1.安全配慮義務と消滅時効
債権は、
「権利を行使することができる時から十年間行使しないとき」
には時効によって消滅するとされています(民法166条1項2号)。
この「権利を行使することができる時」とは、
「権利を行使するのに法律上の障害・・・がなくなった時である。権利者の一身上の都合で権利を行使できないことや、権利行使に事実上の障害があることは影響しない」
と理解されています(我妻榮ほか『我妻・有泉コンメンタール民法 総則・物権・債権』〔日本評論社、第6版、令元〕328頁参照)。
しかし、何が法律上の障害で、何が事実上の障害にすぎないのかは、規範的価値判断を孕むものであり、一義的に決まるものではありません。
特に、安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求が問題となる局面においては、いつ請求が可能になったのかの判定が微妙であることが少なくありません。中でも顕著に問題になるのが、安全配慮義務違反と目される作為・不作為があった時と、被害者の死亡の時点との間にかなり長期の時間的隔絶がある場合です。こうした場合、時効の起算点はどのように理解されるのでしょうか?
近時公刊された判例集に、この問題について言及した裁判例が掲載されていました。大阪高判令元.7.19労働判例1220-72 住友ゴム事件 です。
2.住友ゴム事件
本件はいわゆる塵肺の事件です。
原告になったのは、タイヤ製造業務に従事していた時に作業工程から発生するアスベスト等に曝露し肺癌等に罹患した人や、その遺族の方です。肺癌等に罹患したり、肺癌等で死亡したりしたのは、安全配慮義務の不履行が原因だとして勤務先に損害賠償を求める訴えを起こしたのが本件です。
本件では消滅時効の起算点が争点の一つになり、この点について、裁判所は次のように判示しました。
(裁判所の判断)
「雇用契約上の付随義務としての安全配慮義務の不履行に基づく損害賠償請求権の消滅時効期間は10年であり(民法167条1項)、この10年の時効期間は損害賠償請求権を行使できるときから進行する。」
「安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権は、原則として、その損害が発生した時に成立し、同時に、その権利を行使することが法律上可能になるというべきであって、権利を行使し得ることを権利者が知らなかった等の障害は、時効の進行を妨げることにはならないというべきである。」
「そうすると、亡C及び亡Eの債務不履行に基づく損害賠償請求権は、亡C及び亡Eにそれぞれ客観的な損害が発生した時から進行し、遅くとも、各人が死亡した日から消滅時効期間が進行しているというべきである。上記起算点は、亡Cにつき平成12年4月25日、亡Eにつき同年1月26日である。」
3.死亡時点から起算されると理解できる可能性がある
裁判所が起算点として認定した平成12年4月25日、同年1月26日は、それぞれ亡C、亡Dの死亡日にあたります。塵肺の事件では、曝露から肺癌等による死亡との間に長期間の隔絶があることが珍しくありませんが、裁判所は死亡時点から消滅時効が起算される余地を認めたことになります。
本件は塵肺という特異性の強い事案での判示事項ではあります。
しかし、裁判所が示した考え方は、
ハラスメントで精神疾患に罹患して、暫く経った後に自殺に至ったような場合や、
継続的なハラスメントを長期間に渡って受け続けて精神疾患に罹患した時に、かなり昔に遡ってハラスメントの適法性を問題にしたい場合
などにも、広く応用できる可能性があるのではないかと思われます。