1.積み重なった既成事実の重み
一般論として言うと、不本意な合意を押し付けられても、時間が経つと争うことは難しくなります。不服を述べなかったという既成事実の積み重ねが、合意に納得していたという方向に、裁判所の心証を傾けさせるからです。
しかし、賃金減額の合意に関しては、ある程度昔のものでも、蒸し返して争うことができます。近時公刊された判例集に掲載されていた、大阪地判令2.2.28労働判例ジャーナル99-26 アクアライン事件 も大分以前の賃金減額の合意の効力が否定された事案の一つです。
2.アクアライン事件
本件の被告になったのは、大型トラックを保有し、同車両を用いた運送業務を行う株式会社です。
原告になったのは、被告と労働契約を締結している複数の労働者です。
被告の労務管理にはかなりの問題があり、原告らは被告に対して複数の請求を行っています。
その中の一つが原告cによる未払賃金請求です。
原告cの賃金は、当初、月額44万7500円でしたが、平成28年9月5日に賃金月額を38万円とする旨の記載のある「給与辞令」に押印し、同年10月分以降の賃金は月額38万円とされました。
その後、本件は、1年ほど既成事実が積み重なり、平成29年9月11日ころ、組合が被告に対して原告らに未払賃金を支払うように要求し、平成29年10月13日ころ、原告らが直接被告に対して未払賃金の支払を請求したという経過が辿られています。原告らによる訴訟提起は、平成30年2月13日とされています。
こうした事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、賃金減額の効力を否定しました。
(裁判所の判断)
「賃金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも判断されるべきものと解される(最高裁平成28年2月19日第二小法廷判決・民集70巻2号123頁参照)。」
「証拠・・・及び弁論の全趣旨によれば、原告cは、平成28年9月、被告代表者に突然呼び出され、給与を手取り38万円(額面44万7500円)から額面38万円に減額すると告げられたこと、その際、理由については説明がなく、同意しなければ辞めてもらうと言われたこと、そのため、同原告は、やむを得ず、その翌日、同年11月から給与を上記のとおり減額する旨の記載がある給与辞令に押印したことが認められる。他方、被告は、合通に対する売上の減少が上記賃金減額の理由である旨主張するが、被告において上記賃金減額の理由を原告cに説明したことや、そもそも合通に対する売上が減少したことを認めるに足りる的確な証拠はない。」
「上記で認定した事情を踏まえると、原告cは、上記賃金減額に形式的には同意したといえるものの、これによって同原告の給与は額面で6万7500円(約15%)減少することになり、不利益の程度は大きいといえること、それにもかかわらず、被告からその理由については説明がなく、実際に合理的な理由が存在したとも証拠上認め難いこと、さらに、被告からは同意しなければ辞めてもらう旨告げられていたことに照らせば、上記賃金減額に対する原告cの同意が、同原告の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するとは到底認められず、上記賃金減額について、同原告の実質的な同意があったとはいえない。」
「そうすると、被告は、原告cに対し、上記賃金減額の後も、減額前の賃金の支払義務を負っていたというべきであり、減額後の賃金との差額・・・の支払義務があるといえる。」
3.自由な意思の法理は結構昔のことまで蒸し返せる
アクアライン事件では、労働者が賃金減額の効力を争うまでに1年近くの既成事実が積み重なっていました。
しかし、こうした既成事実の積み重なりが、裁判所で重視されることはありませんでした。確かに、既成事実の点は被告側から明示的に主張されているわけではありませんでしたが、合意当初から問題のあることを認識しながら押印し、約1年にも渡ってもそれを放置しながら、なお合意の効力を争えるというのは、労働事件を離れた紛争領域においては、それほど一般的ではないように思われます。
自由な意思の法理には、真意を表明することが困難であることから発展してきたという面もあります。そのため、在職中で真意を表明することが困難である限り、時間が経っても、過去に遡って合意の効力を問題にすることが否定されるべきではないという理解に馴染みやすいのだと思います。
過去、変な合意をしてしまったものの、釈然としない思いをお抱えの方は、未払賃金の請求の可否を、一度、弁護士に相談してみても良いのではないかと思います。特に、在職中の事案では、割と昔の合意であったとしても、争える可能性があるのではないかと思われます。