弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

秘密保持契約の不締結は労務の受領を拒否する理由になるのか?

1.秘密保持契約

 入社時に勤務先から秘密保持契約の締結を求められることがあります。

 ただ、契約を結ぶまでもなく、営業秘密は不正競争防止法によって法的に保護されています。例えば、不正の手段によって営業秘密を取得することや、不正取得行為により取得した営業秘密を取得・開示する行為は、不正競争行為として、損害賠償や差止の対象になりますし、刑事罰の対象にもなり得ます(不正競争防止法2条1項4号、同法3条、同法4条、同法21条参照)。

 そのため、結ばないなら結ばないで、別段、実害はなさそうにも思われるのですが、勤務先は、秘密保持契約の不締結を理由に労務の受領を拒否し、賃金を支払わないことができるのでしょうか?

 この問題を考えるうで参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令元.12.17労働判例ジャーナル100-56 ベルウクリエイティブ事件です。

2.ベルウクリエイティブ事件

 本件は秘密保持契約の破棄後の賃金請求の可否が争点の一つとなった事件です。

 原告労働者が秘密保持契約の破棄を通告したことを受け、被告会社は、秘密保持契約を締結していない者に対して業務を委託することはできないとして、原告を業務に従事させませんでした。こうした経過のもと、労務を提供できなかった期間(平成29年10月9日~同年10月31日)について、原告が被告会社に賃金を請求できるのかが問題になりました。

 裁判所は、次のとおり述べて、賃金請求権の発生を否定しました。

(裁判所の判断)

「原告は、10月9日から同月31日までの間、被告の業務に従事することはなかった。したがって、本件契約の性質が労働契約であったとしても、原告に、上記期間について労務提供の対価としての賃金請求権が発生することはない。」
「この点に関し、原告は、10月9日以降に労務を提供することができなかったことについて被告に責任があると主張しており、民法536条2項を根拠として、上記期間の賃金の支払を請求しているとも解される。」
「そこで検討するに、前記前提事実及び証拠・・・によれば、被告は、情報システムに関するセキュリティのぜい弱性診断やコンサルティング等を業とする株式会社であり、その業務の性質上、顧客の機密情報を取り扱う機会が多いことが認められる。そのため、被告は、顧客の機密情報等を守り、その信頼を維持するために、従業員等との間で被告の業務に関連して知り得た秘密情報の開示・漏洩等を禁じる秘密保持契約を締結することが不可欠であると認められる。
本件では、前記・・・認定事実のとおり、原告が10月4日に本件秘密保持契約を破棄する旨を通告し、その後、原告と被告との間で、秘密保持契約が締結されることはなかったのであるから、被告が、同日以降、原告が被告の業務に従事することを拒絶したことはやむを得なかったというべきである。したがって、原告が、上記期間、被告に対し、労務を提供すうことができなかったことについて、被告の責めに帰すべき事由があったとは認められない。
以上によれば、原告の請求のうち、10月9日から同月31日までの期間の賃金の支払いを求める部分も、その余の点について判断するまでもなく、理由がない。

3.不正競争防止法との関係は主張されなかったようであるが・・・

 本件の原告は本人訴訟で裁判をやっており、そのためか不正競争防止法との関係で実害がないのではないかとの問題提起は行われなかったようです。

 営業秘密の不正取得などの不正競争行為がダメだとされるのは、勤務先との関係に限ったことではありません。勤務先の顧客の営業秘密を不正取得しても、やはり法的には問題になり得ます。

 また、「営業秘密」を勤務先独自に定義して、不正競争防止法上の「営業秘密」よりも広い意味を与えたとしても、実質秘に該当しない情報の漏洩を理由に法的な責任を追及したり、労務の受領を拒否したりするのは難しいのではないかと思われます。

 そういう意味で、秘密保持契約の締結には猶更象徴的な意味しか見出しがたく、この点を明示的に主張すれば結論は変わっていたかも知れません。

 ただ、不正競争防止法との関係での問題提起が行われなかったにしても、秘密保持契約の不締結を理由に労務の受領の拒否を正当化した裁判例が存在することは、一応頭に入れておく必要があるだろうと思われます。