弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

事後的に体裁を取り繕ったところで固定残業代は容易には有効にならない

1.固定残業代

 「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」を固定残業代といいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。

 固定残業代については、募集時点で高額の賃金を提示し、入社する直前もしくは入社した直後に、相当部分が固定残業代であることを示すといったトラブルがあります。

 あまりにもこうしたトラブルが多いため、現在の法律では、労働者の募集段階から、固定残業代に係る計算方法、固定残業代を除外した基本給の額などの労働条件を明示することが義務付けられています(職業安定法5条の3、平成11年労働省告示第141号 第三-一-(三)-ハ参照)。

 しかし、募集段階での固定残業代の明示に係るルールが施行されたのは平成30年1月1日からです。それ以前に不意打ち的な採用を受けた人で、そのまま働き続けている人は相当数います。また、残念ながら、そもそも法令を知らない、知らなくても気にならないという事業者も少なくありません。

 こうした不意打ち的な形で固定残業代を労働条件に組み入れられた人にとって、参考になる裁判例が、近時公刊された判例集に掲載されていました。東京地判令元.12.6労働判例ジャーナル100-52 ソルト・コンソーシアム事件です。

2.ソルト・コンソーシアム事件

 本件は固定残業代の合意の成否、追認の成否が問題になった残業代請求事件です。

 原告の方は平成28年1月に被告に月給40万円で雇われました。しかし、雇用契約書は作成されず、労働条件通知書や就業規則が交付されることもありませんでした。

 その後、給与明細で、基本手当月額16万円、等級手当月額7万0300円、子供手当月額2930円、調整給月額1170円、割増手当16万5600円の内訳が示されました。

 また、平成28年11月11日、原告の妻からの不服等を踏まえ、要旨、被告の主張に沿う固定残業手当、固定深夜手当、諸手当を対象とする割増手当の記載のある総額40万円を支給する内容の雇用契約書が、原告との間で取り交わされました。

 原告の方は元々海外勤務を希望して被告に入社していましたが、その後も海外勤務が実現することはなく、長時間労働に不満を募らせるようになり、結果、本件は、残業代をめぐる交渉、退職、訴訟提起という経過を辿ることになりました。

 裁判では、

採用面接時に原告に対する時間外手当等の説明があったといえるのか、

給与明細の交付を受けていたのに異議を述べていなかったことをどう評価するのか、

雇用契約書の作成に応諾していることをどう評価するのか、

が問題になりました。

 それぞれの論点について、裁判所は、次のとおり判示し、固定残業代の合意について、成立も追認も認めませんでした。

(裁判所の判断)

-採用面接時の説明-

「証人Dは、原告の採用面接時に、原告に時間外手当等の説明をした旨証言し、さらに、被告が平成23年に他の従業員から残業代の支払を求める労働審判の申立てをされたことがあったことから、時間外手当の説明だけはきちっと漏らさずしようと思った、就業規則に定められている内容はきちっと漏らさず話をしているなどとも証言しているのであるが、就業規則の交付があったと認められない中・・・、その証言のように仔細な説明がされたかも大いに疑問である上、上記のとおり固定残業代の説明(取り決め)の重要性を証言する一方で、原告との2度にわたる面接のいずれにおいても各手当の具体的な金額を説明していないことを自認し・・・、かかる合意内容を証する雇用契約書や労働条件通知書の作成もしていないところであって、このことは平仄を欠くものといわざるを得ず、その証言はたやすく措信できるものではない。この点、証人Dは、雇用契約書の作成が遅れた経緯・理由に関し、雇用契約書を古参の社員から作成しているとの被告本部の話であったので、その流れの中で原告の雇用契約書も作成すればいいと思っていたなどと証言するが、到底合理的な証言内容とみることはできない。」
「そうすると、同人の上記証言をもって被告主張の裏付けがあるとたやすくみることはできない。」

-給与明細の交付について-

「被告は・・・、原告が固定残業代の記載の認められる給与明細書の交付を受けていたのに特段の異議を述べていないことについても主張している。」
「確かに、前記認定事実によれば、被告から原告に対し、被告主張に沿う割増手当の記載の認められる給与明細書の交付等がなされていたとはいえる・・・。」
「しかしながら、これに対して原告から積極的に異議が述べられていなかったといって、そのことから直ちに原告が被告主張の本件固定残業代の合意を認めたことが裏付けられるものではないし、そもそも、前記認定のとおり、原告及び原告の妻は、被告に対し、原告の長時間労働を度々問題視し、平成29年3月に至るや残業代の請求にも及んでいるのであって、およそ何らの異議を述べていなかったなどとみることもできない。

 -雇用契約書の作成に応諾していることについて-

「被告は・・・原告が後に本件雇用契約書の作成に応諾していることについても主張している。」
「確かに、原告が同契約書の作成に応諾していることは前記認定のとおりである・・・。」
「しかしながら、稼働開始前に労働条件を労使で取り決めた雇用契約書と異なり、稼働開始後に作成された雇用契約書については、労働者が使用者に慮りその作成に応諾することもあり得るところであって、その証拠力の評価は慎重であるべきものである。しかるところ、本件雇用契約書に至っては、稼働開始から11か月余りも経て作成が求められたものであった上、作成当時の原被告間の協議は、原告の妻から伝えられた不満について協議する予定のものではあったものの、雇用契約書の作成がなされることまで原告に対して案内されていたものではない(そのような案内がされていたことを認めるべき証拠もない。)。その際のやりとり(賃金についてのやりとり)も、確かに、協議自体は長時間にわたってなされてはいるが、肝要な雇用契約書の記載内容に関するやり取りは一連のやりとりの最後に行われたものにすぎず、その際の被告担当者の説明内容も、当初の入社時の雇用条件に関する説明内容との相違の確認を求めるというより、被告は固定残業制であるなどとしてその理解を労働者に対して求めるものであったもので、さらには被告において今はこの契約書で皆さんお願いしているなどとして、その場で理解と署名を求めるというものであったものである・・・。」
「そうすると、その協議の際、被告担当者は丁寧な言葉で応諾を求めているとはいえるものの・・・、その応諾があったからといって、これが直ちに当初の契約条件と相違ないものであったと速断することは相当でない。むしろ、証拠・・・によれば、その協議の際、原告が積年希望していた海外勤務の是非が話題に上っており、原告は、かかる協議においても海外勤務についての強い希望を見せ、それに当たって、被告から評価や推薦が得られるよう留意する様子もみられるところである・・・。しかも、原告ないし原告の妻は本件雇用契約書作成前から原告の長時間労働を度々問題視していたばかりか、本件雇用契約書作成後しばらくの平成29年3月に至っては、原告自身、被告の対応を問題視し、残業代の請求に及んでいることは前記説示のとおりである・・・。」
「そうすると、本件雇用契約書が後に作成されたからといって、契約当初から、本件固定残業代の合意が成立していたとはたやすく認め難い。したがって、この点によっても、前記判断を左右するには足りない。
(中略)
「被告は・・・本件雇用契約を作成したことによって、原告が本件固定残業代の合意を追認したとみるべきであるなどとも主張する。しかしながら、原告はこれを争うところ、前判示のとおり、本件雇用契約書の証拠力の評価は慎重にすべきものであり、その記載内容によって、原告が追認の意思表示をしたとは認めるに足りない。また、仮に被告の上記主張が、本件雇用契約書作成により、作成時以降、本件固定残業代の合意に則った労働条件の変更合意があったものと見るべきであるとの趣旨を含むものであったとしても、前記説示のとおり本件雇用契約締結時において本件固定残業代の合意を認めることができない以上、その変更は労働者である原告の労働条件の不利益変更に該当し、その不利益性に係る変更内容の具体的説明のない本件において、これが原告の自由な意思に基づいてされたものとは認め難いから、かかる不利益変更を有効とみる余地もない。したがって、いずれにしても被告の主張は採用できない。

3.事後的に体裁を取り繕ったところで契約時の瑕疵は容易には治癒されない

 労働条件通知書も交付せず、就業規則も渡さず、雇用契約書も作らない中で、固定残業代について説明したといっても、裁判所がそれを鵜呑みにすることはありません。労働事件に関しては、敢えて証拠を残さずに有耶無耶にすることに対して、比較的厳しい姿勢がとられることが少なくありません。

 また、取り敢えず入社させてしまった後で、給与明細を交付したり、雇用契約書を取り交わすことによって既成事実を積み上げ、強引に固定残業代に納得したかのような体裁を作り出すことに対しても、裁判所は否定的な判断を下しました。

 固定残業代の有効性が否定されると、それが基礎賃金に組み入れられるほか、残業代の弁済の効力も認められないため、請求できる残業代がかなりの金額に膨れ上がることも珍しくありません。既成事実が積み重なったかに見えても、労働契約時の瑕疵はそれほど容易には治癒されないので、不意打ち的な固定残業代に釈然としない思いをお抱えの方は、一度、弁護士に相談してみることをお勧めします。