.合意の効力を争える範囲は割と広い

 裁判所は、

不利益が大きい場合、単純に異議を述べなかっただけでは合意は認定できない、

労働者が副業をしていることは合意の効力を肯定する事情にはならない、

労働者が退職の意向を有していることも合意の効力を肯定する事情にはならない、

セクハラの苦情があっただけで、裏付け調査をすることもなく、一方的に賃金減額を押し付けることはできない、

客観的な証拠に基づく説明がないことは、合意の効力を否定する事情になる、

1日熟考して減額を承認する旨の書面を提出した体裁があっても、諦める必要はない、

といった判断を示しています。

 「自由な意思」を問題にする考え方は山梨県民信用組合事件以前からもありましたが、同事件の最高裁判決以来、「自由な意思」を問題にする裁判例は急増しているように思われます。これを逐次アップデートしている弁護士かどうかによって、法律相談の回答に差が出ることは当然に想定されますが、裁判例の数が多いため、現実問題、労働事件に特に興味関心のある弁護士しか、この分野の裁判例は十分にフォローできていない可能性が高いのではないかと思います。

 労働者側の救済の範囲は拡大の傾向を示しているため、ある弁護士から消極の見解を示されたとしても、気になる方は、セカンドオピニオン、サードオピニオンを取ってみると良いと思います。もちろん、当事務所で、セカンドオピニオン等に係るご相談をお受けすることも可能です。