弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

精神科の既往歴のない方の自殺事案-行動力を振り絞ってでも生前の状況の速やかな記録化を

1.自殺事案の労災申請の特殊性(精神障害の立証)

 自殺が労災であるとして遺族が労災保険給付を受給するためには、自殺者が精神障害を発症していたことを立証する必要があります。

 これは、労働者災害補償保険法12条の2の2第1項が、

「労働者が、故意に負傷、疾病、障害若しくは死亡又はその直接の原因となつた事故を生じさせたときは、政府は、保険給付を行わない。」

と規定していることに理由があります。

 本項を字義通りにあてはめると、死の結果を認識・認容・意図したうえで行われる自殺は、故意に死亡結果を生じさせたときに該当するため、保険給付の対象にならなくなります。

 しかし、自殺を労災保険給付の対象から画一的に除外することは明らかです。

 そのため、厚生労働省は、

基発第545号 平成11年9月14日 「精神障害による自殺の取り扱いについて」

という文書を発出し、労働者災害補償保険法12条の2第1項の「故意」について、

「業務上の精神障害によって、正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又は自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたと認められる場合には、結果の発生を意図した故意には該当しない。」

との解釈を示しています。

https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/090316.html

https://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken04/dl/090316d.pdf

 行政実務にしても裁判実務にしても、こうした理解を前提に運営されているため、自殺者の遺族が労災認定を申請するにあたっては、前提として自殺者が精神障害を発症していたことを立証する必要があるのです。

2.自殺者に精神科の既往歴がない場合、どうするのか。

 自殺者に精神科を受診した既往歴がある場合、精神障害を発症していたことを立証するにあたり、それほどの不都合はありません。

 しかし、精神科を受診することもなく、突然、自殺してしまったケースでは、どうなるのでしょうか。この場合、労災認定を受けられる余地は、なくなってしまうのでしょうか。

 結論から申し上げると、そのようなことはありません。

 精神科の既往歴がない場合、同僚や家族の供述などから、自殺者がどのような行動をしていたのかを探求して行くことになります。そうして集められたエピソードの一つ一つを精神障害の診断基準にあてはめて、自殺が業務上の精神障害によって行われたと認められるかどうかを判断して行くのです。

 医師による問診ができないこともあり、こうした形での精神障害の立証が一般論として困難であることは否定できません。

 しかし、こうした立証が奏功した裁判例は、定期的に公表されています。

 近時の公刊物に掲載されていた、福井地判令2.2.12労働判例ジャーナル98-24 国・敦賀労基署長(適応障害)事件も、そうした事案の一つです。

3.国・敦賀労基署長(適応障害)事件

 本件は労災の不支給処分の取消訴訟です。

 原告になったのは、自殺したP5の母親です。

 P5は不動産会社の関連会社に出向していた方です。平成24年8月3日に自宅において自殺しました。

 遺書には、

「もう、これ以上こき使われるのにはつかれた。P5」

と記載されていました。

 ただ、P5に精神疾患に係るの既往歴はありませんでした。

 原告の方は、自殺に業務起因性があることを前提に、遺族補償年金及び葬祭料の各支給申請をしました。しかし、処分行政庁は、P5に精神障害は発生していないとして、遺族補償年金及び葬祭料を不支給とする処分(本件処分)を行いました。

 審査請求、再審査請求が棄却されたため、本件処分の取消訴訟を提起したという経過が辿られています。

 これに対し、裁判所は、次のとおり述べて、精神障害の発症の事実を認定しました。結論としても、原告の請求を認容し、本件処分を取り消すとの判決を言い渡しています。

(裁判所の判断)

-うつ病エピソードについて-
「ISD-10診断ガイドラインによれば、うつ病エピソードのうち、軽症うつ病エピソードについての診断基準は、〔1〕抑うつ気分、〔2〕興味と喜びの喪失、〔3〕活動性の減退による易疲労感の増大や活動性の減少のうち、少なくとも2つを満たす必要があることが認められる。」
「しかし、・・・原告が指摘する事実のうち、平成24年3月又は4月頃、P5が不眠を訴えていたこと、同年6月28日午後8時頃、P5が原告宅に突然トラックで乗り付け、玄関の戸を外して道路に投げつけるということがあったこと、P5が同年8月2日にP7から叱責を受けた後、イライラしている様子であったこと、その翌日電話において元気のない声であったこと、P5が自殺前に本件遺書を作成したことは認められるものの、P5について、上記〔1〕ないし〔3〕の症状発生をうかがわせる事情は認められない。」
「むしろ、上記認定事実のとおり、本件浜茶屋従業員やP12が、上記の点を除き、P5の様子について普段と変わった様子を感じなかったというのであるから、P5について、上記〔1〕ないし〔3〕の症状があったとは認められないものというべきである。」
「これに対し、原告は、平成24年6月以降のP5の様子から、上記〔1〕ないし〔3〕を満たす旨主張し、原告本人尋問及び陳述書ないし聴取書・・・において、P5の様子・・・に関する供述を行い、証人P17も証人尋問及び陳述書・・・において、P5の様子・・・に関する供述を行っているが、・・・同月以降、本件自殺までの間、原告がP5と同居し、その様子をつぶさに観察していたものとは認められないこと、原告、P17いずれの供述もこれを裏付けるに足りる証拠がないから、原告及びP17の供述は採用できない。」
「以上より、P5がうつ病エピソードを発症していた事実は認められない。」
-適応障害について-
「適応障害の診断基準として、ICD-10DCRがあり、これによると、〔1〕症状発症前の1か月以内に、心理社会的ストレス因を体験した(並外れたものや破局的なものではない)と確認されていること(診断基準A)、〔2〕症状や行動障害の性質は、気分(感情)障害やF40-F48の障害(神経症性、ストレス関連性及び身体表現性障害)及び後遺障害(F91.-)のどれかに見られるものであるが、個々の診断要件は満たさない、症状はそのありようも重症度もさまざまであること(診断基準B)、〔3〕上記各症状は、遷延性抑うつ反応(F43.21)を除いて、ストレス因の停止またはその結果の後6か月以上持続しないこと(しかし、この診断基準がまだ満たされない時点で、予測的に診断することはかまわない)(診断基準C)が診断基準となる。なお、適応障害については、ICD-10DCR以外の診断基準も存在するものの、認定基準専門検討会報告書において、「アメリカ精神医学会による基準(DSM-〈4〉-TR)などほかの診断基準を否定するものではない」・・・とされていることから、ICD-10DCRの基準によるのが相当である。」
「・・・P5は、平成24年6月の本件浜茶屋開業後、P7からたびたび叱責を受けており、また、同年8月2日には不動産登記の名義変更に関する書類の不備に関して叱責され、『後の処理のことはお前には頼まん。』と言われたこと、同日以前の1か月時間外労働時間が100時間を超えていたことが認められる。」
「これらの事実によれば、P5が心理社会的ストレス因を体験した(並外れたものや破局的なものではない)ものと認めるのが相当であるから、P5について診断基準Aを満たしているものと認められる。」
「上記認定事実によれば、平成24年8月2日以降、P5にはイライラしている様子や、声に元気がなくなった様子が認められるとともに、P5が同月3日に三和不動産事務所に出勤することになっていたにもかかわらず出勤せず、『もう、これ以上こき使われるのにはつかれた。P5』と記載した本件遺書を残して自殺したことが認められる。」
「とすれば、同日頃のP5には、前記前提事実記載の適応障害の症状のうち、少なくとも、無気力、統制のとれない行動、不機嫌などの攻撃的傾向、欠勤という問題行動があったことが認められ、かつ、これらの症状が気分(感情)障害やF40-F48の障害(神経症性、ストレス関連性及び身体表現性障害)及び後遺障害(F91.-)の診断基準を満たしていることは認められない。」
「そうとすれば、P5について診断基準Bを満たしているものと認められる。」
「・・・P5の症状が現れたのが平成24年8月2日以降であり、その翌日に本件自殺が発生したことに照らせば、予測的診断として診断基準Cを満たすものと認めるのが相当である。」
「以上によれば、P5について、適応障害の診断基準を満たしていたことが認められ、上記認定事実のとおり、平成24年8月2日以降、P5がイライラしたり、その声に元気がなくなっていたこと、その翌日には欠勤して、本件遺書を作成の上、自殺に至っていることからすれば、P5の適応障害発症時期は遅くとも同月2日であったものと認めるのが相当である。」
「これに対し、被告は、P5には精神障害を疑わせる症状は認められなかったと主張し、本件意見書・・・及びP16鑑定・・・にもこれに沿う記載がある。」
「しかし、本件意見書及びP16鑑定は、同月2日以降のP5の精神障害(適応障害)発症の有無について十分に検討しているものではないから、上記・・・の判断を左右しない。」
「また、被告は、本件遺書の記載について、誰にどのようにこき使われたのか、何が原因となって疲れたのかが判然としない以上、本件遺書をもってP5が精神障害を発症したとの積極的証明とはならないと主張しているが、上記認定事実のとおり、本件自殺前のP5の時間外労働時間が100時間を超えていたことや、P5がP7からたびたび業務上の指示ないし叱責を受けていたことが認められる反面、本件各会社の業務以外にP5の疲れの原因となる事実は認められない。そうすると、P5の疲れの原因は本件各会社における業務であると認めるのが相当であるから、被告の主張は採用できない。」
「ほかに、被告は、P5が本件各会社の業務の負荷により精神障害を発症していないことの証拠として聴取書(福井労働局地方労災補償監察官)・・・を提出する。本件聴取書は、P5が業務による強い心理的負荷を受けていなかったことを前提として作成されたものであるところ、上記認定事実のとおり、P5が1か月につき100時間を超える時間外労働を行っていたことやP7による叱責があったことが認められ、これらの事情は適応障害発症の有無の検討に当たって考慮されるべきであるが、本件聴取書においては検討された形跡がないことからすれば、その内容は採用できない。」

4.生前の状況の速やかな記録化が何よりも重要

 上述のとおり、裁判所は、生前の様々なエピソードを事実として認定したうえ、それをもとに精神障害を発症していたと認定できるのかを検討しています。

 結果、うつ病エピソードへの該当性は否定しましたが、適応障害を発症していたことは認めました。

 こうした判断構造から分かるとおり、精神科の既往歴のない方の自殺事案において、遺族が労災給付を受けるためには、自殺者の生前の行動に関するエピソードをどれだけ豊富に準備できるのかが極めて重要な意味を持ってきます。エピソードが豊富にあれば、本件のように、うつ病エピソードのルートが塞がれても、適応障害による救済のルートを見出せることがあるからです。

 家族にしても同僚にしても、人の記憶はどんどん薄れて行くのが通常です。日常の中での細かなエピソードであれば猶更です。また、職場の方の協力を得ることは、時間が経てばたつほど難しくなるのが一般です。そのため、厳しいことを言うようですが、自殺事案においては、気持ちに整理ができていなかったとしても、とにかく早い段階で事実を調査・収集することが重要になります。

 こうした情報が参考になる場面には出くわさない方がいいに決まっていますが、遺族の生活を守るために、労災は重要な役割を果たしています。

 仕事に起因する心理的な負荷が原因で自殺したのではないか、そうした疑念を持たれた方は、行動力を振り絞ってでも、できるだけ早く弁護士に相談しておくことをお勧めします。それは、動き出すスピードによって、事件の帰趨が分かれてきてしまう可能性の高い紛争類型であるという厳然とした現実があるからなのです。