弁護士 師子角允彬のブログ

師子角総合法律事務所(東京:水道橋駅徒歩5分・御茶ノ水駅徒歩7分)の所長弁護士のブログです

会社の同意のない退職には、退職金を支払う必要はない?(公序良俗と労契法7条)

1.存在感のない条文-労働契約法7条

 労働契約法7条本文は、

「労働者及び使用者が労働契約を締結する場合において、使用者が合理的な労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合には、労働契約の内容は、その就業規則で定める労働条件によるものとする。」

と規定しています。

 これは労働契約の締結時点に存在する不合理な就業規則から労働者を守るためのルールです。入社した会社に不合理な労働条件を定める就業規則があったとしても、そうした不合理な就業規則に労働者が拘束されることはありません。

 しかし、実務上、労働契約法7条を用いて法律論を組み立てて行くことは、あまりありません。「合理性」の認定が極めて緩やかになされているため、労働者を保護するためのツールとしての使い勝手が良くないからです。

 菅野和夫『労働法』〔弘文堂、第12版、令元」206-207頁も、

「この合理性は、就業規則が定める当該の労働条件それ自体の合理性であり、・・・就業規則の変更の内容とプロセスの全体にわたる総合判断としての合理性とは異なる。就業規則が定める労働条件それ自体の合理性は、・・・労働者が就業規則を前提とし、これを受け入れて採用されたという状況のなかで問題となる合理性なので、企業の人事管理上の必要性があり、労働者の権利・利益を不相当に制限していなければ肯定されるべきものといえよう。裁判例上も、この合理性が否定されたことはほとんどない。

としています。

 こうした背景があることから、労働契約法7条は、あまり存在感のある条文にはなっていません。

2.労働契約法7条が適用された事案

 上述のとおり存在感のない条文ではあったのですが、近時の公刊物に、労働契約法7条が適用されて就業規則の効力が否定された事案が掲載されていました。

 東京地判令元.10.17労働判例ジャーナル97-38 芝海事件です。

 本件は自己都合退職した労働者5名が、旧勤務先を被告として、退職金の支払いを請求した事件です。

 被告会社の就業規則は独特で、

「51条(判決注:解雇及び解雇事由に関する規定)及び54条によって解雇若しくは退職し、又は在職中に死亡した者には退職手当を支給する」

という建付けになっていました。

 上記の「54条」というのは、

「退職(定年退職を除く。)しようとするときは、所属長を経て退職事由及び期日を明記して2週間前までに退職願を提出して会社の同意を得なければならない。会社の同意を得て退職するものを円満退職と略称する・・・。」

という規定を指します。

 また、被告の給与規程には、

「就業規則54条の退職手続をせず退社又は他に就労,就職した者については支給しないことがある」

との定めもありました。

 要するに、被告会社の同意のある円満退職でなければ、退職手当は支給しないことがあるという制度設計であったということです。

 被告会社の同意を得ていなかったため、原告らには退職金が支払われませんでした。こうした会社側の措置を受けた原告らが、就業規則の該当の規定が無効であると主張し、被告に対して退職金を請求したという流れになります。

 原告らが展開した法律論は、被告が退職に同意しない場合には退職手当を支給しないことがあるとの規定は、退職の事由を大幅に制限するものであるから、公序良俗に反し無効である(民法90条)というものでした。

 これに対し、裁判所は次のとおり判示し、就業規則の効力を否定しました。結論としては、自己都合退職した場合に相当する退職金の請求を認めています。

(裁判所の判断)

「就業規則54条は退職しようとするときは被告の同意を得なければならない旨定めるところ、この規定にかかわらず辞職の意思表示が被告に到達すれば雇用契約終了の効果が生ずるのであるから(民法627条1項)、就業規則54条の退職手続をしなかったことを退職手当の不支給事由と定めても直接的に退職の自由が制限されるものとはいい難い。しかしながら、被告の給与規程上、退職手当の額は、定年退職の場合と自己都合退職の場合とで異なるものの、職勤続年数に概ね比例するように定められていることに照らすと・・・、被告における退職手当は功労報償的な性格を有するのみならず、賃金の後払い的性格を有するものであるということができる。このような退職手当の性格に鑑みると、就業規則54条に定める退職手続によらないということのみを退職手当の不支給事由とすることは、労働条件として合理性を欠くものというほかない(労働契約法7条参照)。
 「したがって、給与規程12条1号ただし書のうち就業規則54条の退職手続をしなかったことを退職手当の不支給事由とする部分は無効である(原告らは公序良俗違反による無効を主張するが、就業規則の合理性も争っていることが明らかである。)。」

3.公序良俗と労働契約法7条

 民法90条は、

「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」

と規定しています。俗に公序良俗違反による無効と呼ばれる法律構成です。

 しかし、こうした漠然とした条項に依拠しなければ法律論を組み立てられない事件は敗訴することが多いです。これ以外に思いつく理屈がない時に、仕方なく展開するのが公序良俗違反による無効という立論です。

 本件の原告も、労働契約法7条を思いつかなかったため、公序良俗違反による無効という立論を展開したのだと思われます。

 しかし、裁判所は、労働契約法7条を引用して、労働者を救済する判断を示しました。

 公序良俗違反により無効となる範囲と、労働契約法7条違反により無効となる範囲との関係性については、私の知る限り明示的に論じた文献がなく、あまり良く分かっていません。

 しかし、裁判所が、公序良俗違反ではなく、敢えて労働契約法7条を引用したことは、公序良俗違反で無効となる範囲よりも、労働契約法7条で無効となる範囲の方が広いことを示唆しているように思われます。

 そう考えると、存在感がないからといって忘れてしまうのはやはり危険で、労働契約契約締結当時の就業規則の規定が不合理であった場合に労働者を守るためのツールとして、労働契約法7条の存在は、しっかりと意識しておく必要があるように思います。